「おや」

私が逃げようと踵を返すのと、彼が声を上げたのはほぼ同時だった。聞こえないふりで逃げようかとも思ったけれど、彼を振り切る自信なんてあるはずがない。恐る恐る彼を振り返り、ぺこりと頭を下げる。

「お疲れさまです……」
「ええ、お疲れさまでございます。今から昼食ですか? よろしければお茶でもお入れしますよ」

すかさず距離を詰められ、最早逃げるなんて道は閉ざされた。やんわり断ってしまおうと視線を泳がせるけれど、目の前の穏やかで有無を言わせない笑顔には敵わない。

「うぅ……、お、お願いします……」
「喜んで。ふふ、fineの皆様で利用している部屋がありますので、そちらに参りましょうか」

弓弦さんは、決して悪い人なんかではない。むしろ、姫宮くんを初めとして周囲をよく見ている賢い人だ。けれどここのところ、弓弦さんの様子がおかしい。こと、私に関しては。

fineがよく使うらしい部屋に入ると、弓弦さんは慣れた手つきでお茶の用意を始めた。促されるまま椅子に座り、何となくそわそわしながら彼を眺める。

「心配していたのですよ、最近、あんまり私をお避けになるので」
「……それは、その……弓弦さんが、何だかいつもと違うから……」
「それは申し訳ございません。ですが、前までと違ってしまう理由はお話し致しましたよね」
「はい……」

実は、彼の様子がおかしくなる前に、彼から所謂告白をされたのだ。一人の女性として慕っている、と。私がそれに対してすぐに反応できずにいると、私がどう答えようと私へのアピールはさせてもらうつもりだ、と宣言されてしまった。

弓弦さんが、ティーカップを私の前に置く。ふと、隣に立っている彼を見上げると、爽やかな笑顔で返されてしまった。心臓が情けないほど高鳴って、緊張で頭が真っ白になる。

「焦れったいですね。そんなに緊張なさるのは、どうしてです? 鬱陶しいのなら仰ってください、私も断られれば大人しく身を引きますので」

とぽとぽ、綺麗に透き通った紅茶が、白い陶器のティーカップに注がれる。すぐ耳もとで穏やかに話す声が、ますます私の頭を埋めつくしてしまう。きっと私の顔は目も当てられないほど真っ赤になっていることだろう。

「……う、鬱陶しいだなんて、そんな……」
「左様でございますか。それなら良いのですが……そろそろ、はっきりさせませんか? それともまだ、怖いですか?」

とぷん、とカップが紅茶で満たされる。彼はティーポットをテーブルに置くと、そっと私の手に自分の手を重ねた。

「……好きですよ」

優しく、彼の声が私に囁きかける。涙が出そうなほどいっぱいいっぱいになってしまう。でも嫌悪なんてあるはずもなかった。私の心にあるのはただ、幸せすぎて信じられない、そんな戸惑いだけだった。

「私……私も、好きです……」

目も合わせられないまま、小さな声を絞り出した。彼は少し驚いたように重ねた手に力を込めて、それから私の頭にキスをしてくれた。

「ありがとうございます。……安心しました」

そっと彼のほうを見ると、彼は今まで見たこともないほど幸せそうな顔で、優しく微笑んでいた。それを見ると益々心臓がうるさくなって、あぁもしかして私、今日死んでしまうんだろうか――なんて馬鹿なことを考えてしまった。