なんだかすこし騒がしいような気がして、沈んでいた意識が覚醒した。目をあけると、目の前にある電子箱のなかで、見知ったアナウンサーがせわしないトークを繰り広げている。
あ。テレビつけっぱなしだった。帰ってからソファに寝ころんで、そのまま寝ちゃってたのかもしれない。そう、自身の状態を把握する。
どのくらい寝ていたんだろう、とわたしは置き時計を確認するため起き上がる。つもりが、思うように身体は動かなかった。
「……?」
寝ぼけた頭で違和感をおぼえる。テレビの音はどこか遠くに聞こえてくるし、脳はまだ眠っていたいのかもしれない。
ぼうっとした意識で何度か起きあがろうとしてみたけれど、やっぱり身体は思うようには動かなかった。
また、寝てしまおうか。そうやって諦め出した途端に、すぐにまぶたが重くなる。眼球の裏あたりの深いところから、どっと睡魔が押し寄せてくる。うとうとして、だんだんと焦点が定まらなくなってきた。
「あれ。起きたかと思ったらまた寝ちゃうんだ?」
「――――!?」
もう、むり。と、睡魔に負けそうになっていたのに、顔を覗きこんできたその瞳とはばっちり目があってしまった。突然のことに目を見開くばかりで、声はでない。
だれ、この人。瞬時にそう思った。ピックアップされた知人がせわしなく脳裏を駆けていくけれど、そのどれにも当たらない。わたしの知り合いにこんな人はいない。そう結論をつけると、こんどは周りに意識が向く。部屋に、家主の気配が一切ないことに気がついてしまった。頭の追いつかない状況に、はっきりと目だけが冴えていく。
零さんは、いない。その現実に身の危険を感じて、得体の知れない不安が背筋を這って上っていく。はじめから動かなかった身体も、金縛りにあってしまったかのようにさらにつよく硬直する。
助けを呼ばないと。その意識だけは頭にあって、浅く、でもなるべく深く息を吸う。恐怖でのどが引きつってしまいそうだった。
「し〜っ、だよ。いい子だから、大声は出さないでね〜?」
骨ばった手が、わたしの口を覆い隠す。助けの言葉は音になることもなく、いとも簡単に塞がれてしまった。
男性と身体が密着して、ふたりぶんの重みでソファがきしむ。危険だと、脳が全身に教えてくれていた。
終始にこやかなその人は、とても整った顔立ちをしていた。女性を翻弄しそうな瞳。色素が抜けた髪色。意外にもやさしい所作、言葉づかい。そのすべてから目が離せなくて、捕らわれる。密着した熱で、彼の香水がふわりと香る。そのにおいが、やたらと鼻につくのがいやなのに、手も、身体も動かせない。近づいて縮んでいく距離が、悪寒をも誘う。
零さんともまた違った美しさがあるこの人に、わたしは犯されてしまうのかもしれない。そう思うと、冷や汗がつたった。きれいな顔をしていたとしても、それだけは本気でいやだと思った。
やばい、お願い、たすけて、零さん。わたしは届かない言葉を、頭で必死に叫んでいた。
「────薫くんや、すこしおいたがすぎると思うんじゃがのう」
彼を願った幻聴か、聞き慣れた声が鼓膜にすうっと浸透した。
声のしたほうに顔を向けると、リビングルームの扉にひじをついた零さんがいた。気だるそうにしていて、肩にはタオルがかかっている。髪は湿っているようにみえた。
わたしに覆いかぶさる男性が、驚く様子もなく口をひらく。
「あれ? 朔間さん、シャワー早くない? いつもはもうちょっとかかってたと思うんだけど」
「そうじゃのう…… じゃが、璃黛が居たことを思い出してしまってのう。手癖のわるい薫くんとふたりきりでは、ちいとばかし心配にもなるというものじゃ」
「あはは、それでもう来ちゃったんだ? 俺のこと、ぜんぜん信用してくれてないじゃん」
「どの口が言うておるのかのう、薫くん。おちおちともしておれんと思うて正解だったようじゃが」
ひた、ひたと裸足とフローリング特有の足音をならして零さんがこちらにやってくる。同時に、パッと男性の体温が離れた。さっきまでの密着が嘘のように、身体の動きが自由になる。
好機と、わたしは相手のテリトリーから這い出て、すこしばかりの距離をとった。近くまできた零さんのシャツを引っ掴んで身体を丸める。すこしでも、この知らない男性との距離を取りたかった。
知った感触の大きな手が、零さんの手が、わたしの頭にのせられる。そこではじめて、わたしは安全圏に入ったのだと安心することができた。
「大丈夫かのう? 薫くんに何かされたようじゃが……璃黛、血色がだいぶ悪いのう」
「え〜、大丈夫? ちょっとからかいすぎちゃったかな?」
「薫くんはちょっとでも、相手もそうとは限らんぞい。まったく、お主は相変わらず悪童じゃのう……我輩、頭が痛くなっちゃう」
「なにぶりっ子してるの、朔間さん。 まあ、俺も悪ノリしすぎちゃったかな?さっきのはあいさつ代わりの冗談だよ、冗談♪」
パァンッ! と、3人だけ空間に小気味よい音がひとつ鳴る。
あれが、冗談。言われてすぐに頭に血がのぼるのがわかった。会話の流れでカッとなり、わたしは目の前の男性を思いっきり引っ叩いていた。彼の頬にくっきりと、ひとつだけきれいな紅葉が浮きでている。
それからは、テレビの音だけが鮮明に聞こえていた。程なくして、零さんが堪えきれないとでもいうような笑いをこぼす。そして、誰よりも先に口をひらいた。
