傷つけたくない
今思えば、私は彼が本気で怒ったところなんて見たこともなかったのだろう。ぷんぷんと擬音のつきそうな可愛らしい怒り方をするようなイメージがあったけれど、それが本気でないことなんて明白だ。現に目の前にいる彼の瞳の冷たさと鋭さときたら、もう頭が真っ白になって言葉が出ないほど恐ろしい。
彼の怒りの理由については心当たりがあった。今日は仕事の付き合いで飲みに行っていたのだ。さっさと帰ってきたとはいえ、いつもより帰宅はいくらか遅かった。前もって連絡はしていたとはいえ、帰宅が遅くなったことを怒っているのかもしれない。けれど遅くなっただけでこんなに怒るだろうか、という疑念もあった。
もし見当違いなことを謝った場合、「何に怒っているのかわかっていない」ことに対して更に激しい怒りを招きかねない。結果、彼に見下ろされたままだんまりを決め込む形になってしまっている。
「……突っ立ってないで早くシャワーを浴びてきたら?」
「へ、あ……うん、でも……」
「なに? 言いたいことがあるならハッキリ言ってほしいね」
「……ひ、日和くん、怒ってるから……そのままにしてシャワー浴びてくるのはなんか、やだ……」
素直に心の内を話すと、彼はため息をついて私の髪に触れた。そして忌々しげに眉間に皺を寄せ、ひとつくくりにしていた髪ゴムをほどく。
「どうせ気づいてないだろうから教えてあげるけどね。きみ、今すご〜く知らない男の匂いがするんだよね。別にきみを疑っているわけじゃないけれど、ぼくのものに勝手に知らない匂いをつけられるのは不愉快だね」
日和くんはそう言って私の髪の隙間に指を滑り込ませ手ぐしで髪を整えた。そこでハッと気がつく。そういえば飲み会の最中、随分香水のキツい男性がずっと隣にいた。多分そこで匂いがうつってしまったのだろう。
確かに逆になって考えてみれば、やっと帰ってきた恋人が他の人の香水の匂いをうつして帰ってきたら私だって嫌な気分になる。傷つけてしまったのだと悟ると急に泣きたいくらい悲しくなってきた。
「ごめんね……お風呂入ってくるね」
「待って」
すぐ匂いを落とそうと彼の手から離れると、思いもよらず手首を掴まれる。
「いいこと思いついちゃったね! 今日はこのぼくがきみを丁寧に洗ってあげるね♪」
「え……いや良いです、早くシャワー浴びて戻ってくるから、待ってて」
「だぁめ、もう決まっちゃったからね! ぼくをこんな気持ちにさせたんだから、きみにはぼくの望みを叶える義務があると思うけどね?」
「う……わかった……」
よろしい、と彼は満足気に笑って私の手を引っ張った。彼はもうお風呂を済ませていたはずなのに、わざわざ私と一緒に入り、しかも恋人同士というよりは良くて親子、実際にはペットと飼い主のような感じで洗われてしまった。
けれどお風呂を済ませてふかふかのバスタオルで包み込まれたとき、タオルの隙間から見えた彼の表情はいつもどおり優しく温かだった。本気で怒っていたとは言っても、やっぱり手加減してくれているのだろうと思う。
そんな優しいひとをもう怒らせたり傷つけたりしないよう、今後はもっと気をつけよう……と内心自戒するのだった。
彼の怒りの理由については心当たりがあった。今日は仕事の付き合いで飲みに行っていたのだ。さっさと帰ってきたとはいえ、いつもより帰宅はいくらか遅かった。前もって連絡はしていたとはいえ、帰宅が遅くなったことを怒っているのかもしれない。けれど遅くなっただけでこんなに怒るだろうか、という疑念もあった。
もし見当違いなことを謝った場合、「何に怒っているのかわかっていない」ことに対して更に激しい怒りを招きかねない。結果、彼に見下ろされたままだんまりを決め込む形になってしまっている。
「……突っ立ってないで早くシャワーを浴びてきたら?」
「へ、あ……うん、でも……」
「なに? 言いたいことがあるならハッキリ言ってほしいね」
「……ひ、日和くん、怒ってるから……そのままにしてシャワー浴びてくるのはなんか、やだ……」
素直に心の内を話すと、彼はため息をついて私の髪に触れた。そして忌々しげに眉間に皺を寄せ、ひとつくくりにしていた髪ゴムをほどく。
「どうせ気づいてないだろうから教えてあげるけどね。きみ、今すご〜く知らない男の匂いがするんだよね。別にきみを疑っているわけじゃないけれど、ぼくのものに勝手に知らない匂いをつけられるのは不愉快だね」
日和くんはそう言って私の髪の隙間に指を滑り込ませ手ぐしで髪を整えた。そこでハッと気がつく。そういえば飲み会の最中、随分香水のキツい男性がずっと隣にいた。多分そこで匂いがうつってしまったのだろう。
確かに逆になって考えてみれば、やっと帰ってきた恋人が他の人の香水の匂いをうつして帰ってきたら私だって嫌な気分になる。傷つけてしまったのだと悟ると急に泣きたいくらい悲しくなってきた。
「ごめんね……お風呂入ってくるね」
「待って」
すぐ匂いを落とそうと彼の手から離れると、思いもよらず手首を掴まれる。
「いいこと思いついちゃったね! 今日はこのぼくがきみを丁寧に洗ってあげるね♪」
「え……いや良いです、早くシャワー浴びて戻ってくるから、待ってて」
「だぁめ、もう決まっちゃったからね! ぼくをこんな気持ちにさせたんだから、きみにはぼくの望みを叶える義務があると思うけどね?」
「う……わかった……」
よろしい、と彼は満足気に笑って私の手を引っ張った。彼はもうお風呂を済ませていたはずなのに、わざわざ私と一緒に入り、しかも恋人同士というよりは良くて親子、実際にはペットと飼い主のような感じで洗われてしまった。
けれどお風呂を済ませてふかふかのバスタオルで包み込まれたとき、タオルの隙間から見えた彼の表情はいつもどおり優しく温かだった。本気で怒っていたとは言っても、やっぱり手加減してくれているのだろうと思う。
そんな優しいひとをもう怒らせたり傷つけたりしないよう、今後はもっと気をつけよう……と内心自戒するのだった。