それはまるで、ピアノの低音のように、重々しく俺の心に響く。皆に平等に差し伸べられる、残酷なほど美しいその白い手。それを掴む資格が俺にはないことなど、とうの昔に知っていた。

「……茨くん」

やさしい声が、幼子を呼ぶように俺を呼んだ。あやふやな意識を手繰り寄せて目を開けると、彼女は心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。

「……なまえ?」
「大丈夫? 茨くん、倒れてたんだよ。……無理はしちゃ駄目って、あんなに言ったのに」

彼女の言葉で、ようやく自分が過労で倒れたことに気がついた。ソファに寝そべった状態のまま、俺は部屋をぐるりと見回す。仮眠室だ。

……そうだ、確か限界を感じて仮眠室へ行こうとして、入ったところで意識を失ったのだ。

「最近、いつもに増して働いてるよね。……何かあったの?」

まだ眠気の残る目を擦り、ほとんど何も考えず、彼女の手を見つめた。清廉潔白な手。俺の汚れた手とは大違いだ。

「……いえ、特には……」
「そう? 心配だな」
「別に……俺じゃなくても心配するんだろ」

つい、素のまま話してしまった。はっ、と口もとを抑えると、彼女は俺を真っ直ぐ見つめる。透き通って汚れのない瞳だ。

「そりゃあ、目の前に倒れてる人がいたら心配するよ」
「……貴女のそういうところ、俺は嫌いです」

ふい、と視線を逸らすと、彼女は立ち上がって俺から離れた。ペットボトルの水を小さめの冷蔵庫から取り出して、俺の前にそっと置く。

そうやって優しくするのは俺にだけじゃないし、俺だからじゃない。吐き気がするほど彼女は聖人のような人間だから、問答無用で皆に手を差し伸べるのだ。

「自分を大事にしない茨くんのことは、私も好きじゃない」
「……なら、その手をください。細い腕も、白い喉も、髪の一本からつま先まで。貴女の全てを俺のものにすることこそ、俺の心を大事にするということですから」

彼女の手首を掴んで引き寄せると、彼女は驚いたように目を見開いた。彼女が何か言うより先に、その唇に噛み付く。

「貴女さえ手に入れば、満足なんですがね」

高嶺の花、というやつだろうか。あるいは天から垂らされる蜘蛛の糸か。呼び名などなんだっていい。

ただ、どれだけ手を伸ばしても届かなくて、きっと俺が触れた瞬間汚れてしまう。そんなくだらないことだけが確かだ。

「……寝言ですよ、全部。忘れてください……」

すり、と彼女の頬を撫で、重い瞼を閉じる。もう今更現実に期待などしないから、夢の中でくらい、触れられたらいいのに。……なんて、我ながら情けない。

彼女は何も言わず、ただ俺の頭を撫でるだけだった。