「──くっくっくっ、良いものをもらったのう薫くん。まずは誠意をこめて、謝ったらどうじゃ」
「……そうだね。あの、驚かせちゃってごめんね。このとおり、許してください」
ソファのうえで正座をした、薫さんという人に頭を下げられた。
「こうやって薫くんも頭を下げておる。ビンタもして気も済んだことじゃろうし…… 璃黛、薫くんを許してやってはくれんかのう?」
そう言われて、となりに立ったままの零さんを見上げる。どう対応したらいいのか分からなくて、視線をまた薫さんという人へと向ける。彼はまだ、頭を下げてくれていた。
わたしはそれを横目に立ちあがる。キッチンの冷凍庫から保冷剤をとり、適当なタオルにくるんだ。それを持ちかえり、薫さんという人の頬へとあてる。
驚いた様子の薫さんが顔をあげ、目があった。そのままアイシングを彼に渡して、零さんに問う。
「……そもそも、この薫さん?って人、なんなんですか。空き巣ですか、強姦魔ですか。どっちなんですか?」
「はて、どっちかのう…… 我輩にもさっぱり分からんのじゃ」
「ちょっと待って、朔間さん! それだと俺、わりとほんとうに犯罪者扱いになっちゃうから! ちゃんと彼女に説明してよ」
「うむ……薫くんはのう、我輩の友人のひとりじゃよ」
「へえ。わたしは本気で犯されるって身の危険を感じたんですけど、零さんには性犯罪者予備軍のお友達がいるって解釈でいいですか?」
「──まあ、璃黛のさじ加減次第では、今宵にでも予備軍ではなくなってしまうかもしれんがのう」
「朔間さん、それ、ひどくない? そんなこと言われたら俺、この歳に及んで泣いちゃいそうなんだけど」
薫さんをみると、ちょっとだけ目を潤ませていた。
成人男性を泣かせてしまう。と、わたしの心はすこしだけ焦りが顔をのぞかせる。
「これこれ、泣くでない薫くん。男の子じゃろ〜?」
「泣くよ〜、もう泣かせてよ〜! ビンタされて痛いのに、こんな扱いされたら悲しいでしょ〜!」
「冗談じゃろうて。ほれ、ティッシュをやるから涙をお拭きよ、薫くん」
「うう……半分は冗談だとも思ってないくせに……朔間さん、じつは怒ってるでしょ。ぜったい根に持ってるでしょ」
「はて、なんのことやら」
と、零さんはのらりくらりとリビングルームを出ていってしまった。シャワーを浴びたと言われていたから、髪を乾かしにでも行ったのかもしれない。
部屋にはわたしと、薫さんだけが残される。零さんの友人だと知らされて、もうこの人に対する警戒心はだいぶ薄れてきてはいたけれど、すこしだけ居心地がわるかった。
「──ほっぺた、痛い……ですよね。でも、わたしは謝りませんけど」
「はは、それはいいよ。こっちこそ、悪ふざけして怖がらせちゃってごめんね。ずいぶんと警戒心もなく寝てるもんだから、からかいたくなっちゃったんだ」
それにしても平手でよかったよ、これでも商売道具なんだから。と、アイシングで頬を冷やしながら薫さんは言った。
改めて見てみると、薫さんは本当に整った顔立ちをしていた。それだけではなく、服装からもスタイルがいいことが伺える。
顔が商売道具ということは、格好からしてホストなんかをしているのかもしれない。モデルと言われても違和感はない気がする。
彼の棘がない話しかたから世渡りの上手さが垣間見れて、それこそなんでもやっていけそうな感じがした。
仕度を終えた零さんが戻ってくるのは早かった。どうやら、これから薫さんと飲みにいくらしい。
それを見送ろうと、わたしは玄関先までついてきた。
「それじゃあまたね、タンポポちゃん♪」
頬の熱がひいた薫さんは、持ち前の明るさを取り戻していた感じだった。へんてこなあだ名で彼に声をかけられる。
わたしは二度と会いたくないです。と冗談混じりで言うと、薫さんは過敏に反応をした。
「朔間さん、いまの聞いた!? なんか俺に対してひどくない? 対応がすごく塩!」
「嫌われるようなことをした薫くんが悪いんじゃろ〜が。辛辣な言葉は、あんずの嬢ちゃん以来かのう♪」
「あんずちゃんとはいまも少しずつ、距離を縮めてるところだから!」
「ほう。ならば、そういうことにしておこうかの」
零さんと言葉を交わしたあと、薫さんは懲りずに「またね」とわたしに声をかけた。仕方なしに利き手を振って、あいさつに応える。それに満足そうな顔をして、彼は先に部屋をでた。
玄関先には、まだ零さんだけが残っている。その背中に「いってらっしゃい」と声をかけると、彼は扉に手をかけながら振り返った。
「璃黛、戸締りはきちんとするんじゃぞ。我輩の居ぬ間に何かあっては困るからのう」
「そうですね。では念のため、内ロックもかけておこうと思います」
「それじゃあ我輩が入れんじゃろうが……まあ、よい。気をつけるに越したことはない」
「冗談ですよ。鍵だけ、ちゃんと閉めておきますね。帰り、気をつけてきてください」
「璃黛はやさしい子じゃのう。できれば、薫くんのことも嫌いにならないでやっておくれ」
「はあ。それは善処します」
「まあ、今回のことは薫くんもわるいが、呑気に寝ておった璃黛にも非があるとは思うがのう♪ くっくっくっ、行ってく……うぐ!?」
悪びれる様子もなく、なんだか楽しそうに言う零さん。わたしはそのお腹をかるくどついて、彼を外へと追いだした。
2017.08.26
薫香