「……俺は、なまえのこと、自分のものだと思ってた」

彼の瞳が、真っ直ぐ私を見つめる。彼の少し長めの髪は、汗でじっとりと彼の白いうなじにはりついていた。夜なのに、どこかでセミが鳴いている。

「私も、そうだと思ってたよ」

でもそうじゃない、と、呟いた声は彼に届くことなく街の喧騒に掻き消された。彼は細い眉を寄せて、くちびるを噛み締める。後悔しているみたいな、忌々しいみたいな、顰めっ面。

「仕方ないんじゃない、だって、茨は私を選べないでしょ」

ぬるい風が、私たちの間を吹き抜ける。アイドルという職業に就いている茨が、私だけを選ぶなんて不可能なことだ。そんな状態のまま、天秤が傾いたまま、手を繋ぎ合うなんて出来ない。

きっと、どちらが悪いなんて話ではないのだ。ただ、タイミングが合わなかっただけ。ほんの少し、噛み合わなかっただけ。

「……だから、諦めようよ」

アスファルトに視線を落として、静かにそう言い切った。仕方ない、仕方ない。そう言い聞かせて自分を納得させようとする。

「……無理です」

えっ、と声を出す前に、彼が私の手首を掴んだ。熱い手のひらは手汗で濡れていて、それから、微かに震えていた。彼の真剣な蒼い瞳が近付く。

「無理だ、あんたが俺以外のものになるなんて」

初めて聞いた彼の揺れる声に、もう手を振り解けなくなる。彼の熱が手を伝って、私の体に回っていく。ゆらり、視界が滲んだ。

「……そんなの、私だって……」
「俺もなまえを選ぶ。だからなまえも、俺を選んでください」

掴んだ手首を引っ張られ、そのまま彼の腕の中におさまる。強く抱き締められると、もう彼を拒むなんて出来なくなっていた。彼の背中に自分の腕を回す。

「うん…………大好き、茨」
「……知ってる」

汗で濡れた彼の髪が、優しく私の頬をくすぐる。全部が綺麗に解決したわけじゃない。ただ、離れるにはお互いを愛しすぎていただけ。

だからこれはただの延命治療にすぎないし、問題から目を逸らしているにすぎない。

それでも、貴方から離れる決心ができるまではまだ、このまま誤魔化し続けていて。