橘真琴は嫉妬深い。
 付き合った当初はそんな影を見せずに、上っ面には優しい顔の仮面を被っている。何人もの女を虜にした、それはもう、とろけるように甘いやつ。
 当時の私も、それに簡単に騙された。だって、初めての彼氏だったし、好きな人と付き合えるという事実が、本当に嬉しくてたまらなかったから。
 その頃の私は、「真琴くんはいつも優しい」「優しい真琴くんが好き」「真琴くんが優しすぎて、逆に付き合うのが申し訳ない」なんて思いながら、彼しか眼中にない生活を送っていた。それは本当に文字通りで、「男と付き合って馬鹿になった」と、友人に心配される程度には彼のことばかり考えていていた。毎日、アホみたいに浮かれていた気がする。
 だから、終焉が近づいているだなんてことには、全く気付いていなかった。

 それは授業中のこと。
 つまらない授業を聴くのにも飽きたと、璃黛は机の中に手を伸ばした。ちゃっかり、サイレントマナーモードにして忍ばせておいた携帯電話を手に取る。先生の目を盗んで待ち受け画面を見ると、 "新着メール1件" の通知が出ているのを確認した。
 あ。多分、真琴くんだ。と、うきうきとした気持ちを胸にしながら受信メールボックスを開いた。 "Re:" が続くタイトルの下には、差出人である橘真琴の名前が表示されている。それを見て、顔がにやけそうになるのを必死に抑えた。
 なんて書いてあるのかな。また、暇だな〜とかかな? それとも、ハルがまた寝てるよ〜っていう、遙くん観察の定期報告だったりして。なんて、そういう "いつも" を考えながら、真琴からのメールを開封した。
 飛び込んできた文字に、ヒュッと、声にならない息を呑む。内容を見た瞬間、時が止まったかのように感じた。
 そこには、『璃黛のこと、好きか分からなくなった。俺たち、もう別れよう』と、目を疑うような言葉が並んでいた。

 え、え、なんで、どうして。と、パニックになって、授業中にも関わらず、顔を伏せて声を殺して泣いた。授業の終わりと同時に早退して、家に帰ってはすぐに泥のように眠った。受け入れられない現実から目を背けたかったのかもしれない。
 眠りから覚め、ぼうっとした頭のまま、いちばんにメールを確認したことを覚えている。夢ではなかったことにショックを受けて、どうしてこうなったのか分からなくて、何度も泣いた。
 その合間、震える手でやり取りをしたみたいだけど、私はそのことを全く覚えていない。一度、失恋をしたという事実だけを記憶している。
 その後が本当に地獄だった。人間不信になり、ご飯も食べられない日が続いて、目に見えるくらいに体重が落ちた。辛くて、死んでしまおうかと思うことさえあった。それだけ、私の人生には真琴という人間が必要だった。
 今思えば、ただただ恋愛に依存していただけだったんだけど。

 数ヶ月してよりを戻したときは、生きててよかったと思ったくらい。
 今度はこの幸せを大事にしよう。一度別れたのは、もっと絆を深めるためだったんだ、なんて思ったりして。私、笑っちゃうくらい健気だよね。
 すごく満たされた気持ちでいたけど、付き合いが再開したと同時に、真琴の束縛も始まった。
 初めは可愛いらしいものだった。もっと話したいとか、あまり男子と話さないで欲しいとか。それくらいなら私も思うよ、とお互いにお互いを束縛し合っていたような気がする。そうすると、すごく安心したんだ。
 だけど、そうやって安心した矢先に、また真琴から『別れよう』と告げられる。理由は、だいたい私が悪いことの方が多かった。あとは、真琴が付き合っていく自信がないとか、意味の分からないもの。
 前回と同じようにして、私は泣きついて別れを拒む。そして、数ヶ月くらいで復縁して、また真琴の束縛が激しくなる。今はそれが悪かったんだと分かる。真琴は味をしめて、別れると言っては、私の愛情の深さを計っていたんだと思う。
 それでも、私は真琴が好きだったし、そんな理由で別れたくないという気持ちが強かった。だから、毎回傷ついては泣くし、復縁したあとも、どんなに理不尽で強引なものだったとしても、それの要望に必死で応えた。また別れが来るのが怖かったから、というのも理由のひとつだったかもしれない。
 気がつけば、そんなことを2年間も続けていた。そして、通算10度目くらいの『別れよう』の言葉を目の当たりにしたとき、何かが切れた。

