そういえば、施錠をするのを忘れている気がする。ふいに鳴った扉口の音を耳にし、記憶の端へと追い遣った存在を思い出した。
もしかして、母さんたちが帰ってきたのだろうか。その割には静かすぎるなと思っていたところ、随分と控えめな「お邪魔します」の声が聞こえた。
「……璃黛?」
と、聞き覚えのある声に反応し、彼女の名を口にした。
真琴は、くつろいでいたソファから重い腰を上げ、リビングから顔だけを覗かせる。
玄関ホールを見ると、そこには思った通りに璃黛が居て、家に上がり込んでいる最中であった。律儀に靴を揃える背中を眺めていると、視線に気づいた璃黛と目が合い、彼女はひらひらと手を振った。
「あ、真琴。やっほー」
「やっほーじゃなくて、どうしたの? ハルは?」
「…知らなーい」
と、璃黛は答えたものの、途端に眉間にしわを寄せた。
何かあったのかと思ったが、やはり何かあったらしい。はて、それはなんだろうと思案する。
思い当たる節は無くはない。が、それであって欲しくない。だけど、彼女は家に来て、 “ハル” の単語に眉根を寄せた。答えは出たも同然だった。そうでなければ、この子が俺の家に立ち寄ることはないのだから。
とりあえず、まずは話しを聞いてみるかと、真琴は璃黛を招き入れることにした。
ひたひたと裸足特有の足音がふたつ、廊下を渡り、リビングルームに流れ込む。真琴は、先ほどまで自分がくつろいでいたソファを指し、
「璃黛、そこ座ってて。麦茶出すから」
と、告げた。
ふと見ると、机の上に乗ったコップは汗をかいて水たまりを拵えていた。それを救い出し、キッチンルームの流しへと置く。棚からガラスコップを二つ出し、製氷機から氷を入れて麦茶を注いだ。
その間、きょろきょろと辺りを見遣る璃黛が目に入る。
「…どうかした?」
「ね、真琴だけ? みんなは?」
「あぁ、うん。父さんは仕事。母さんは蓮と蘭を連れて買い物に行ったよ。着いてっても良かったんだけど、なんとなく今日は留守番してよっかなって」
「そっか。なんか、珍しいね」
璃黛はそう言って、またぐるりと部屋を見渡した。
考えてみれば、確かにそうかと思った。リビングにはいつも母親が居るし、父親はコーヒー片手に新聞や本を読んでいる。
そんな二人を感じながら、自分は双子と遊んでやったりして騒がしくしていることの方が多い。
なのに、騒ついているのはテレビのみ。静かな空間でさえ珍しいのに、こんな状況は余程のこと珍しいだろうと、落ち着きのない璃黛を見て思った。
「で、ハルがどうしたって?」
と、彼女と向かい合うようにコップを置き、自分もラグに腰を落とした。
どうした、だなんて白白しかったかな〜と聞いてから思った。だいたい、また “くだらない” 喧嘩をしたのだろうと予想はつく。だけど、言わない。その行為は、火に油を注ぐだけだと知っている。
璃黛のタイミングで話しを切り出すのを待つ間、真琴は、薄っすらと汗をかきはじめたグラスを眺めていた。
テレビでは、話題の芸人がトークを繰り広げてる。その声は、BGM程度の雑音でしかなかった。
どのくらいの時間が経っただろう。
真面目に待つのにも飽きて、真琴の興味がテレビのバラエティに向きかけた頃だった。
ボソボソと璃黛が何かを呟いたが、意識が逸れていた真琴は聞き取ることが出来なかった。とっさに「ごめん、聞こえなかった」と返答し、今度こそ彼女の声に耳を傾ける。
顔を見ると、目線は下向きだが、璃黛はむすっとした顔をしていたし、また眉間にしわを寄せていた。
どうやら、これは予想が的中したパターンだと静かに思った。
「ハルが、鯖をのせたの」
そう、璃黛は一言だけ言った。
遙の鯖に対するキチっぷりは、友人であるなら誰もが知っていることである。ましてや、真琴は16年来の幼馴染。それは、皆が白米を当たり前に食べることと同じように、遙と鯖はセットであることを誰よりもよく理解していた。
過ごした時間が浅くとも、璃黛は、遙と深いところで繋がっている仲だ。当然のように、彼女も承知のことだろう。だから、彼女が何に怒っているのか、あの一言だけでは理解することができなかった。
ちょっと要点を略しすぎかな…と真琴は苦笑いし、再度、璃黛に内容を問う。
「ごめんね、もう少し詳しく教えてくれるかな? ハルが、鯖を、何にのせたの?」
「……冷やし中華よ」
「ひやし、ちゅうか…?」
「そう、冷やし中華」
