「璃黛さん、ちょっと良いですか。」
ガヤガヤと生徒で賑わう昼休み。
友人と廊下を歩いていると、不意に後ろから、聞き覚えのある声で呼び止められた。振り返ってみると、そこには少し怖い顔をした怜が静かに廊下に佇んでいた。
「どうしたの?」
「ちょっと来てください。…すみませんが、少しの間だけ璃黛さんをお借りします。」
「え?え、ちょっ…怜?!」
怜は私と一緒にいた友人に詫びを言うが早いか、私の腕を掴んで、さっさと廊下を歩き始めた。
いきなりのことに呆気にとられながらも、とりあえず私は一緒に居た友人に「ごめん!」と、ジェスチャーで一言謝った。
見るところ、どうやら怜は怒っているらしい。
私の手首を掴む怜の手と、ぐいぐいと引っ張る力の強さがそれを物語っている。ぶっちゃけ掴まれる手首が少し痛いが、今の雰囲気でそんなことを言えるはずもなく、とりあえず痛みは我慢しつつ、戸惑いながらも私は黙って怜の後ろをついて行くことにした。
渡り廊下を抜け、空き教室が並ぶ廊下を進み、ひと気のない端の方まで来たところでやっと怜は立ち止まった。
当然、腕を離してくれるものだと思いきや、握った手はそのままに怜は私と向かい合うような体制になる。そして少しの沈黙のあと、「説明してください。」と形のいい眉を寄せながら、怜がそう口を開いたのだった。
「……何を?」
「とぼけないでください。」
脈略のない質問に対して、私がそう答えるのはごく自然のことだったと思う。だけど、どうやら私の返答は気に入るものではなかったらしい。
先ほどよりも、更に眉間にシワを寄せながら、怜は言葉を続けるのだった。
「璃黛さん、昨日は凛さんと出掛けるって言ってましたよね?」
「う…ん?それ、言ってあったよね?別に良いですよって、怜、了承してくれたじゃん。」
「それとこれとは話しが別です。」
「……意味が分かんないんだけど。」
「いくら僕でも怒りますよ。いつまでとぼけるつもりなんですか?凛さんと出掛けるって、そういうことだったっんですか!」
そう言うが早いか、怜は私の制服の襟に指を突っ込むようにしたかと思えば、器用に片手だけでシャツの第一ボタンを外した。
いきなりの行動にびっくりして、思わず「何するの?!」と声を上げてしまったが、怜の手は止まらず両手を使ってどんどん私の制服のボタンを外していく。待ったをかけるものの、私の握力の無さすぎる手では怜の動きを止め切ることが出来ず、気が付けば、着ているシャツの半分、いわば下着が見えるか見えないかのギリギリのラインまでボタンが外されてしまっていた。
怜の様子が明らかにおかしい。滅多にこんなことしないのに。その場所がどこであったとしても、だ。今日に限って何故そんなことをするのかと、私は素直に疑問に思った。
理由を問おうと視線を上げると、私を見ていたらしい怜と目が合った。かと思えば、怜の視線は私の瞳からすぐに外れて下へ下へと下ろされる。
そして、ある一点を見つめた怜の表情が強張ったものへと変化した。
「……僕に分かるように説明をしてください。」
「だから、何を?」
「これのことですよ!」
そう言って、怜は私の首の辺りを指差した。
どれのことを言っているのだと私が首を傾げていると、怜は「ここですよ!ここ!!」と更に言葉を付け加えながら、怒っている原因のその場所を人差し指で押し示した。
どうやら鎖骨のちょっと下、胸より少し上の位置にある、赤く腫れている「それ」のことを怜は言っているようだった。
「……これ?」
「そうです。きちんと説明してください。」
「え、と…ただの虫刺されだけど……なんでそんなに怒ってるの?」
私がそう言うと、怜の口からは「は?」と、随分と間抜けな声が出た。そして、意味が分からないとでも言うような顔をして私の顔をジッと見つめている。
これは昨日、凛と出掛けたときに虫に刺されたものだ。虫に刺されたくらいで何をそんなに怒っているのか、私の方が意味が分からない。
ベタにキスマークと勘違いしたとでもいうのか。悪いが、私と凛はやましいことなど何もない。簡単にそう言うと、怜は見るからに安心したような顔をして、おもむろに肩を降ろしたあとに「はぁ…」と大きなため息を一つ漏らした。
「……あの、すみません……完全に僕の勘違いでした……」
「浮気とか、疑ったの?」
「あの、えっと、……少し。いや、でも、今回は渚くんがですね……」
そう言った怜は、今に至るまでの経緯を説明してくれた。
どうやら、体育を終えたばかりの私と、廊下で会った渚くんが話してる最中にジャージの襟元からチラチラと見えている「それ」を見つけたのが始まりらしい。「それ」というのはつまり、キスマークだと勘違いした虫刺されのことだ。
渚くんはただの虫刺され跡を怜が付けたキスマークだと勘違いして、休み時間に怜を冷やかしに来たそうだ。
