音
ざわめく夜の街中で私はふと足を止めた。それにつられて隣を歩いていた零も立ち止まり、少し屈んで私の視線の先を追う。そこには一台のグランドピアノがぽつんと佇んでいた。自由に試し弾きができるように置いてあるらしい。
「ピアノ? 弾けんだっけ?」
「えぁ、ううん。聴くのは好きなの」
「ふーん……じゃ、せっかくだし零ちゃんが聴かせてやるよ」
零はニッと得意げに笑い、私の手を引いてピアノに近づいた。そして椅子に腰掛け、足をペダルの位置に合わせるとひと呼吸置いてから鍵盤に触れる。
彼の細く形の良い指先が、まるで彼自身とは別の生き物のように鍵盤のうえを跳ね踊る。それに合わせてピアノから発せられる音は、私の耳からそのほかのすべての雑音を奪い去って、私はただ音を聴くだけに生きる空洞になる。
街のざわめきも、風の音や車の音も──自分の心音や呼吸でさえ聞こえなかった。耳はひたすら彼が紡ぎだす音色だけを必死に拾い上げようとしている。
彼が何の曲を弾いているのかはわからなかった。私が茫然と立ち尽くしていると、零はちらりとこちらに視線を向けた。その表情は心底楽しげで、音楽の強弱や浮き沈みや色に合わせて彼の身体も自然と踊るように動くのが印象的だった。今この瞬間、きっと彼はピアノとひとつになっている。
一体どれくらい弾いていたのだろう、彼がようやく手を止めたので我にかえると、周りは人でいっぱいだった。喝采が彼を包み込み、私は人ごみに押しつぶされそうになる。零は軽くお辞儀をすると深くフードを被り、私の手を引いて逃げるように駆け出した。
「ど〜だった?」
人ごみを離れる途中、零は振り返って自信ありげに問いかけてきた。私の心臓は今さらドキドキと速まって、受け取った感動も激情も、なにひとつ言葉にはできなかった。けれど顔を赤くして言葉に悩む私を見て、彼は満足そうに笑ってくれた。
そのときの笑顔も、外気に拡散していったピアノの音も、ずっと忘れられない。死ぬ前に思い出すのはきっとこういう思い出なのだろうと、彼に手を引かれながら私はそう確信した。
「──昔、外でピアノ弾いてくれたこと、あったよね。覚えてる?」
目の前の綺麗なグランドピアノを指先で慎重に撫でながら、私はふとそんな思い出話を切り出した。ピアノは彼の家に昔からあるものらしく、それにしては随分綺麗に手入れがなされていた。零は少し照れくさそうに笑う。
「そんなこともあったのう……あの頃はおぬしに喜んでほしくて、というよりは格好をつけたくて必死だったからの」
「今は違うの?」
「今は、おぬしに喜んでほしい、幸せにしたいというほうが強いから少しは成長しておるよ」
「そうなんだ。ふふ、なんか照れるね」
ピアノの内部にはいくつもの弦が張られていて、詳しいことはわからないけれど、とにかく鍵盤を押すとこの弦が叩かれて音が鳴るようになっているらしい。長い年月を彼と過ごしたピアノに触れながら、何となく思ったことをそのまま素直に口にした。
「あのとき私、すごく感動したの。楽しそうに跳ねる音のひとつひとつが全部、なんていうかすごく……すごく魅力的で……それに零が気持ちよさそうに弾くから尚更、聴いてて楽しかった」
「うむ……なんだか改めて言われると照れくさいのう。我輩、ピアノはまぁ、そこそこじゃよ? プロレベルではないというか」
「……でも感動したよ。音楽ってこういうものなんだって思った。それで羨ましいなって思ったの、私はピアノは弾けないから……こんなに上手に気持ちよく弾けて良いなあって」
パタパタと、窓をうつ雨音が聴こえる。本当はあのとき、揺さぶられた感情の奥にほんの少しの曇りがあった。彼がピアノを弾くのを見て、遠いなあ、と思ってしまった。
自分のできないことを平然とやってのける姿にそう感じたのか、それとも彼にしか見えない世界が音楽の向こうにあるように思えたからなのかはわからない。とにかくどうしようもなく寂しいような気持ちが、心の奥底に滲んだのだ。我にかえったとき、私は大勢いる聴衆のうちのほんの一人に過ぎなかった。
「……おいで」
