魔法にかけられたんダ、と思った。場所はESの空中庭園、時刻は午後九時頃。ビルはすっかり人気もなくなっていて、ボクは自主レッスン終わりに少し涼もうと空中庭園に来ていた。

彼女はベンチに座って、ぼうっと夜空を眺めていた。長い髪がふわりと夜風にさらわれて宙に散らばる。それがまるで花びらの散る様子みたいで、ボクはつい、彼女のことをジッと見つめてしまった。するとボクの視線に気が付いたのか、彼女は不意にボクのほうを向いた。

そのときの彼女の瞳は、夜のネオンが微かに煌めいて、まるで宇宙みたいだった。視線がかち合った瞬間、あぁ今ボクは魔法にかけられたんダ、ってそう思ったんだ。

ふわふわ、重力を失ったみたいに足もとが揺らぐ。どきどき、鼓動はボクの胸を突き破りそうなほど速くなる。

彼女は、呆然と彼女に見入ってしまったボクのほうをジッと見つめ返して、ふっと微笑んで声をかけてきた。

その声というのが、また、いけなかった。甘く軽やかに、でも確かに、ボクの鼓膜を揺らして脳に囁きかけるのだ。

「逆先夏目くん、ですよね。こんばんは、どうかしましたか?」

彼女の声に、一瞬言葉を失う。何とか平然を装い、彼女の座るベンチに近づきながら返事をした。

「ウウン、何でもないヨ。貴女こそこんな時間にどうしたノ?」
「仕事を終えて……少しお月見したくなったんです。ほら、見て」

不自然にならないよう、彼女の隣に腰を下ろす。彼女はすらりと人差し指を伸ばし、夜空を指した。そちらへ目をやれば、確かに今日は綺麗な満月らしい。

「ほんとダ、綺麗」
「でしょう? 忙しいからって、最近こういうことを見落としがちだなと思って、ぼんやりしてたんです」

そう言う彼女の横顔を盗み見ると、綺麗な瞳に月の光が反射して、結晶のようにきらきらと輝いていた。それがどうにも表現しがたいほど魅力的で、美しくて、ボクは月より彼女のほうを見ていた。

「……」

キミは魔法使いなノ、なんて馬鹿な質問は勿論のこと、彼女の名前すら聞けなかった。ただ二人で並んで月を見つめて、大した会話をするでもなく、時間だけが過ぎていった。

「そろそろ帰らなきゃ」

彼女は、不意にそう言って立ち上がった。ふと腕時計を見れば、もう午後十時に差し掛かる頃。いつの間にか一時間も経ってしまっていたらしい。

「駅まで送って行こうカ」

ボクがそう言うと、彼女はくすりと笑って首を横に振った。

「大丈夫です。家、すぐ近くなので」
「そう……また会えル?」
「えぇ、きっと」

明るい月の光を浴びながら、彼女は少し嬉しそうに笑った。ボクの目はもう、魔法にかかったみたいに彼女をきらきらと輝かせている。その眩さに、少しだけ目を細めた。

彼女とビルのエントランスで別れ、その日はそのまま夢見心地で星奏館に帰った。でもどうしても彼女のことが頭から離れなかった。あの魔法のようなひとときが、忘れられなかった。

十二時を越えてもボクにかかった魔法は解けないまま、今もボクの心を侵している。


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