夜が明けた。朝日がまぶしい。目が痛い。どうして徹夜なんかしてしまったんだろうと、いつも朝日を拝んでから後悔をする。シャワーを浴びたら眼が覚める、なんて気休め程度のことでしかない。その証拠に、今日もぼうっとした頭が冴えることはなかった。
のろのろとした動作で着替えを終えた。袋から出しただけのトーストもしないパンをかじったら、とりあえずコーヒーで流しこむ。時計をみると、長針はいつもと同じ場所にあった。そろそろ出ないと間に合わない。
いつものパンプスは昨夜、帰宅したときの無造作な状態のまま玄関にあった。それを引っ掛けて外に出る。寒い。マフラー忘れた。まあ、いいか。鍵を閉めて、鞄をのぞく。企画書は持った、大丈夫。安心を胸に、いつものペースで駅へと向かった。
ぎゅうぎゅうとすし詰めにされた車内は熱気がこもる。それに揺れとが合わさって、幾度となく強い睡魔に襲われる。つり革につかまって立っているというのに、眠気との戦いに労をかけてしまう。その時間、無駄に体力を消耗した気分になってしまった。
会社に着いてからは、ひと息つく間もなく会議がはじまる。感情のこもっていない上司の声は、まるでお経。程のいい子守歌だ。眠くならないわけがない。ひっきりなしに出てくるあくびをかみ殺して、資料とにらめっこをしているふりをする。つまらないと思わないように集中をして、その時間の終わりがくるまでひたすら耐えた。
正午。午後の会議のまえに昼食をとりたいところだけど、ランチに出かけるのもおっくうだった。仕方なしに、コンビニで適当に選んだサンドイッチでお昼を済ませることにした。朝と同様にブラックコーヒーをお供に選んで、やわらかいサンドイッチを流しこむ。昼食を終えたら両うでを枕に、デスクにそのままつっ伏した。
定刻。少しだけ休んだ甲斐あってか、またはカフェインの効果も出てきたからか。いまのわたしは目も頭も冴えていた。この時間のすべてを使って、渾身の企画をお披露目する。これで今後の成績がほぼ決まってくるとなると、徹夜つづきで疲れてる、なんて思う余裕は微塵もない。寝る間も惜しんで完成させたとはいえ、付け焼き刃的なところもいくつかある。それに対してほぼ完璧な発言をすべく、お偉いさんに囲まれたこの会議にわたしは全神経を集中させるのだった。
夕方。壁の時計の長針が、やっとてっぺんを指してくれた。すでに施錠されたデスクから立ち上がる。鞄とコートを手にとって、「お疲れさまでした!」と声をかけながらオフィスを出る。明日は待ちに待った休日。今日はもう、定時であがってさっさと直帰と決めていた。
会社を出て、駅へと一直線に向かう。改札をぬけてホームに出たら、タイミングよく電車がきた。朝と同じようにつり革につかまって、心地よい揺れと睡魔との戦い。気を抜けばすぐにでも寝入ってしまいそうなほどに、今日のわたしは疲れていた。歩くのでさえしんどくて、気に留めていないといつのまにか千鳥足になっている。はやく泥のように眠りたい。その気持ちだけでふんばっていた。
亡霊のように帰路につき、部屋のまえで鞄をあさる。すぐに見つかった鍵を使おうと鍵穴に差しこむ――――つもりが、そのまえに扉が開かれた。え、と驚いてそのまま動きが停止する。たしか自動ドアではなかったはず……と、ルーティンになっていた動作では、朝のことさえも曖昧にしか思い出せない。頭が働かないわたしは、開かれていく扉の様子をただながめているしかなかった。
「おかえりぃ」
「はれ!?」
居るはずもない人の登場に、思わず変な声がもれた。感じていた眠気も、どこか遠くに吹き飛んでいってしまったようだ。
部屋のすきまから当たり前のように顔をのぞかせたのは、泉さんだった。なぜか、泉さんが家にいる。目の前の人を認識したとたんに、丸まっていた背筋がすすすと伸びるのだからおもしろい。
「なっ、なんで泉さんが居るんですか!?」
「はぁ? あんたにもらった合鍵つかって入ったんだけど。それより、まずはさきに『ただいま』なんじゃないの?」
「あっ、はい、ただいま、です」
「ん。おかえり。 ――――で、なに。俺が居たら、不都合なことでもあるわけぇ?」
「えっ、いや、そんなことはないですけど。ただ、約束してたかな〜と思いまして……」
「してないけど。いいからとりあえず、寒いからなかに入りなよ」
いやいや。家主はわたしなんですけど。そう言う間もなく、腕を引かれて部屋のなかへと招かれる。背にあった扉が音をたてて閉まる。あいだにわたしをはさんだまま、泉さんが鍵をかけてくれた。距離が近い。泉さんのにおいがする。なんだかすこし、ドキドキした。
「ていうか手、冷たすぎ。おれがあげた手袋はどうしたわけ? マフラーもしてないし、風邪ひいても知らないからねぇ」
「今日は急いでたのでまぁいいかな、と……」
