いつもは賑やかしい執務室も、今日ばかりはしいんと静まり返っていた。
室内では、大佐が静かに怒っている。書類を睨めながら、ペンで机をはたいている。等間隔なその音と、各々が書類の上でペンをはしらせてる音しか今はしない。
これが、しばらくのあいだ続いていた。
「大丈夫、スか……」
と、見兼ねたハボックが声をかける。彼の向く先で、上司の手元が静止する。それから目線が動いたかと思えば、目があって、睨まれた。
きさまには大丈夫そうに見えるのか。と、かち合った瞳がそう語る。知るかよ。と、喉まで出かけた言葉を飲みこんだ。
上司のお目付けでもある、優秀な副官は休暇で不在。どうしたもんかと、ため息と一緒にタバコの煙を吐きだした。
上司のサボり癖はいつものことだが、こうも機嫌が悪いことはそうそうない。だが、思い当たる節はいくつかある。
まず、意中の女性からの連絡がない、というのが主立った理由と言えるだろう。しょうもないとは思うが、絶対そうだと言い切れる。彼女がいなくなってからというもの、上司の機嫌がすこぶる悪いからだ。
彼女というのが、少し前まで雑用を請負ってくれていた璃黛という事務職員だ。可愛らしく愛嬌があり、また自分たちとは同僚でかつてはマスタング大佐の部下でもあった。
最初こそはただの可愛いお茶汲みだったのだが、大佐が「正式に軍属になったらどうか」と勧誘したのがきっかけだった。それからはとんとん拍子にことが運び、彼女が軍属となり他へ配属になってからはしばらく経つ。いまごろ自分たちと同様、あくせくと働いていることだろう。
そんな彼女が遠方へと視察に出向いていると耳にしたのが、いまより少し前のことだ。これも、上司が不機嫌になってしまった理由のひとつに該当する。
現在と比べて、まだちょっとだけ機嫌の良かった大佐がぽつり、「璃黛は視察に出たっきり、連絡のひとつもよこさないのだが」と、小言をもらしていた。璃黛に限ってそんなことはないと思い、彼女と同じ部署にいる同僚にきいてみたところ、 “直属” の上司にはきちんと連絡を入れているそうだ。
と、なると。我が上司が言っていた『連絡のひとつもよこさない』というのは、『ロイ・マスタングには直接、連絡のひとつもよこさない』という意味で大方間違いないだろう。管轄が違うから当たり前といえばそうなのだが、うちのわがまま上司はそれがおもしろくないようだった。
箱入りにしていた元部下が、初めての遠方視察に出向いている。
それは良いとして、大佐は自分に連絡をくれるものだと信じて疑わなかったのだろう。彼女からの電話が一切鳴らないことに対しての拗ねと、連絡がないことへの不安とで、彼はどうにも気持ちが落ち着かないというようだった。
こうなると、ふたりは恋仲なのかと思いたくもなるが、決してそういうわけではない。大佐の一方的なものはあるかもしれないが、今回の件でもわかるように、彼女には相手にされていないことがよくわかることだろう。
お気の毒さま。と、そう言いたいところではあるが、我が人生の一生を終えてしまうのが目に見えるので口が裂けても言えるわけがない。
そんなわけもあり、この部屋のなかは緊迫した状態が続いている。居合わせた全員が自分に飛び火しないよう細心の注意をはらい、静かにこの場をやり過ごしているのが現状である。
重石をのせたような空気感に耐えきれず、自分だけは再度、煙と一緒に大きなため息を吐きだした。
せっかくの休暇に面倒をかけるようで申し訳ないが、副官に連絡をして喝をいれてもらうほかないだろう。
そう思った矢先のことだった。室内に置かれた電話がけたたましく鳴る。全員の目線がその一点に集中した。生憎と、その近場に居合わせたのが自分しかいなかった。
まったく、こんなときに誰なんだ。お偉いさんがたの余計な嫌味だったら、回線が遠いふりしてガチャ切りすんぞ。そう思いながら受話器をとった。耳にあて、「はい」と手短かに対応する。いつもより低く聞こえた自分の声に態度が少し出たかもしれないと思ったが、向こうの相手は微塵も気にしていないような口ぶりだった。
『あっ、ハボック少尉ですか? 私です、璃黛!お疲れさまです!』
受話器から聞こえてきたのは、元気で明るいすこしだけ懐かしい声。
まさに渦中、とも言える人物からの電話に、開いた口がふさがらなかった。まわりからの怪訝な視線だけが刺さるというのに、それが見えない相手はどんどん話の続きを口にする。
『急にすみません。びっくりしちゃいましたよね?』
「……かなり、な」