私の心の機微を察したのか、零は椅子の端に腰掛け、私を呼んだ。戸惑いつつも近寄り隣に腰を下ろす。目の前には白と黒の綺麗な鍵盤がある。
「手を」
「……弾けないよ?」
「大丈夫じゃよ」
優しい声と眼差しに誘われるまま、恐る恐る、ピアノの鍵盤に触れた。それはひたりと冷たく硬くて、けれど私を拒まず、触れた親指を押してみればまろやかな音がポーンと部屋に鳴り響いた。
「ここがド、それで黒鍵が半音上の音じゃ」
「う、うん」
「こことここ……親指と中指で押して、そう、じゃあ薬指もここに」
何を教えられているのかはわからなかった。零はただ穏やかな声で、時折私の右手に触れながら押さえる鍵盤の音を指定した。そしてゆっくり一定のリズムでその場所を押すようにと言いつけられた。
「指がつりそう」
「くく、しばらく我慢しておくれ」
零はそう言って私に微笑みかけると、あのときのようにひと呼吸置いて、両手を鍵盤のうえに乗せた。私が拙く音を鳴らすのに合わせて、彼の指先が音を紡ぎあげる。
あのとき彼が弾いていた曲よりずっとゆっくりな曲だった。鍵盤を慈しむように指先が沈む。私はそれに見とれながらも、さっき言われた音を間違えず規則通りに鳴らせるよう意識を張り詰めていた。
零は何にも言わなかった。でも時折隣にいる私を見て幸せそうに微笑みながら、私に合わせて音を紡いでくれた。それがたまらなく嬉しくて、私は我慢できずに泣いてしまった。ぽたぽたと涙が頬を伝って滑り落ちる。優しい音色が身体を包み込んで、私と零とピアノが全部混ざりあってひとつになっていく。寂しさなんて言葉はすっかり私の中から消えてしまった。
やがて曲が終わる。終わるタイミングなんて知らなかったのに、なぜか「ああもう終わるんだ」と直感でわかった。彼と同じタイミングで手を止め、ほうとため息をついた。涙を拭って彼を見上げれば、彼は優しく私の頬を撫でてキスをしてくれた。
何か言おうとも一瞬思ったけれど、もう言葉にするまでもなく全部分かち合えているような気がしていたので、余計なことは言わずに彼を抱き締めた。すると彼もやはり何も言わず、ただ私を抱き返してくれたのだった。
「ピアノ? 弾けんだっけ?」
「えぁ、ううん。聴くのは好きなの」
「ふーん……じゃ、せっかくだし零ちゃんが聴かせてやるよ」
零はニッと得意げに笑い、私の手を引いてピアノに近づいた。そして椅子に腰掛け、足をペダルの位置に合わせるとひと呼吸置いてから鍵盤に触れる。
彼の細く形の良い指先が、まるで彼自身とは別の生き物のように鍵盤のうえを跳ね踊る。それに合わせてピアノから発せられる音は、私の耳からそのほかのすべての雑音を奪い去って、私はただ音を聴くだけに生きる空洞になる。
街のざわめきも、風の音や車の音も──自分の心音や呼吸でさえ聞こえなかった。耳はひたすら彼が紡ぎだす音色だけを必死に拾い上げようとしている。
彼が何の曲を弾いているのかはわからなかった。私が茫然と立ち尽くしていると、零はちらりとこちらに視線を向けた。その表情は心底楽しげで、音楽の強弱や浮き沈みや色に合わせて彼の身体も自然と踊るように動くのが印象的だった。今この瞬間、きっと彼はピアノとひとつになっている。
一体どれくらい弾いていたのだろう、彼がようやく手を止めたので我にかえると、周りは人でいっぱいだった。喝采が彼を包み込み、私は人ごみに押しつぶされそうになる。零は軽くお辞儀をすると深くフードを被り、私の手を引いて逃げるように駆け出した。
「ど〜だった?」
人ごみを離れる途中、零は振り返って自信ありげに問いかけてきた。私の心臓は今さらドキドキと速まって、受け取った感動も激情も、なにひとつ言葉にはできなかった。けれど顔を赤くして言葉に悩む私を見て、彼は満足そうに笑ってくれた。
そのときの笑顔も、外気に拡散していったピアノの音も、ずっと忘れられない。死ぬ前に思い出すのはきっとこういう思い出なのだろうと、彼に手を引かれながら私はそう確信した。
「──昔、外でピアノ弾いてくれたこと、あったよね。覚えてる?」