だけど怜が「僕はそんなもの付けませんよ。」と言ったことで、私の浮気疑惑が浮上してしまい、真相を確かめるべく急いで私を連れ出してきて今に至るというわけだそうだ。
真相が分かった今、渚くんがやたらとニヤニヤしていたのはそういうことだったのかと、私は妙に納得してしまった。
「璃黛さんに限ってそんなことは無いと思っていたのですが……その、実際見たら……なんて、今では言い訳ですね。……すみません。」
そう言いながら、怜はしょんぼりした面持ちでまた一つため息を漏らした。
いつも自信家な怜なのに、その落ち込む姿がなんだか珍しくて、妙にそれが可愛く感じてしまい、思わず私は笑ってしまった。
「笑わないでくださいよ。」
「ごめん、ごめん。珍しいなって思って、怜も可愛いとこあるんだね。」
「……男に可愛いは辞めてください。それと…僕の勘違いだったとはいえ、いきなりこんなことをしてしまい…………すみませんでした。」
「…ん。いいよ。」
怒られるのを覚悟していたのだろうか、怜は私の言葉に意外そうな顔をし、安心したように笑いながら何も言わずに制服のボタンを留め始めた。
私は大人しくされるがままで居たのだが、ボタンを2〜3個留めたところで怜の手が急に止まった。どうかしたのかと怜の顔を覗き込んでみれば、彼は無表情のままボタンを留める手をジッと見つめ、何かを考えているようだった。
「……どうしたの?」
「あ…いえ。僕の勘違いだったとはいえ、こんなあからさまに虫刺されの跡を晒しておくのは些か頂けないなぁと思いまして。」
「…ん?」
「なので…璃黛さん、ちょっと失礼します。」
「は?え、ちょ…、怜?!」
言うが早いか、私はまた怜に手首を掴まれてしまい、そのまま空き教室へと引っ張り込まれてしまった。
バタンと音を立てて閉められたドアを背にしながら、私は怜のした行動に呆気に取られていた。
黙ったまま私を見つめてくる彼に対して、何をするつもりなのかと軽く警戒心を覚えた。
入った教室はカーテンが閉められていてほんのり薄暗い。背中には、先ほど閉められたばかりのドアがあり、目の前には壁に手を着く怜の姿。
無意識にドキドキしていると、いつの間にか間合いが詰められていて、そのまま手早く眼鏡を外した怜に私はキスをされていた。
「…ん?!…んっ」
抗議の声を上げようと薄く口を開けば、「待ってました!」と言わんばかりにその僅かな隙間から舌が口内へと滑り込んできた。
びっくりして反応が出遅れてしまったが、瞬時に「ダメだ!」と思って怜を押し返そうとしたが、私の力ではビクともしない。だけど、その間も怜はぬるぬると舌を絡めてくる。
口の端から唾液が垂れるのもそのままに、歯列をなぞったり、逃げれば吸われて、押し返そうとすれば執拗に絡みついたりと、怜は私の口内を遠慮なく楽しんでいるようだった。
「や、…ぁ、ッ…め……」
「……は、少しだけ…お仕置き、です、」
「ん、…あっ、そ…なの、理不、じ…ッ」
頭がボーッとして力が入らず、脚から崩れそうになるのを必死に堪えるように、皺になるのも構わずに私は怜の制服のシャツを必死に握りしめた。そして私の脚が崩れる一歩手前で、ひとしきり堪能し終えたらしい怜は、最後にリップ音を立てて唇を解放してくれた。
「はぁ、はぁ、」と、足りない酸素を補うように肩で息をしていると、私の顔の真横に怜の顔が添えられた。
次は何をするつもりかと思えば、今度は急に耳を舐められた。思いがけない刺激にビクッと肩を震わせれば、その反応に気を良くしたのか更にちろちろと耳周辺を舐めてきた。時折出される吐息や粘着音が、鼓膜に響いて脳を刺激する。
絶対わざとやっていると思いつつも、囁くようにして「璃黛さん」と名前を呼ばれてしまえば、その声の色っぽさに何ともいえない羞恥心さえ煽られてしまって、もう無心になろうと私はギュッと目を瞑った。
「……期待しても、もうお終いですよ。」
「なっ……し、て…ないから!」
内の感情がスケスケで恥ずかしくなり、思わず声が大きくなってしまった。
私のそんな様子を見た怜が、ふっと笑ったかと思えば、耳のすぐ下辺りにピリッとした痛みが走って思わず私は顔を歪めた。
「な、なに……?」
「虫除けに、本物のキスマークを付けてみました。」
眉尻を下げた優しそうな笑顔で、怜はさも当然のように堂々と私にそう言った。
一瞬の間のあと、「ちょっと!こんなとこ恥ずかしいよ!」とすぐに抗議の声を上げてみれば、怜からは、「そんないかにもな位置に虫刺されがあるのも恥ずかしいですよ。」とため息混じりにそう返ってきた。
「璃黛さんは鈍感なので、今後のためにも自覚すればいいんですよ。」
「ちょ…困る!さっきまで無かったのに、友達が気付いたらなんて答えれば…?!」
「気づかれたらですか。そう…ですね…、また虫刺されだと言えば良い、でしょう?」
そう言って怜は優しく笑ったが、私にはその笑顔が悪魔にしか見えなかった。
2014.09.07
修正 2016.07.22
敏感と鈍感