【前編】よくばり
夫婦仲がセックスレスで云々……というのは、なんとなく色んなところでよく聞く話だ。夫婦はもちろん恋人さえろくにつくったことのない私は、いまいちその深刻さを理解出来ずにいた。別にしなくてもいいじゃん、したいなら言えばいいじゃん、なんて軽く考えていたのだ。
けれど初めて恋人ができて、早くも一年が経ってしまった。手を繋いでデートをしたりたまにキスもしたりするけれど、それ以上のことはまったくする気配すらない。私としても不安な気持ちはあったから、わざわざ自分から彼にそういう話をもちかけることもなかった。でもなんとなく、これでは恋人と言えないのではないか、と思うようになってしまったのだ。
「そういえば、今日はずいぶんおめかししてきてくれたんじゃな」
「あ、うん…………」
当たり前みたいに手を繋いで、身体を寄せあって歩く。夕飯も一緒に済ませて、いつもならそろそろ家まで送ると彼が言い出す頃合だ。
「名残惜しいが、もう夜も遅い。そろそろ……」
「あのっ待って!」
「うん?」
ぴたりと足を止めて彼の手を強く握り直す。彼は私を見て、ただやさしく、私の言葉を待ってくれた。
「…………帰りたくない」
絞り出した声は、街の喧騒にさらわれてきっと誰にも聞こえなかった。しかし唯一手を繋いでいた彼だけは、その搾りかすみたいなちいさな願いを零さずに受け止めてくれたのだった。
彼は一歩、私に歩みよって繋いでいた手を両手で包み込む。そして私の顔を覗き込み、まっすぐな声で返事をした。
「どうしても、かえ」
「う、うん」
「……う〜む。弱ったのう」
くす、と苦笑して、彼は僅かに視線を落とした。目が合わなくなると途端に胸が苦しくなった。はしたないと思われただろうか、それとも彼にはまだそんなつもりも、そんな欲もなかったのだろうか。私だけ、焦っていたのだろうか。指先から冷たくなっていく身体をどうしようもできないまま、私は視線の合わない彼の瞳を見つめていた。
すぐそばの車道を車が通り過ぎる。彼の黒髪がふわりと夜風に揺れた。車の音が遠ざかって辺りが静かになると、急に沈黙が重く私たちの間に寝そべっているのが強調される。どうにか誤魔化そうとして私は苦し紛れに口を開いた。
「あ……の、ごめん、いいの、困らせたくて言ったんじゃないから。ごめんね、急に変なこと言って……帰るね」
彼の手をほどいて、私は逃げてしまおうとした。けれど彼の手はそれを阻み、私の腕を掴んで引き留める。
「待て、待て。おぬし何か勘違いしておるじゃろ……弱ったとは言ったが、別に嫌なわけではないんじゃよ。そう慌てず、ゆっくり話そう。聞いてくれるかや」
「ん……うん」
「…………はぁ、なんというか……不甲斐ない話ではあるんじゃけど。我輩、その…………性欲がかなり薄いのか、興味がないというか、そういうことをするのが苦手なんじゃよ。おぬしのことはもちろん愛しておるけども」
彼は、いつになく話しづらそうにそんなことを打ち明けてくれた。要するに、けれど結局、彼は私を抱きたいとは思わないということなのだろうか。私は真剣に向き合うふりをして、その実目を逸らしたまま形だけ微笑んでみせる。
「そっか。わかった、じゃあ、無理しないで。今日は普通に帰ろう」
「……でもおぬしは、シたいのではないのかえ」
「ううん、平気。別にいいの」
「我輩は、おぬしが望むならなんでも叶えてやりたいんじゃよ」
彼は私の腕を掴んだまま、自分勝手に愛で私の頬をぶつ。私はもうなんだかみじめで仕方なかった。これで、じゃあ抱いてください、なんて言っても彼は仕方なく私に付き合うだけなのだ。そんなの、──そんなの自慰と何が違うというんだろう。
「もういいってば、もう……本当にやめて、そういうこと言うの。零が別にしたくないなら、私もしなくていい。これでこの話はおしまい」
「……」
「今日はひとりで帰らせて」
「待て」
私が無理にでも逃げようとすると、彼は珍しい私の腕を強く掴んで引き寄せた。紅い瞳が間近で私の目を捉える。
「おぬしはそう言うが、我輩からすれば、おぬしがしたいなら我輩とてそれを放ってはおけんのじゃよ」
「そんな、『別に自分はしなくていいけど仕方なく付き合ってあげます』みたいにされても何にも嬉しくない!」
いつまでこの押し問答が続くのかと思うと心底うんざりした。すると恐らく彼のほうもイラッときたのだろう、私の頬を片手で挟むと、そのまま不格好に深くキスをしてきた。
「……でも我輩だってまだ一緒にいたいんじゃもん」
珍しく甘えるような声でそう言った彼は、恥ずかしそうに耳まで真っ赤になって私を見ていた。その必死な表情を見ていると、さっきまで胸をざわめかせていた苛立ちが雪どけのようになくなってしまう。
「うん。じゃあ……本当に、そういうことはしなくていいけど、でも……今日は帰らないで、ずっと傍にいてもいい?」
「うむ! もちろんじゃ、嬉しい」
彼は私の両頬を両手で包み込み、こつんと額を合わせた。挨拶するように鼻先をくっつけて、そのまま、一瞬だけ唇を重ねる。これだけでいい、これだけで十分すぎるほど幸せだ。と……どうして満足できないのだろう。触れれば触れるほど欲しくなるのはきっと、私がどうしようもなく卑しいからだ。