目の前の綺麗なグランドピアノを指先で慎重に撫でながら、私はふとそんな思い出話を切り出した。ピアノは彼の家に昔からあるものらしく、それにしては随分綺麗に手入れがなされていた。零は少し照れくさそうに笑う。
「そんなこともあったのう……あの頃はおぬしに喜んでほしくて、というよりは格好をつけたくて必死だったからの」
「今は違うの?」
「今は、おぬしに喜んでほしい、幸せにしたいというほうが強いから少しは成長しておるよ」
「そうなんだ。ふふ、なんか照れるね」
ピアノの内部にはいくつもの弦が張られていて、詳しいことはわからないけれど、とにかく鍵盤を押すとこの弦が叩かれて音が鳴るようになっているらしい。長い年月を彼と過ごしたピアノに触れながら、何となく思ったことをそのまま素直に口にした。
「あのとき私、すごく感動したの。楽しそうに跳ねる音のひとつひとつが全部、なんていうかすごく……すごく魅力的で……それに零が気持ちよさそうに弾くから尚更、聴いてて楽しかった」
「うむ……なんだか改めて言われると照れくさいのう。我輩、ピアノはまぁ、そこそこじゃよ? プロレベルではないというか」
「……でも感動したよ。音楽ってこういうものなんだって思った。それで羨ましいなって思ったの、私はピアノは弾けないから……こんなに上手に気持ちよく弾けて良いなあって」
パタパタと、窓をうつ雨音が聴こえる。本当はあのとき、揺さぶられた感情の奥にほんの少しの曇りがあった。彼がピアノを弾くのを見て、遠いなあ、と思ってしまった。
自分のできないことを平然とやってのける姿にそう感じたのか、それとも彼にしか見えない世界が音楽の向こうにあるように思えたからなのかはわからない。とにかくどうしようもなく寂しいような気持ちが、心の奥底に滲んだのだ。我にかえったとき、私は大勢いる聴衆のうちのほんの一人に過ぎなかった。
「……おいで」
私の心の機微を察したのか、零は椅子の端に腰掛け、私を呼んだ。戸惑いつつも近寄り隣に腰を下ろす。目の前には白と黒の綺麗な鍵盤がある。
「手を」
「……弾けないよ?」
「大丈夫じゃよ」
優しい声と眼差しに誘われるまま、恐る恐る、ピアノの鍵盤に触れた。それはひたりと冷たく硬くて、けれど私を拒まず、触れた親指を押してみればまろやかな音がポーンと部屋に鳴り響いた。
「ここがド、それで黒鍵が半音上の音じゃ」
「う、うん」
「こことここ……親指と中指で押して、そう、じゃあ薬指もここに」
何を教えられているのかはわからなかった。零はただ穏やかな声で、時折私の右手に触れながら押さえる鍵盤の音を指定した。そしてゆっくり一定のリズムでその場所を押すようにと言いつけられた。
「指がつりそう」
「くく、しばらく我慢しておくれ」
零はそう言って私に微笑みかけると、あのときのようにひと呼吸置いて、両手を鍵盤のうえに乗せた。私が拙く音を鳴らすのに合わせて、彼の指先が音を紡ぎあげる。
あのとき彼が弾いていた曲よりずっとゆっくりな曲だった。鍵盤を慈しむように指先が沈む。私はそれに見とれながらも、さっき言われた音を間違えず規則通りに鳴らせるよう意識を張り詰めていた。
零は何にも言わなかった。でも時折隣にいる私を見て幸せそうに微笑みながら、私に合わせて音を紡いでくれた。それがたまらなく嬉しくて、私は我慢できずに泣いてしまった。ぽたぽたと涙が頬を伝って滑り落ちる。優しい音色が身体を包み込んで、私と零とピアノが全部混ざりあってひとつになっていく。寂しさなんて言葉はすっかり私の中から消えてしまった。
やがて曲が終わる。終わるタイミングなんて知らなかったのに、なぜか「ああもう終わるんだ」と直感でわかった。彼と同じタイミングで手を止め、ほうとため息をついた。涙を拭って彼を見上げれば、彼は優しく私の頬を撫でてキスをしてくれた。
何か言おうとも一瞬思ったけれど、もう言葉にするまでもなく全部分かち合えているような気がしていたので、余計なことは言わずに彼を抱き締めた。すると彼もやはり何も言わず、ただ私を抱き返してくれたのだった。