『ふふ。ですよね、すみません。実はホークアイ中尉がさっき連絡くれたんです。今日は自分が休みだから、大佐がちゃんと仕事してるか確認の電話をいれてくれないか〜って言われちゃって』
「あ〜、なるほど……」
『でも、中尉ったら自分で確認すれば済むことなのに、なんでわざわざわたしに頼んだんでしょうね……? まぁ、稀にみない中尉の頼みごとだったので、わたしは喜んで引きうけちゃったんですけど』
ふふふ、と嬉しそうに笑う彼女の声がどこか遠くに聞こえていた。
優秀極まりない副官さまは、昨日の時点でこうなるだろうことが予測できていた、ということだろう。かつ、人選においてもさすがとしか言いようがない。
何年もお守りをしてきた人は着眼点が違う、ということを思い知らされた瞬間であった。いつもテキパキと仕事をこなす彼女の姿が脳裏に浮かんで、遠回しの配慮に頭があがらない。
『本題ですけど、マスタング大佐はどうしてますか? ちゃんとお仕事、してくれてますか?』
「あ〜、いつもどおり……でもないな。それは本人に聞くのがいちばん良いと思うぞ。すぐかわるわ」
『ぜひお願いします! 逃亡はまだしてなかったんですね、セーフでよかったです』
「今日は机からてこでも動かなかったとは思うけどな…… ちなみに、俺らが帰れるかどうかはすべて璃黛の腕にかかってるからな」
『えっ! が、がんばります!』
その返事をきいてから受話器を離した。流れで上司のほうへと顔を向けると、 “璃黛” という待ち焦がれた単語が出たからか、ばっちりと視線がかち合った。
その電話、相手は、もしかして。言葉にしなくても、相手の言わんとすることが伝わるのはすごい。そう、大佐の強すぎる瞳を見ながら思った。
「大佐あてっスよ、電話。璃黛から」
それを言い終える前には、すでに相手の手に受話器が渡っていたと思う。
おそるおそるという感じで大佐は電話に応答する。その様子を横目にながめ、これでもう大丈夫だろうと確信した。
これからはかどるであろう仕事のことを思い、コーヒーでもいれてやろうと大佐の机から空のカップを拾う。部屋から出る寸前、『馬っ鹿じゃないの!?』という璃黛のでかすぎる声が受話器から漏れて聞こえてきた。
言いたい気持ちは分からなくもないが、あろうことか上司に向かって “馬鹿” を口にしてしまうとは。彼に対する直接の暴言は、璃黛だけしか使えない特権だとも言えるだろう。
しかしまあ、全員が思っていても言えないことをよく代弁してくれたと褒めてやりたい。彼女が帰ってきたら、安メシで悪いが昼でも奢ってやろうと心に決める。
いまごろ、罵倒されながらも機嫌が直りつつあるだろう上司を想像すると、少しだけ浮足が立つ。今日は残業をしなくても済むかもしれない。タバコをふかしながら、鼻歌まじりに給湯室へと向かった。
「あれ? 大佐、ひとりっスか」
トレーにコーヒーを乗せて戻ると、部屋には上司しかいなかった。
彼の機嫌が直っている。それだけでも面食らってしまったのに、さらには大真面目に机にかじりついている。しかも、遅れを取り戻そうとしているのか、滅多に見ることのない早さで書類の山が処理されていくから驚きだ。
「……大佐、璃黛になんて言われたんスか……」
思ったままを口にした。上司の手がピタリと止まる。目線は書類に向けたまま、にやりと笑んだ。
先と比べると様子があまりにも違いすぎて、言葉どおり目が点になってしまった。璃黛効果がすごすぎることを実感する。もしかしたら、今日は槍でも降るのかもしれない。
そう思いながら、邪魔をしないようにトレーからすくったコーヒーを机の端のほうに置く。なんだか楽しそうな様子で、大佐はコーヒーに手を伸ばした。
「璃黛に馬鹿と言われてしまったよ。仮にも私は上司という立場なんだがね」
「あー……それは聞こえたっス。まあ、そう言われるようなことをしていた大佐が悪いんじゃないっスかね〜?」
「…………燃やすぞ、ハボック」
「マジで勘弁してください。 それで?」
「中尉が居ないからって、お前らに迷惑をかけるようなことはするんじゃないと叱られてしまったよ」
「璃黛、強すぎ」
「だがその甲斐あって、食事をする約束を取り付けることができた。彼女が帰ってくるのが待ち遠しいよ」
それだけ言って、大佐はまた書類と向き合うことを再開する。やっぱり、今日は槍が降るのかもしれない。
彼女を手配してくれた中尉もさすがだが、仕事の効率を見るからにあげてくれた璃黛もすごいと本当に思った。そして、いくら大佐の地位といえども、可愛がっていた璃黛にはどうやっても頭が上がらないということを俺は間近で実感したのだった。
2017.08.18
あの子はすごい子