けれど初めて恋人ができて、早くも一年が経ってしまった。手を繋いでデートをしたりたまにキスもしたりするけれど、それ以上のことはまったくする気配すらない。私としても不安な気持ちはあったから、わざわざ自分から彼にそういう話をもちかけることもなかった。でもなんとなく、これでは恋人と言えないのではないか、と思うようになってしまったのだ。
「そういえば、今日はずいぶんおめかししてきてくれたんじゃな」
「あ、うん…………」
当たり前みたいに手を繋いで、身体を寄せあって歩く。夕飯も一緒に済ませて、いつもならそろそろ家まで送ると彼が言い出す頃合だ。
「名残惜しいが、もう夜も遅い。そろそろ……」
「あのっ待って!」
「うん?」
ぴたりと足を止めて彼の手を強く握り直す。彼は私を見て、ただやさしく、私の言葉を待ってくれた。
「…………帰りたくない」
絞り出した声は、街の喧騒にさらわれてきっと誰にも聞こえなかった。しかし唯一手を繋いでいた彼だけは、その搾りかすみたいなちいさな願いを零さずに受け止めてくれたのだった。
彼は一歩、私に歩みよって繋いでいた手を両手で包み込む。そして私の顔を覗き込み、まっすぐな声で返事をした。
「どうしても、かえ」
「う、うん」
「……う〜む。弱ったのう」
くす、と苦笑して、彼は僅かに視線を落とした。目が合わなくなると途端に胸が苦しくなった。はしたないと思われただろうか、それとも彼にはまだそんなつもりも、そんな欲もなかったのだろうか。私だけ、焦っていたのだろうか。指先から冷たくなっていく身体をどうしようもできないまま、私は視線の合わない彼の瞳を見つめていた。
すぐそばの車道を車が通り過ぎる。彼の黒髪がふわりと夜風に揺れた。車の音が遠ざかって辺りが静かになると、急に沈黙が重く私たちの間に寝そべっているのが強調される。どうにか誤魔化そうとして私は苦し紛れに口を開いた。
「あ……の、ごめん、いいの、困らせたくて言ったんじゃないから。ごめんね、急に変なこと言って……帰るね」
彼の手をほどいて、私は逃げてしまおうとした。けれど彼の手はそれを阻み、私の腕を掴んで引き留める。
「待て、待て。おぬし何か勘違いしておるじゃろ……弱ったとは言ったが、別に嫌なわけではないんじゃよ。そう慌てず、ゆっくり話そう。聞いてくれるかや」
「ん……うん」
「…………はぁ、なんというか……不甲斐ない話ではあるんじゃけど。我輩、その…………性欲がかなり薄いのか、興味がないというか、そういうことをするのが苦手なんじゃよ。おぬしのことはもちろん愛しておるけども」
彼は、いつになく話しづらそうにそんなことを打ち明けてくれた。要するに、けれど結局、彼は私を抱きたいとは思わないということなのだろうか。私は真剣に向き合うふりをして、その実目を逸らしたまま形だけ微笑んでみせる。
「そっか。わかった、じゃあ、無理しないで。今日は普通に帰ろう」
「……でもおぬしは、シたいのではないのかえ」
「ううん、平気。別にいいの」
「我輩は、おぬしが望むならなんでも叶えてやりたいんじゃよ」
彼は私の腕を掴んだまま、自分勝手に愛で私の頬をぶつ。私はもうなんだかみじめで仕方なかった。これで、じゃあ抱いてください、なんて言っても彼は仕方なく私に付き合うだけなのだ。そんなの、──そんなの自慰と何が違うというんだろう。
「もういいってば、もう……本当にやめて、そういうこと言うの。零が別にしたくないなら、私もしなくていい。これでこの話はおしまい」
「……」
「今日はひとりで帰らせて」
「待て」
私が無理にでも逃げようとすると、彼は珍しい私の腕を強く掴んで引き寄せた。紅い瞳が間近で私の目を捉える。
「おぬしはそう言うが、我輩からすれば、おぬしがしたいなら我輩とてそれを放ってはおけんのじゃよ」
「そんな、『別に自分はしなくていいけど仕方なく付き合ってあげます』みたいにされても何にも嬉しくない!」
いつまでこの押し問答が続くのかと思うと心底うんざりした。すると恐らく彼のほうもイラッときたのだろう、私の頬を片手で挟むと、そのまま不格好に深くキスをしてきた。
「……でも我輩だってまだ一緒にいたいんじゃもん」
珍しく甘えるような声でそう言った彼は、恥ずかしそうに耳まで真っ赤になって私を見ていた。その必死な表情を見ていると、さっきまで胸をざわめかせていた苛立ちが雪どけのようになくなってしまう。
「うん。じゃあ……本当に、そういうことはしなくていいけど、でも……今日は帰らないで、ずっと傍にいてもいい?」
「うむ! もちろんじゃ、嬉しい」
彼は私の両頬を両手で包み込み、こつんと額を合わせた。挨拶するように鼻先をくっつけて、そのまま、一瞬だけ唇を重ねる。これだけでいい、これだけで十分すぎるほど幸せだ。と……どうして満足できないのだろう。触れれば触れるほど欲しくなるのはきっと、私がどうしようもなく卑しいからだ。