ひとり暮らしの狭いアパート。その一角の、小さな流し台とコンロがひとつしかないようなみすぼらしい台所に、恋人が立っている。とてもこんな粗末な空間には似合わない。彼が料理をするその手際は完璧なのに、いや完璧だからこそ、なんだかちぐはぐに見えた。

 私は台所からそう遠くないところにあるベッドにだらりと横たわったまま、ぼんやりと彼の綺麗な手が働いているのを見つめている。だんだんと良い香りがしてきた。どうやら野菜スープを作ってくれているらしい。

ふと、私の視線に気がついたのか料理に一区切りがついたのか、弓弦は私を振り返った。ばちりと目が合うと、穏やかに目を細めて微笑む。

「おはようございます、お加減はいかがでしょうか?」

 弓弦はコンロの火を止め、わざわざ持ってきたらしいエプロンの腰紐をほどきながらベッドへ近づいた。そして視線を合わせるようにベッドのそばの床に膝をつき、その菫色の瞳で私を見つめる。

「……弓弦、」
「はい、弓弦でございます」

柔らかな声が優しく鼓膜に溶け込む。くるまっていた布団から手を出して彼の方へ伸ばせば、彼は私の手をきゅっと握り締めてくれた。

「お腹痛い……」
「……」

弓弦は黙って、私のくちゃくちゃに絡まった髪を撫でる。私がすんすんと静かに泣き始めると、弓弦は少し困ったように微笑んだ。

「食欲のほうはいかがです? 可能であれば、スープだけでも召し上がってくださいまし。それから鎮痛剤をお出し致しますから」
「はぁい……」

 するりと手が離れて、彼は立ち上がり台所へ戻る。これじゃ恋人というよりも母親、いやまさに執事のようだ。桃李くんにもこんなふうに看病をしてあげることがあるのだろうか。弓弦はほかほかのスープをうつわにそそいで持ってくると、今度はベッドの縁に腰掛けた。

私は重い体を起こし、下腹部に手を当てたままぼうっと彼の手もとを見つめる。弓弦はスープをスプーンに掬うと、ふぅふぅと息で冷ましてからこちらへ差し出した。

「どうぞ」
「え……う、うん」

まさかこんなに甲斐甲斐しく世話を焼かれるとは思ってもみなかったので、少し戸惑いつつ口を開いた。

「ん、おいひい」
「お口に合いましたか」
「うん、弓弦が食べさせてくれるから、余計にかも」
「それはそれは。たいへん恐縮でございます」

 弓弦はいつも通りの落ち着いた微笑のまま、慣れた手つきで私にスープを飲ませる。にんじんやキャベツやじゃがいもが、温かいスープにとろりと素朴な甘さを加えている。スープを一杯飲み終えるころには、身体もすっかり温まっていた。

「……ごちそうさまでした」
「ふふ、お粗末さまでございます。鎮痛剤をお持ち致しますね」
「ありがと」

弓弦は空になったうつわを下げ、今度はお水と薬を持ってきてくれた。それを受け取って飲み込み、ふぅ、と息を吐く。

「あの……ごめんね。今日、せっかく久しぶりにデートの予定だったのに」

 私が弱々しくそう呟くと、弓弦はそっと私の手に自分の手のひらを重ねた。綺麗な手は私よりほんの少しあたたかい。

「貴女は普段、あまり世話を焼かせてくださらないでしょう。こうして尽くせるだけでも私は十分……いえ、案外楽しんでおりますよ」
「ほんとに?」
「ええ。ですからそう気を落とさず、今はゆっくりお休みになってくださいまし」
「は〜い……」

彼の微笑みは相変わらずだったけれど、今日の彼は確かになんだかちょっと楽しそうに見える。促されるままベッドに横たわると、弓弦は恍惚とした笑みで私の顔を覗き込み、よしよしと頭を撫でるのだった。