朝日がカーテンから差し込み、ちょうど目もとを照らす。その眩しさに顔を顰めて目を覚ました。シーツが乱れたベッドのうえ、隣には静かな空虚だけが横たわっている。昨夜はそこにいたはずの彼のことを思い、そっと冷たいシーツに手を当てた。

「…………渉」

名前を呼ぶ声は掠れていた。返事なんてあるはずがない。ふぅ、と息を吐き出してがばっと勢いよく体を起こす。とりあえずシャワーでも浴びよう。寝ぐせのついた髪を手ぐしで整え、フローリングの床に素足を下ろす。


 私の──恋人は、気球みたいなひとだ。ひとり、高く遠く美しい青空に浮かんで、私には想像もできないような景色を楽しんでいる。それでもたまに燃料補給のときには地上へ降りてきてくれるのだから、たとえ彼の手が何度も私の手をすり抜けて行ってしまったとしても、それでも構わない。まるで気まぐれな野良猫に餌付けをしているみたい、とも思う。


「……」

リビングにもどこにも、やっぱり彼の姿はなかった。残り香さえもありはしない。置き手紙のひとつも、メッセージも、何もない。昨夜のことはすべて夢だったと言われても納得してしまいそうだ。またひとり、溜め息をつく。

「……だめかも」

 今さらと言われればそれまでだ、けれど無性に、彼の残した空虚だけが際立ってたまらなくなってしまう。私はリビングにしゃがみこみ、迷子の子どもみたいに膝を抱えて顔を伏せた。

 無が彼の存在を際立たせる。ここには彼のものがひとつもない。たびたび家へ来るくせに。彼のためのコップも、お箸も、お皿もなければ、歯ブラシや衣類もいつも彼がどこからか取り出してくるせいで用意できずにいる。むしろそういうものを置くことで、彼がいなくなってしまう気さえしていた。

 彼が残していくのは、ただ、私の肌に触れたときのあの優しい感触と温度や穏やかな声の記憶だけだ。


「──おや、どうなさったんです? 立ちくらみですか? いけませんねぇ、危ないですよ」

不意に、聞こえるはずのない声が聞こえた。私は驚いて顔を上げる。そこにはいつ、どこから現れたのかわからない渉がいた。私は唖然として言葉も忘れ、恐る恐る手を伸ばす。渉はにっこりと綺麗に笑って、私の手を取った。

「フフ、驚いていらっしゃいます? 朝食の準備を、と思いまして。少し買い出しに行っていたのですよ。立てますか?」
「う、うん……立てる」

 彼に驚かされたことは数え切れないほどあるのに、今回ばかりは現実味がなかった。願望ゆえの妄想だと言われたほうがまだ納得できる。私の手は微かに震えていた。彼の手に支えられ、重い体を立ち上がらせる。そしてそのまま、ほとんど何も考えず彼にもたれかかるようにして抱きついてしまった。

「おやまぁ……今朝はどうしたんです、怖い夢でも見たんですか?」
「ううん。渉が……もう帰ったんだと思ってたの」

私は泣いてしまうことのないよう、努めていつも通りの冷静な声でそう打ち明けた。彼の綺麗な後ろ髪を引くようなことはしたくなかった。

 彼の大きな手は私の腰と頭に添えられ、子どもをあやすように優しく髪を撫でる。

「珍しいですね、貴女が寂しいと言ってくれるなんて」
「……寂しい、とは言ってないよ」
「言っているようなものでしょう? そんなに怖がらなくても、私は何度でもここに帰ってきますよ」
「…………そう」

心の奥の奥まですぐに見透かされて、私はそれ以上弁明も強がりもできなかった。渉はしばらく黙って私の頭を撫でたり、つむじにキスをしたりしてくれていた。私はすんと鼻をすすって、彼の背に手を回し、ぎゅっとその服のすそを掴んでいた。

 またすり抜けていってしまうであろうこの温もりで、脳の裏をあたためておきたい。せめて、次に彼がまたここへ戻って来てくれるときまで、何度も反芻しておけるように。