◎残虐的
「エンヴィー…?」
己の名を呼ぶ女の声が、嫌に耳に付いた。
わけが分からないとでも言いたそうな瞳、不安そうに伺う表情、怯えから震える手脚、緊張で強張っている身体。璃黛がそうしている。ただそれだけなのに、目に映るすべてが鬱陶しいと思った。
「璃黛を好きにしていいのは、このエンヴィーだけなんだ」
その声は、低い。
男女二人は、薄暗い路地にいた。というより、居合わせたとでもいうべきか。
璃黛は、逢魔が時には薄暗くなってしまう脇道を通ろうと思っていた。早く帰ろうと、近道をするつもりで。
大通りから路地に反れてすぐ、それは少しの違和感のようなものだったかもしれない。なんだか、嫌な予感がするというか。暗がりに、何か恐ろしいような、得体の知れないものが潜むような、そんな雰囲気を感じていた。
……が、生憎、それは見事に的中した。
闇に扮したエンヴィーが、「ずーっと、考えてたんだ」と言った。裸足特有の足音が、ひた、ひた、とゆっくりこちらに向かってきている。
表情は、なかった。
「璃黛は誰にでもへらへらと笑って、誰にでも同じように接して、僕以外のヤツらに愛想を振りまいて? そんなお前を見てると、苛々して駄目なんだよ。なんだか痛くて苦しくて、許せない気持ちになってくるんだ……」
僕は璃黛を見た。
彼女は、僕を見ていた。
「璃黛が関わると、いつもこんな気持ちになるんだ。どうしてなのかが分からなくてさぁ…ほんっと、嫌になる。いつもいつも頭の中がぐっちゃぐちゃでめんどくさいことになってるんだよ…!」
いつも考えているのに、未だに整理しきれていない感情というものに苛々する。
そうさせている原因が、本人が、璃黛が、どうしようもなく憎い。憎くて憎くて仕方がない。ぜんぶ、ぜんぶ、どうにかしてやりたい。
強く触れたそこから壊れていってしまいそうな、この人間の女をぶち壊してやりたい。僕の心をかき乱す彼女を、璃黛を、僕でいっぱいにしてやりたい。
僕の見えないところで、黒いものが、じわりと沁みた。
「お前が他の誰かに取られたら、なんて、そう思うだけで……」
吐き気がする。
エンヴィーは、背に悪寒が走りそうな笑みを浮かべて言った。瞬間、異様な雰囲気を感じ、璃黛は向き合ったままに後ずさる。どうして…と、そんな疑問が浮かんで消える。わけが分からない。背を向けて全速力で逃げ出してしまいたい。だけど、目を離すのが、こわい。
このとき、璃黛はエンヴィーに恐怖していた。また、様々な感情が混じった葛藤のようなものも抱いていた。それに気を取られてしまい、足もとの段差に躓き転倒する。痛みと衝撃の次、背中に固いアスファルトの冷たさが伝わる。
正面からは、ひた、ひた、とゆっくりこちらに近づいてくる足音。視線で囚われ動くことができなくて、やがて、距離は詰められた。
「お前は、このエンヴィーを、どうしたいの? 」
開いた瞳孔に覗き込まれ、エンヴィーの冷えた指が璃黛の頬を撫でる。すぅっと輪郭に沿わせる指先に、逃げられないと思ったのが一瞬だった。
そして、またの一瞬。彼の掌は璃黛の首へ、這うようにぴったりと密着されていた。何だと思う間もなく、添う手から一気に圧が掛けられる。喉が詰まり、腔から空気が締め出される。
息が、できない。
「……っぐ、…ぃ……っ」
苦しい。言葉が音にならない。声は、か細い呻きになる。怖い。助けて。誰か。お願い。なんで。どうして。いやだ、嫌だ…!
徐々にエンヴィーの体重がのし掛かり、絞められる圧が強くなる。すごく、重い。それでも腕に力を込めて、苦しさから逃れようと後ろに這う。ああ、誰か、助けてほしい。
逃げた先で、何かに肘がぶつかった。期待と同時、背にひんやりと冷たい感覚が沁みてゆく。淡い期待はすぐに溶けて黒ずんだ。璃黛は、自らの意思で無機質な壁へ逃げた。背にはシケを感じるコンクリート。璃黛は、ただただ追い込まれただけだった。
エンヴィーが愉快そうに声を張る。思うは、不快と悔しさと苦しさ。
「あは、あはは…! 苦しいんだろ? 怖いんだろ? まだだよ、まだこんなんじゃ駄目なんだよ…!! ははっ、良いねぇ…そんな表情を見せられると、胸の奥がざわざわしてきて落ち着かなくなるよ」
と、ケラケラと笑っていた。エンヴィーは、璃黛が苦しんでいる様を舐めるように覗き込み、そのまま、うっとりとした表情で見つめている。
その先、璃黛の肌は青く白みはじめていた。
「もうさ、分からないんだよ、何もかも! その表情はなんだ? いま、何を思ってるんだ? ねぇ、僕が憎い? それとも愛しい? どっちも? あははっ、切ないよねぇ…いい気味。いまの璃黛は、璃黛の中は、僕でいっぱいでしょ…?」
ふふっと笑んだ顔は、まるで愛情でもそそぐかのよう。
それが、急に、一変した。
「この僕が、こんなに人間に翻弄されてたなんて…! たかが人間の女に…! ほんっと、虫唾が走るね! 反吐がでる!! 虫ケラごときが調子に乗るなよ」
纏まらない心が発する言葉とは裏腹になる。それが、酷く鬱陶しい。苛つく気持ちが、喉元に這わせた掌をグッと力ませる。エンヴィーの手にある感触は、肉の奥の固いところまで到達してきていた。
璃黛の骨だ。もうこんなに深くまで触れている。もうすぐ、ひとつになるんだ。やわらかい髪も、透き通るような白い肌も、華奢な四肢も、澄んだ瞳も、凛とした音を発する唇も、ぜんぶが僕のものになる。ああ、恍惚とする…!
「ねぇ、璃黛……」
お前を好きにしていいのは、この、エンヴィーだけなんだ。だからさ、璃黛も、頭の中を僕でいっぱいにしてよ。……ああ、もう、聞こえてないかな? 目がうつろだ。
小刻みに痙攣していた手は、時折りビクつくのみ。喉の筋肉から振動が伝わらないところ、もう呼吸をしようとしていないことが分かる。璃黛の顔は、それはもう可哀想なくらい真っ白だった。はは、もうすぐ独り占めができる。そうだ、僕のものになったら、頭がおかしくなるくらいの愛をたくさん込めてやろう。
「ふふ、もう少しだよ」と微笑み、あるだけの力を一点に込めた。
あーあ、首の肉がゴムみたい。ぎゅうっと潰すように握れば、喉からぐぐうっと、空気が抜ける。そして最後、路地には鈍い音が、一度、響く。
ゴキンッ
其の音は鳴った