学園の廊下は底冷えする。ぶるっと身震いをひとつして、保健室に向かう途中、ふと、窓越しに中庭の景色を見た。あ、やっぱり。ぷかぷか先輩は、今日も噴水に浸かっていた。
渡り廊下から外に出て、これも私の仕事だと行き先を変更し、噴水に向かって歩みを進める。時折り吹く風が身に染みる。陽は出ていて暖かいけれど、寒空の下で濡れていては風邪を引いてしまうかもしれない。そんな心配を余所に、「ぷか、ぷか」と、いつもの楽しそうな声が聞こえてきそうだなと彼の姿を見て思った。
まだ距離があるとは思いつつ、拡声器代わりに片手を口元に当て、
「奏汰せんぱーい!」
と、手を振り呼びかけた。
奏汰はというと、辺りをきょろきょろと見回して、声の主を探していた。しばらくして、遠目に璃黛の姿を見つけたらしく、顔を嬉しそうにぱああと輝かせ、甘えたような声で「璃黛〜」とこちらに向かって手を振っている。
璃黛は少しだけ小走りし、奏汰の側まで行って対立する。先輩、風邪をひきますよと、口先だけは心配しているような声をかけた。
「先輩、風邪をひきます」
「璃黛は『いいところ』にきましたね! いっしょに『ぷかぷか』しませんか?」
「……遠慮します」
「それは『ざんねん』です〜…」
奏汰は、しゅんと肩を落とした。
そんな姿に少しの罪悪感を覚えるものの、寒いのは嫌なのだ。加えて濡れるなんて余計寒くなるから絶対に嫌だし、変に目立つのはもっと嫌だ。だから、奏汰先輩には諦めてほしいなんて思ってたのに、当の相手は全く気にしていなかった。「ぷか、ぷか」と、鼻歌交じりにご機嫌な様子。切り替えが早くて羨ましい限りだ。
「きょうは『おひさま』がでているので『ぽかぽか』して『きもちがいい』ですね〜」
「そうですか。でも上がってくださいね」
「……璃黛は『いじわる』です……」
「奏汰先輩を心配してるんですよ。水もまだ冷たいでしょう? 風邪を引く前に、早く服も乾かしちゃいましょう」
「それは『だいじょうぶ』です!」
「何が大丈夫ですか」
「きょうは『あたたかい』です。なので『しぜんかんそう』も『はやく』かわきます!」
えっへん! と、奏汰は鼻高々に主張した。そしてすぐに、「だから『あとすこし』だけおねがいします〜!」だなんて頼まれてしまい、結局、私の方が根負けしてしまった。
ぷか、ぷかと口遊む横で、ふと、自分の手元を見遣る。そういえばそうだったと、こちらに来た趣旨を思い出したのだった。
「そういえば、お昼ご飯は食べましたか?」
と、問うと、きょとんとした顔が璃黛に向けられている。奏汰は「すっかり『わすれて』いました〜」と言って、ふにゃりとゆるく綻びた。
璃黛はやっぱりそうかと少し呆れた。次に、奏汰に向かって「そうだと思いました」と告げ、手に持つ小箱を手前に置いた。
「…? 『それ』はなんですか〜?」
「私のお弁当です。今日は手毬寿司を作ったので、良ければ半分こして食べましょう」
「璃黛の『おべんとう』なのに『ぼく』もいいんですか?」
「はい。多種はないですが、お魚もありますよ〜」
「おさかなは『すき』です」
「ですよね。なので、水から上がって一緒に食べませんか?」
と、提案した。題して、深海奏汰の魚好きを利用して噴水から脱出させてやる作戦、だ。これなら自ら上がるだろうと思ったのも束の間、口を開けて待つ奏汰の姿が目に入る。
「璃黛が『あ〜ん』してくださいっ」
そう言って、奏汰は自分の口を指差している。作戦は失敗だったかと、端でくつろいで待つ奏汰を見て思った。呆気なく終わった試みに落ち込みながら、ため息をひとつ。
ペットの面倒を見るなら最後までと言うし、奏汰の面倒を見るのも最後まで、ということだろう。そこまでしなくちゃいけないのかと思いつつも、仕方ないなと腹を括った。
「奏汰先輩、美味しいですか?」
「はい、『もちろん』です」
「水から上がれば尚更だと思いますよ?」
「璃黛はわかっていませんね…『かなしい』です……だけど『りょうり』は、とても『じょうず』です」
「はは、ありがとうございます」
「璃黛といっしょに『ふんすい』でたべる『ごはん』は、とくべつ『おいしい』です…!」
と、奏汰は上機嫌に、もぐもぐと言いながら口を動かしている。その姿はまるで子供だ。大きいのに、子供。なんか変な感じだ。気付くと、先輩のことを凝視していた。
手毬寿司なんて、具が乗った小さなおにぎりみたいなもの。自分で食べれば良いのに…なんて言葉は粗餐と一緒に飲み込んで、自分と奏汰と交互に食を運び与える。でも、美味しいですかと聞くたびに、律儀に「美味しい」と言葉を返してくれるので、案外これも悪くないかもなんて思った。
奏汰先輩は、意外と飴と鞭を使うのが上手いのかもしれない。…なんて、思ってるそばから、
「璃黛〜『つぎ』ください〜〜」
催促された。またもや口を開けて待つ姿。それをじぃっと見つめて、ぴよぴよ、ぴよぴよ、鳴き声と一緒にひよこが脳を掠めた。
ああ、なんだか、餌付けしている気分になってきた。彼は雛か。雛鳥なのか。そして私は親鳥なのか。まさか、高校生にして親鳥の気分を味わうとは思ってもみなかった。
そう思いながら餌付けを続けていると、くすくすと控えめな笑い声。見ると、奏汰先輩が楽しそうに笑っている。
「くすくす、くすくす。なんだか『ひな』になった『きぶん』です〜」
先輩、奇遇ですね。私も同じようなことを考えていました。
2016.02.28
くらげのえづけ