 私、何してるんだろう。

 それが、真琴からメールを見て思ったことだった。
 いつもならすぐに、「ごめん」と「好き」と「直すから」の言葉を並べるのに、そんな気分にすらならなかったし、涙さえも出なかった。
 この日を境に、璃黛は真琴と連絡を取ることを辞めた。

 それからは、1週間に1通ペースでメールを受信していたけれど、それを見ることもなく削除をした。彼のことを思い出すのは、受信ボックスを確認した時のみ。その時は嫌な気持ちになるけど、それ以外は、とても気分が晴れ晴れしていた。
 変わらず無視を続けていたある日、連絡を絶ってから4通目となるメールを受信した。そのとき、初めて文面を見る気になって、 "無題" と表示されたメールを開封する。
 そこには、『生きてる?』の一文だけが記されていた。思わず笑いが漏れる。
 私は、なんでこの人が好きだったんだろう。なんでいつも我慢してたんだろう。何を必死になっていたんだろう。と、たくさんの疑問が一気に溢れ出てきた。
 そこからはもう無意識で、気がついたときには、『もう、私と別れてください』と打ったものが真琴に送信されていた。

 次の日、私は真琴と会っていた。
 初めは話し合いのような形だったけど、気づいた時には、私が罵られるような形になっていた。当たり前のように私が悪くて、話しを聞くだけばかばかしい。今までの私は、なんで泣いていたんだろう。それが不思議で仕方なかった。
 そこにはもう気持ちはなくて、相手の言葉を聞き流していたからだろう。真琴も途中で私の異変に気づいた。いつもなら、泣いて縋って謝って、愛の言葉を並べるのに、今の私は泣いてさえいないのだから。
 彼は言葉に詰まったあと焦った顔をして、

「ごめん、璃黛。俺、なんか感情的になっちゃって……もう一度、話し合おう?」

と、縋るような目をして言った。
 ああ、私はこの顔に騙されてきたんだなって初めて気がついた。なんだろう。こう、気持ちがすうっと引いていくような感じ。心臓が冷却されるような感覚。現況、気持ちが冷めていくのを実感して、私に真琴の言葉は聞こえていなかった。
 私には、この恋の終わりしか見えていなかった。

「もう遅いよ」

 璃黛はそう言って立ち上がり、その場を後にした。しばらく歩いて、真琴が追ってこないのに安堵する。
 とにかく感情を無にして歩いた。考えると、無下にした罪悪感を感じてしまうと思って。酷いことをしたと自己嫌悪するのが目に見えるようで。弱みに付け込まれるのが嫌で、ひたすら自宅に向かって歩いていた。

 家まであと少しというところ、鞄の奥底に隠した携帯電話がヴ、ヴ、ヴ、と震えた。きっと真琴だろう。根拠のない自信があった。
 早足で敷居を跨ぎ、自分部屋に駆け込んだ。携帯電話を取り出し、受信メールボックスを開く。そこにはやはり、橘真琴の名前があった。少しの深呼吸のあとにボタンを押す。
 予想では、「今までありがとう」か「考え直して」のふたつ。だけど、そこにはどちらもなかった。

『さっきの冗談だよね?』

そう書かれた文面を見て、この人、駄目だと思った。
 こっちが冗談なのかと聞きたいくらいだし、人のこと馬鹿にしてるんじゃないかと思った。もう無理の一言に尽きる。璃黛は乾いた笑いをひとつしてから、涙を一筋こぼした。
 なんでこんな人を好きになっちゃったんだろう。そんな後悔しかなかった。「ありがとう」も「ごめんなさい」も言う気になれなかった。あるのは嫌悪。それと、拒絶。
 この人には、それを伝えないと逃げられない。それを直感的に感じていた。

『私の人生に、もうあなたは必要ありません。別れてください。お願いします。
 それに、連絡もしないでください。番号もアドレスも全部変えます。私を自由にしてください。本当にさようなら』

それだけ送信して、二つ折り携帯を逆にへし折った。部品がふたつに分かれた電話をベッドに放り、自分もそのまま倒れ込む。
 疲れと安堵が顔を出し、目を閉じれば意識はすぐに混濁した。

 さようなら、わたしのはつこい。
 別れ話をメールでだなんて、ほんと、私も最低だよね。

2016.05.07
トランキライザー


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