思い出すのはきっと今
壁に立てかけたまま埃を被ったアコースティックギターは、確か、付き合いはじめの頃に買ったものだ。あれがどうこれがどうとか言う彼の言葉を素直にうんうんと頷きながら聞いて、楽器屋さんで殆ど衝動のまま買ってしまった。
『俺が教えてやるよ、そしたらふたりで色々できるようになんだろ』
なんて言って笑った彼は間もなく海外留学に忙しくなり、結局ギターを教えてもらったことなんて数えるくらいしかなかった。私は、上手く押さえられなくて不格好にしか鳴らないFコードを練習するより、彼の指にもっと触れていたかった。つまるところ私はギターを弾けるようになりたかったわけじゃなく、練習にかこつけて零の傍にいたかっただけなのだ。
──そんな初々しい少女時代を思い出し、ふ、と軽く笑みをこぼす。思えばもう五年以上前のことだ。すっかりあの頃のようなドキドキも感じなくなってしまったけれど、来月から私と零は同棲を始める。そのための荷造りをちまちま進めていた。
「……売っちゃおうかなぁ」
冷たい木製のネックに触れて呟くと、後ろからぬっと手が伸びてきて、ネックを掴んだ。
「売っちゃうのかや? まだ弾けるじゃろ」
零はギターを持ち上げると、軽く埃を払ってギターの様子を観察する。私にはわからないところを見て、軽く音を鳴らし、耳だけを頼りにチューニングをする。
「うむ、まだまだ現役じゃ。売るには勿体ないのではないかえ?」
「勿体ないのは……むしろ、まだまだ弾けるのに誰にも弾かれないで置物みたいになってるほうがそうなんじゃない? 私が持っててもどうしようもないし、それなら弾ける人に譲ったほうがいいかなって」
私がそう言って彼の手もとから視線を上へやると、思いもよらず寂しげな微笑みと目が合った。
「たま〜にでも……ふたりでギターを持って向かい合ってゆっくり音を紡ぐような……そういう時間が、これから先もっと必要になると思うのじゃ」
「…………」
「もちろん、もっと他のことでも良いんじゃよ。しかし……どうせならあの頃、ふたりで選んだこのギターは大切に置いておきたい」
零はそう言って、チューニングし終えたギターを私に持たせた。アコースティックギターはやっぱり抱えるだけでもなんだか私にはぎこちなくて、弦の硬さにも勝てそうになかった。
けれど弾けなくたって別に構わないのだろう。これを買った頃みたいな、目が合うだけで心臓が跳ねるようなときめきがもうここにはなくても。ペグを回してチューニングをするように、お互いに耳を傾けて時間を共有するような瞬間がこれからあるのならば。
「……うん、そだね。置いとこっか」
「うむ、ありがとう」
零はやっと安堵したように微笑んだ。荷造りはそこで一旦止まって、私は数年ぶりに彼に教えてもらいながらコードを押さえて弦を鳴らした。音はやっぱりちょっと不格好だった。けれど零の綺麗な指先が私の指に触れるたび、あの頃を思い出して頬がゆるんでしまう。
「あはは、全然だめ、指痛い」
「おぬしの肌はどこもかしこもやわっこいからのう。続けていれば、自然と固くなってくるものじゃけど」
そのとき、ふと窓から差し込んだ夕陽が彼の顔を照らした。その一瞬の髪のきらめき、光に透けた瞳孔、日に照らされた幸せそうな微笑は、まるで映画のワンシーンのようにゆっくりと私の脳裏に焼き付いた。
『俺が教えてやるよ、そしたらふたりで色々できるようになんだろ』
なんて言って笑った彼は間もなく海外留学に忙しくなり、結局ギターを教えてもらったことなんて数えるくらいしかなかった。私は、上手く押さえられなくて不格好にしか鳴らないFコードを練習するより、彼の指にもっと触れていたかった。つまるところ私はギターを弾けるようになりたかったわけじゃなく、練習にかこつけて零の傍にいたかっただけなのだ。
──そんな初々しい少女時代を思い出し、ふ、と軽く笑みをこぼす。思えばもう五年以上前のことだ。すっかりあの頃のようなドキドキも感じなくなってしまったけれど、来月から私と零は同棲を始める。そのための荷造りをちまちま進めていた。
「……売っちゃおうかなぁ」
冷たい木製のネックに触れて呟くと、後ろからぬっと手が伸びてきて、ネックを掴んだ。
「売っちゃうのかや? まだ弾けるじゃろ」
零はギターを持ち上げると、軽く埃を払ってギターの様子を観察する。私にはわからないところを見て、軽く音を鳴らし、耳だけを頼りにチューニングをする。
「うむ、まだまだ現役じゃ。売るには勿体ないのではないかえ?」
「勿体ないのは……むしろ、まだまだ弾けるのに誰にも弾かれないで置物みたいになってるほうがそうなんじゃない? 私が持っててもどうしようもないし、それなら弾ける人に譲ったほうがいいかなって」
私がそう言って彼の手もとから視線を上へやると、思いもよらず寂しげな微笑みと目が合った。
「たま〜にでも……ふたりでギターを持って向かい合ってゆっくり音を紡ぐような……そういう時間が、これから先もっと必要になると思うのじゃ」
「…………」
「もちろん、もっと他のことでも良いんじゃよ。しかし……どうせならあの頃、ふたりで選んだこのギターは大切に置いておきたい」
零はそう言って、チューニングし終えたギターを私に持たせた。アコースティックギターはやっぱり抱えるだけでもなんだか私にはぎこちなくて、弦の硬さにも勝てそうになかった。
けれど弾けなくたって別に構わないのだろう。これを買った頃みたいな、目が合うだけで心臓が跳ねるようなときめきがもうここにはなくても。ペグを回してチューニングをするように、お互いに耳を傾けて時間を共有するような瞬間がこれからあるのならば。
「……うん、そだね。置いとこっか」
「うむ、ありがとう」
零はやっと安堵したように微笑んだ。荷造りはそこで一旦止まって、私は数年ぶりに彼に教えてもらいながらコードを押さえて弦を鳴らした。音はやっぱりちょっと不格好だった。けれど零の綺麗な指先が私の指に触れるたび、あの頃を思い出して頬がゆるんでしまう。
「あはは、全然だめ、指痛い」
「おぬしの肌はどこもかしこもやわっこいからのう。続けていれば、自然と固くなってくるものじゃけど」
そのとき、ふと窓から差し込んだ夕陽が彼の顔を照らした。その一瞬の髪のきらめき、光に透けた瞳孔、日に照らされた幸せそうな微笑は、まるで映画のワンシーンのようにゆっくりと私の脳裏に焼き付いた。