「茨〜! 見て! アンモナイト!」
「ええ、ただの巻き貝ですね」

 穏やかな波のさざめきのなか、水着姿の彼女は砂浜で小さな貝殻を拾ってはしゃいでいた。照りつける太陽が眩しい。なるべく日焼けしないよう上着を羽織り、彼女の後ろをついて砂浜を歩いた。

「海、入らないんです?」
「ん? ん〜……入ろうかな……」

アパートのベランダから見える海に、遊びに行きたいと言い出したのは彼女のほうだった。意気揚々と水着まで用意したくせに、さっきから一向に海へ入ろうとしない。彼女の顔を覗き込むと、どことなく不安げな目をしていた。

「……もしかして泳げないんですか?」
「う〜ん……いや、うん、だって人間って陸上生物でしょ?」
「泳げない言い訳が豪快すぎません? ……浅瀬に浸かるくらいならできるでしょう。ほら」
「うわ、待って、まっ……」

 彼女の手を取って海へ連れ込むと、海水が腰の辺りまできた時点で彼女は猫みたいに怖がり俺に抱きついてきた。

「い、茨? どこまでいくの? もう全然浅くないよ?」
「そうですね。いやぁ、そう怯えられるとかえって愉しくなります」

浅瀬につかるどころか、俺も足がつかないくらいの深さまでやって来た。とは言え大した距離じゃないし、海も穏やかだ。しかしそんなことも恐らく彼女には関係ないのだろう、ぶるぶる震えながら必死に俺に抱き着いている。

「茨、ほんとに怖いからやめよ、足つかないのやだ……」
「俺がいても?」
「……え、わかんない……茨がいたら死ぬのは怖くないよ。でもこういうのはなんていうか、本能的に怖い」

 抱き寄せた彼女の身体は、以前より少し痩せていた。死ぬのは怖くない、と迷いなく言ってのけた彼女は、黙り込んだ俺の顔を見上げて首を傾げる。

「茨?」
「……体の方は、ちゃんと怖がってるんじゃないですか? 死んでしまうことを」
「それは……口ではそう言っても体は正直だな……みたいなこと?」
「茶化さないでください」

わざとらしく溜め息をつくと、彼女は能天気にくすくす笑った。聞くべきではなかっただろうかと、少しだけ心音が乱れる。しかし彼女は思ったよりも穏やかな声色で静かに答えた。

「体と心は別だから。体はどうしても反射的に怖がっちゃうけど、心は茨がいれば怖くないって思ってるよ。強がりとかじゃなくて、本当に」
「……そうですか」

 ちゃぷちゃぷと海水をかきわけて、浅瀬の方へ戻る。彼女は足がつくようになると安心したように息を吐いた。

「は〜、怖かった。やっぱり砂浜で貝殻拾うほうが楽しいよ」
「地味ですね」
「地味で結構ですぅ」

白い砂浜は太陽が反射して眩しい。彼女は砂浜に座り込んで、心底楽しそうに笑った。それからしばらく、砂で城を作ったり木の枝で砂浜に絵を描いたりして遊んだ。どうせ全部呆気なく波にさらわれて消えるのに、本当に馬鹿みたいだ。

 その日彼女が砂浜に吐き出したのは、ピンクの蝦夷菊だった。