「……あの〜、なにをしておるんじゃ?」

飛行機から下りたきり、手で目を覆って完全にフリーズしてしまった私に声をかけてきたのは恐らく朔間先輩だった。

「目が……目が痛くて開けられません……」
「おやまぁ……よしよし、おいで。日傘の下なら少しはマシじゃろう」

そう言った先輩の声がすぐそばに近づいてきたので、恐る恐る目を開けた。朔間先輩の日傘は流石に遮光性が優れているらしく、ようやく自分の足もとくらいなら見られるようになる。

「はぁ……すみません、助かります」
「別に構わんぞい。いやしかしこうも日差しが強いと敵わんのう。……おぬしも虹彩の色素が薄いのでつらいのじゃろうな」

 つい、と指で顎を上向かされ、ばっちり至近距離で目を合わせられる。突然綺麗な顔が視界に入ったので私はまたしても固まってしまった。

「あっちょっとちょっと!? 朔間さんなに相合傘してんの!? あと顎クイとかしないで俺の名前ちゃんに!」
「羽風先輩のではないです、断じて違います。二度と言わないでください。あと日差しがキツくて目が開けられないので仕方なく入れていただいてるだけですから」
「わ、我輩たちもしかしてめちゃくちゃ嫌われておる?」
「もう、いいから早くホテル行きましょうよ。暑いですよ」

 つん、と必要以上の素っ気なさを振舞って、朔間先輩と歩幅を合わせながら歩き出す。カラリとした暑さは日本の暑さよりもしかするといくらかマシかもしれないけれど、日差しにかんしてはかなりキツい。こんな調子で(いくら夜にせよ)ライブだなんて、朔間先輩は大丈夫なのだろうか。

 気になってちらりと隣を見ると、思いもよらず目が合った。驚いてすぐに目をそらす。

「……くく、どうしたんじゃ」
「なん……なんでもないです。朔間先輩、もし日差しのことで……ライブとかレッスンとか困ったことがあれば言ってくださいね」
「これはこれは、有難いのう。ではちょっと精気をいただいても構わんかえ」
「えっ、」

突然、腰を引き寄せられそのまま力いっぱい抱き締められる。不幸にも皆が移動する最後尾だったせいで誰にも気づいてもらえない。思いのほかがっしりとした体格に包み込まれ、不覚にも心臓が飛び跳ねてしまった。

 朔間先輩は三秒ほど私を抱きしめたあと、満足したように身体を離してまた平然と歩き出した。私はなんだかぐったりしてしまい、彼の行動を咎める気にもなれず、ただふらふらと先輩についていくしかできなかった。



 ──このバカンスについていくことになったのは、伏見先輩からのお誘いがきっかけだった。あんず先輩と伏見先輩と私の三人で、fineが最初に言い出した旅行の企画をしようという話だったのだ。天祥院先輩が必ずUNDEADを招待しろという条件を伏見先輩に課したので、わりかしUNDEADと関わりが深い私も一緒にという話になったらしい。

 最初は海外に先輩のお金で……? とかなり遠慮していたけれど、なんだかどうにもきな臭い。あまり訝しむのも失礼だろうけどただ平和なだけのバカンスとは思えなかったので、企画にも携わり同行することにしたのだ。

つまり旅行に朔間先輩がいることを全く念頭に置けていなかった。一学期終わりごろからよく目が合うようになって、今は正直顔を見るのが少しこわい。自分が何かを踏み違えてしまいそうでこわかったのだ。

「おい名前! 聞いてんのかコラ! テメ〜俺様を無視するとはいい度胸じゃね〜か!?」
「うわっ大神先輩……あ、すみませんボーッとしてました」

 一日目の午後、ユニットごとにレッスンをすることになったのでUNDEADのほうへ付き添っていたのだが、疲れが出たのかかなりボーッとしてしまっていた。突然大神先輩の怒鳴り声で現実に引き戻されたので誤魔化すように笑う。