「ふぅん。立て込んでるとはきいてたけど、それにしてもひっどいクマ。目のした、まっくろじゃん」
「なかなかまとまらなくて、二徹しちゃいました」
「はぁ? あんた、それでも女なのぉ?」
「うっ…… でも聞いてください、泉さん。今日の会議でわたしの企画が通ったんですよ!」
「でも顔、チョ〜ブサイクだからね」
「ひどい!がんばったのに!」
「そうだねぇ、おめでとう。お兄ちゃんがちゃあんと褒めてあげる。璃黛ちゃんはがんばり屋さんでえらいでちゅね〜よぉし、よし♪」
そう言って、泉さんは頭をなでてくれた。でも若干、ばかにされているような気がしなくもない。そう思うと、すこしだけ唇を尖らせてしまう。
「で。約束もないのにどうしたんですか、泉さん。わたしになにか用ですか?」
「べつに。おれが会いたいから来たんだけど」
「へ!?」
かわいくない言いかたをしてしまったというのに、言われ慣れない言葉が返ってきた。もしかして、いまわたしの目のまえにいる人は、泉さんの容姿に似せただけのまったくの別人なのではないだろうか。もしくは寝不足で、わたしの耳がおかしくなってしまったのかもしれない。そう思う程度には、泉さんが素直すぎて驚いた。思わず顔をあげたのに、こんどは抱きしめられたことで二重わたってびっくりしてしまう。
さっき感じたものより明らかに、泉さんのにおいが濃ゆくなる。すっぽりと身体が包まれて、わたしのなかが泉さんで満たされる。それが頭の芯までいきわたって、幸せなまどろみに襲われる。安堵が胸いっぱいに広がって、なぜか身体の中心あたりからぽかぽかしてきた。なにこれやばい、眠くなる。
もそもそと身じろぎをして、視線が合うようにすきまから顔をのぞかせる。見上げた泉さんは、どう言い表せばいいのかわからないくらいに、すごく優しい顔をしていた。
「なんか……わたしの知ってる泉さんじゃないみたいです……」
「なぁに。どういうこと?」
「なんだか優しすぎるっていうか……今日の泉さんは彼氏力が高いですね……」
「はぁ〜? おれはいつでも優しいんですけどぉ〜?」
「いたっ」
生意気。さいごにそう言って、わたしのおでこに泉さんの中指が弾かれた。痛い。デコピンをするまえの泉さんの眉間には、ひとつシワがよっていた。そのわりには、機嫌がよさそうな感じの声のトーンだったので、相変わらず泉さんはちぐはぐだなぁと思う。
「あの、おでこ、痛いんですけど……泉さん、人が痛がってるの見て楽しんでます? なんだか機嫌、よさそうですよね」
「おれ、あしたオフなんだよね。さいきん会えてなかったから、璃黛にオフを使ってあげようと思って。ていうかそんなに強くしてないでしょ、大げさすぎ」
「待って。泉さん、あしたお休みなんですか!?」
「そう。正しくは、きょうの昼からあした丸一日」
「なんでもっとはやく言ってくれないんですか!?」
「事務所に行って、今朝決まったことだから。メッセージで連絡いれたんだけど、見てないわけぇ?」
「見てない……」
「だと思った。それにあんたのことだから不規則な生活してると思って、ごはん作って待っててあげたんだけど。おれの優しさに感謝してよねぇ〜?」
「……おかぁさぁん!ありがとう!」
「おれはあんたのお母さんじゃないんだけど」
こんな娘もいらないし。と、泉さんから辛辣な言葉をいただいた。つらい。そして、はやくあがってと急かされる。今日はパンプスをそろえてぬいだ。
密着していた身体を離してからやっと、泉さん以外のにおいに気がつく。食欲をそそられるような――――そう思うと、なんだかお腹が切なくなる。そしてタイミングがいいのか悪いのか、お腹の虫がばかみたいに大きな音でぐきゅう〜となった。はずかしい。振りむいた泉さんと目が合った。
「璃黛に似て、すっごくまぬけな音だったねぇ」
「あの、ふつうに恥ずかしいのでやめてください」
「ふふ。すぐに準備してあげるから着替えてきなよ。ごはん食べたらお風呂はいって、さっさと寝るよ。疲れてるんでしょ?」
「まぁ…… でも泉さん、わたしが寝たら帰っちゃうんですか……?」
「そんな顔しなくても、ちゃんと泊まってくつもりできてるけど。泣かないでよ」
「泣いてませんけど。……なんだかんだで泉さん、わたしのこと大好きすぎですよね」
「は〜ぁ!? こいつ、チョ〜うざいんですけどぉ! 自惚れも大概にしてよねぇ!」
「ふふ。わたしも泉さんのこと、大好きですよ」
「――――ああもう。ほんっと璃黛と居ると調子狂う! 今日はもう、寝かせてあげられるかわっかんないから、ちゃんと覚悟しててよねぇ〜?」
カメラを向けられたときのようなあの、挑発的な顔をした泉さん。そのきれいな瞳に捕らわれる。わたしはその目をそらすこともできなくて、徐々に赤面していくさまを彼に見られることになるのだろう。
2018.01.30
もうずっと君に、恋してる