「日常生活もままならないでしょう。入院をおすすめします」

 医者は静かにそう提案した。俺は一度ふたりで考えますと返して、彼女とふたり、タクシーでアパートに帰った。

「……入院なんて、どうせ死ぬのに変なの」
「まぁそれはそうでありますな。恐らく体力の低下などから考えての提案なのでしょうが……別にこのままで良いでしょう?」

疲れきったらしい彼女をソファに寝かせて、俺は冷蔵庫の中を確かめる。最近はあまり食欲もないようだし、残っている素麺にでもするか……と素麺の袋を取り出し、冷蔵庫を閉める。

すると不意に彼女が台所までやって来て、後ろから俺に抱き着いてきた。

「でも私が入院したほうが、茨は楽じゃない?」
「は? ……おっしゃる意味がわかりませんが」
「なんか、ご飯もそうだし……家事とか、最近はずっと茨に任せっぱなしで……申し訳なくて」

 彼女の顔は見えなかった。と言うよりは見せてもらえなかった。今更何をほざいているんだと大袈裟に溜め息をつくと、腹に回された腕が少し緊張するように強ばる。

「……私が言い出したことだけど、仕事だって休ませて、私……」
「あなたが死なないなら、こんな駆け落ちごっこに付き合ったりしませんよ。死に際くらいわがまま言ったらどうですか」

 ……返事はなかった。片手鍋に水をいれて、二つしかないコンロの片側に置き火をつける。後ろにひっついたままの彼女のせいで動きにくくて仕方なかったが、引き剥がす気に離れなかった。

「茨、ごめんね、つらい思いばっかりさせて、ごめんね」
「別に、好きでやってますし」
「大好きだよ、本当に好き、一番好き」
「…………」

 開け放った窓から夜風が吹き込む。俺は腹に回された細い腕をそっと撫でて、それからまた小さく溜め息をこぼした。

「あの」
「……なに?」
「ずっと言おうか迷っていたんですが」
「うん」
「……ちょっと離してもらえますか」

 一旦、少し落ち着いたらしい彼女を離れさせ、コンロの火を止めた。

「…………駆け落ちって結婚みたいなものですよね」
「え……うん、そうなのかな? 多分そう……かな」

キッチンから離れ、鍵をかけていた引き出しを開ける。そして彼女を呼び寄せてその前に跪き、小さな箱を開けてみせた。

「ならどうぞ、今更ですが」
「……うそ」
「本当です」

 驚いて固まっている彼女の左手を取って、その薬指に銀のリングを通す。彼女は目を潤ませ、微かに震えながら自分の手にある指輪を見た。

「……もう、もう……っ」
「……なんですか」
「ばか……」

彼女はぼろぼろと涙をこぼして、今度は正面から俺に抱き着いてきた。細い体に腕を回して抱き締める。柔らかい髪が頬に当たってくすぐったかった。甘い匂いがして心地よかった。

「……ね、わがまま言ってもいい?」
「何を今更」
「うん、あのね、私が死んでも、指輪外さないで」
「当たり前ですよ」

 彼女の後頭部を撫でながら、言うか言うまいか一瞬迷ってから、溜め息をついて口を開いた。

「愛してますからね」
「……うん、私も……世界で一番好きだよ、愛してる」