「名字名前ちゃん?あぁ、確かにこの前の公演で話題になっていたね。脚本・演出・主演、全て完璧にやってのけた天才だとか」

公演の数日後、いつもどおり生徒会室に勝手に入り、英智に彼女について話すと、彼は納得したように頷いた。しかし私が変わらず浮かない顔をしているので、心配そうに顔を覗き込んできた。

「何かあったの?」
「……私は長らく独りで演劇をやっていたものですから、彼女の悩みを解決してやれません。演劇科にいることが、本当に彼女の喜びなのでしょうか。周りに気をつかって才能を押し殺すということが」

断片的になってしまった情報を、英智はしっかり拾い集め理解してくれた。彼はうーんと唸って腕を組む。

「僕は、才能がない人間だから、正直君たち自身がどうなのかはわからないな。でも、僕のような平凡な人間からしたら、それはとても残酷だ。それならばいっそ、手が届かないほどに輝いていてほしい。自分の存在によって知らぬ間に星が輝きを喪っているなんて、侮辱でさえあると思うよ」

英智は、紅茶を飲んで喉を潤してから、また話を続けた。

「君がしたいようにすればいい。辞めて欲しくないのなら、辞めないように手を取ってあげればいいんだ。……君が相手に過度に配慮して自分を殺すようなタイプとは、僕は思っていないんだけどね」
「……フフフ!それもそうですね!なぜだか彼女に関しては私らしからぬ言動をしてしまいます。そうと決まれば早速会いに行ってみましょう!ありがとうございます、英智!」

バラ一本を置き土産に生徒会室を後にする。演劇科校舎にこっそり忍び込んでうろうろしていると、彼女のいる1年C組に辿り着いた。

そっと中を覗き込み、驚愕し、思わず中に飛びいる。

「何をしてるんです……!?」

ずぶ濡れで、誰もいない教室の床にひとり寝転がっていた彼女に慌てて駆け寄る。彼女はぼうっと私を見て、ゆっくりと身体を起こした。

「濡れてしまったので、乾かそうかと……」
「本気で言ってます?濡れたままでは風邪をひきますよ」
「ふふ、私は天使さまなんでしょう?風邪なんかひきません。貴方はどうしてここに?」

濡れた髪がひたりと彼女の白い頬にはりついている。どことなく色っぽくて、つい、道化を演じることも忘れて言葉を失ってしまった。

「……あの、本当に、別になんでもないんですよ。転げてバケツをひっくり返してしまっただけなの」
「は……、あぁ、いえ、そうでしたか。何にせよ濡れたままではいけませんね」

自分の肩に掛けていたブレザーを彼女の肩にかけてやると、彼女は困ったように笑った。

「貴方は優しいひとですね。美しいその見た目に相応しく、まるで王子さまみたい」
「では、ガラスの靴が必要ですね!貴女にピッタリのガラスの靴をご用意致します……☆」

ようやくいつもの調子を取り戻すと、今度は彼女が目を見開き驚いたような顔を見せる。

「貴方が王子さまなのはいいけど……私がお姫さまなの?……変なの」
「何をおっしゃいます、シンデレラ。私はあの日から貴女に夢中なのですよ」
「……貴方の言葉はティッシュペーパーみたいね」
「そんなに軽く聞こえます?」

くすくすと笑いあって、改めて目下の問題を思い出す。立ち上がり、彼女に手を差し伸べてニッコリ笑顔をつくってみせる。

「とにかく着替えましょう。着替えがないのなら、私のジャージくらい貸しますよ。もちろん私の女装時の衣装でも構いませんが!」

彼女は私の手を取って立ち上がり、やはり可笑しそうにくすくす笑う。細められた瞳が穏やかに私を見つめるさまが、今はどうにも愛おしくて仕方がなかった。

「貴方の女装は、さぞかし綺麗なのでしょうね」
「貴女が望むならいつでも女装で参上しますよ!さ、演劇部に行きましょう!あそこなら着替えるスペースも服も布も沢山ありますからね」

有無を言わさず、彼女の手を取ってアイドル科の校舎へ向かった。もちろん必要な手続きは踏んでいない。抜け道から移動して、こっそり部室まで案内した。

「さあ!着きましたよ、早速着替えましょう!」

部室のドアに鍵をかけ、衣装の詰め込まれたクローゼットを開け放つ。

「……ところで貴女、身長は?」
「160くらいです」
「なるほど!ならここにある衣装は着れませんね!大人しく私のジャージをお貸ししましょう……☆ そこの仕切りで着替えてくださいね」

長袖のジャージを押し付けて仕切りの向こうへ押し込むと、彼女は大人しく着替え始めた。

しかし、バケツをひっくり返してしまった、なんて、見え透いた嘘だ。頭から被ってしまうなんて有り得ないし、バケツに水をいっぱいにして運ぶなんて、いったいいつそんなことをするというのだろう。

「日々樹さん、どうしたんです、怖い顔をして」

私のジャージを着た彼女が、ふわりと笑って仕切りから出てくる。思わず、抱きしめてしまいそうになった。グッとこらえて笑顔の仮面をかぶると、彼女は穏やかに目を細める。

「なんでもありませんよ!少しぼうっとしていました。それより……フフ、ぶかぶかですね」

ちょっとしたワンピースのような丈と、手をすっぽり覆って余りある袖を見て苦笑する。彼女はジッと私の瞳を見据えて、余った袖を弄ぶ私の手を掴んだ。

ひたりと冷たい柔肌が私の手首に触れている。ばくんと心臓を食べられてしまったようだった。

「どうか邪推しないで、私は何ものにも傷付けられていないのだから」
「…………どうしてそんな嘘を?」
「嘘なんてつかないわ」
「戯曲作家がよくもそんなことを!まして貴女は役者でもあるのに」
「なら言葉を変えます」

彼女は息を吐いて、一度顔を伏せる。それからまた顔を上げて、眉を寄せ、悲しみを浮かべた笑顔で私の頬に手を添えた。

「貴方が私を天使と呼ぶのなら、貴方こそ、私を人間に堕とすようなことは言わないで」
「……あぁ、何てひとでしょう。狡いですね」
「私、貴方のことは好きですよ」
「えぇ、わかります。わかりますよ、私、役者ですから。……台詞の意味は誰よりも理解しています」

彼女は安心したように微笑む。あぁ、なんて可憐で美しく狡いひとだろう。私の天使さま。天使である限り、高貴で崇高なものだと私が彼女を呼ぶ限り、貴女は傷付かない。

たとえどんなことがあろうとも、私が台詞を違わなければ。

「ジャージは明日、返しに来ます。放課後に、また此処へ」
「……わかりました。待っています」