「ったくよ〜ボーッとしてましたじゃ……おい、テメ〜……っおい大丈夫かよ!?」
「へ?」

ガッと肩を掴まれたのでびっくりして目を丸くする。たらりと変な感じがしたので自分の人中に触れると、手にべったりと赤い血がついた。ぼたぼた、と鼻血が出てくる。

「うっわすみません、んぇ、あ〜……」
「だぁあッ上向くんじゃね〜よ! 汚してもいいからそのままにしてろ!」
「あいや大丈夫なのでほんと、ちょっと洗ってきま、す……あぇ、」

 自分のせいでレッスンをやめられてはかなわないと思い、大神先輩の手を振り切ってスタスタ歩き部屋を出ようとした。が、足を踏み出した途端ぐらりと身体が傾いて、その場に倒れてしまう。すると白い手がぬっと目の前に現れた。

「そんな状態でうろつかれては困る。少しじっとしておれ。……部屋に運ぶので皆は五分ほど休憩したらまた再開しておくれ」
「ん〜それは良いけど、朔間さん名前ちゃんに変なことしないでよ?」
「くくく、肝に銘じておこう」

ひょいと軽々身体を抱き上げられ、有無を言わさず部屋から運び出された。わ〜力持ちだな〜なんてぼんやり馬鹿なことを考えるくらいには頭が働いていなかった。

「……熱中症じゃろうな。少し緊張しすぎじゃ」
「はぇ」
「一応、バカンスなんじゃから。UNDEADを心配してくれておるのはわかるが、おぬしがそう気張ることはない」
「んん……すみません」

 まだぼたぼた出てくる鼻血を服の袖で抑えながら、私はじっと朔間先輩を見つめていた。先輩は私をホテルの部屋まで運ぶと、私をベッドに下ろして縁に座らせた。そして床に膝をついて私を見つめたかと思えば、突然顔を近づけて私の鼻血をぺろりと舌先で舐めとった。

「……ふむ、不思議じゃのう。ウェッてならん」
「さ、最悪……、痴漢ですよ今の」
「くく、すまぬ。あんまり美味しそうだったものじゃから。皆には内緒にしておくれ」
「……」

朔間先輩はくすくす笑って立ち上がると、私の頭を雑に撫でて洗面所へ向かった。そして備え付けのタオルを濡らして持ってくると、汚れた私の手や口もとを綺麗に拭ってくれた。

「あともうひとつ、お小言じゃけど。こんなふうに男とふたりきりにはならぬように」
「んな……、なりませんよ、今はあれですけど……」
「今は例外?」
「だって善意で運んでもらったのに」
「それがあまり良くないんじゃよ。善意の裏に下心が隠れていることはある。せめて部屋の前で帰ってもらうとか、歩けるのなら抱っこは断るとか……とにかくおぬしはもう少し人を疑ったほうがいい」

つらつらとお説教のようなものを聞かされている間、私はやっぱりぼんやりしたまま右から左へという感じだった。朔間先輩もそれがわかったのか、私を見て仕方なさそうに笑った。

「まぁ、今はわからんかのう。……よし、綺麗になったぞい。ほれ、あとはお水を飲んで服を着替えて、夕食まではゆっくりお休み」
「朔間先輩」
「うむ、なんじゃ?」
「……なんでもないです」

 まるで母に甘えるように……安心させてほしい、抱きしめて欲しい……だなんて思ってしまった。けれどいくら頭が動いていないと言っても、なんとかその一線だけは保つことができた。目を逸らしてぎゅっと拳を握り締める。

「おぬしって案外甘えんぼさんじゃのう」
「えっ」

言ってないはずなのに、朔間先輩はなんでもわかってるみたいな態度で当たり前のように私を抱き締めた。今度はぐったりなんてしなくて、ただ優しく満たされるような感覚をおぼえる。突き飛ばすことももちろんできず、私は無抵抗に抱き締められたままでいた。

「……甘えんぼさんを甘やかすのは得意なのじゃよ。我輩、お兄ちゃんじゃから♪」
「………………」
「心配せずとも誰にも見られておらんし誰にも言わぬ。しかしあまり長居すると薫くんに怒られそうなので、我輩はそろそろ戻るぞい。また呼びに来るからの」
「はい……」

朔間先輩はそう言って、ペットボトルの水を渡し部屋を出て行った。私は残された部屋でぐいと水を飲み、服を着替えてベッドに横たわる。何かを深く考えることはせず、そのまますぐに眠りに落ちてしまった。