「…そっか、冷やし中華か…」
やっぱりくだらないことだった。
そう思ったのがバレないように、真琴は静かにため息をついた。
世間一般論で考えると、冷やし中華に鯖は「ない」。けれど、それがハルだから「有り」になる。いやはや、面倒な友を持ったものだと、独自論を展開しながら思った。
「璃黛、分かってると思うけど……ハルも悪気は無かったと思うよ」
「はぁ? どこが悪気がないのよ? わざわざ鯖を焼いてのせたんだよ? 私が、具材を、切ってる、横で、鯖を、焼いて!! まさか、のせるなんてことないよね、冷やし中華だし……なんて思ってた矢先に、のせたの。俺の勝手だろって、躊躇なく、真ん中にのせた紅生姜の上に、鯖をー!!」
「そ、そっかぁ…」
「はああぁぁああもう、話してたらまた思い出してきた!! 私、もう怒ったから。遙なんて知らない。ハルのばか、バーカ! 一生水に浸かってればいいじゃん。そして勝手にふやけてろ」
どうやら、俺は言葉の選択を誤ったようだ。余計に、彼女の神経を逆撫でてしまったらしい。
腹をたてるのは勝手だが、その矛先を俺にぶつけられても正直困ると、真琴は怒る彼女に困惑した。
そもそも、どうしてこんなことで喧嘩になるのだろう。彼女の沸点は低くない。いつもなら、「も〜まこと聞いてよ。ハルってば…」と、半ば惚気のような愚痴を聞かされる程度だ。こんなに怒っていることは珍しいと思ったが、そういえば、と思い当たる節があった。
璃黛は、半年に一回くらいの頻度で怒り狂うことがある。
なぜ期間が分かるのかというと、彼女の怒りはポイント制だからである。よく見聞きする、 “10ポイントで100円引き” とかと同じような仕組みで、日頃感じる鬱憤をポイントに換算すると、約半年くらいで彼女のポイントは上限に達するということだ。それが、ちょうど今日だったようだ。しかも矛先はハルのはずなのに、聞くのは自分。貧乏くじを引いたらしい。
機嫌の悪い彼女を横目に、真琴は隠す素振りもなく、ため息を零し、言った。
「あのさぁ、怒るのは勝手だけど、璃黛はハルと喧嘩したままでも良いの?」
「うっ……別に、いい…もん…」
「顔は良くないって言ってるからね」
と、真琴は呆れ、やれやれと肩を落とした。
唇を尖らせる璃黛に、「そんな顔するくらいなら、俺にしとけばいいのに」と、思わず言ってしまいそうになった。喉まで出かけた言葉をしっかりと飲み込む。そんなこと、言えるわけがない。喧嘩ばかりでも、二人が好き合っているのをよく知っている。
それに、水を差すかのように、俺含めた互いに亀裂を入れてしまうことだけは避けたかった。関係が壊れることに比べれば、気持ちを押し殺すことなんて造作もない。
そんな事より、今はどうやって仲直りをさせるかのことの方が重要であった。
遙と璃黛は、なぜか仲直りというものを苦手としている。
だからって、いつもどちらかが俺のところに来なくてもいいと思う。
ごめんの一言で済むのに、どちらもそれが出来ないというは意外と大変なのだ。それも毎回となると、さすがの真琴もうんざりする。すんなりといかない理由としては、意地が邪魔をするらしい。まるで、遙と凛のようだといつも思う。
そして、仲直りをしてもらうには、璃黛に折れてもらうのが手っ取り早い。
面倒だし、放っといても仲直りはするとは思う。そうは思いつつ放っとけないのは、己の性であるため仕方がない。今にも泣き出してしまいそうな彼女を見ると、余計にそう思うのであった。
なんだか、急に名前がしおらしくなったと思うと、じわじわと笑いが込みあがる。必死ににやけを抑えていると、彼女にジト目で睨まれた。
その姿が余計に可笑しくて、堪えきれずに吹き出した。璃黛に、「なに笑ってんのよ!!」と怒られたが、いつも仲を取り持ってやってるのだから、これくらいは許してほしい。
やんやと喚く璃黛をなだめ、汗だくのコップを手に取った。中の氷はすでに溶け、二層に分かれた麦茶はぬるい。だけど、これから沢山喋るはめになるのだから、と中身を一気に飲み干した。ゴクッ、ゴクッ、と気持ちも切り替えるように喉を鳴らす。
ふはぁ、と一息ついたとき、見上げる璃黛と目が合った。
「ほら、璃黛もさっさと飲んで。俺も一緒に行くから、仲直りしにハルん家戻ろう?」
真琴はそう言って、璃黛の頭を優しく撫でるように、ぽんぽんと2回叩いた。
2016.04.09
人の気も知らないで