珍しく璃黛は急いでいた。
ううう、椚先生に怒られる……! と、気持ちが先に先導する。こうなったのも、自身の脳みそが滞ったせいだ。
プロデュースの案がまとまらず、インスピレーションを求めに舞台となる講堂へ足を運んでみたはいいが、今度は捗りすぎて昼休みを丸々と使ってしまったのだった。いい案が浮かんだと、ホクホクとした気持ちになったのは一瞬だけ。遠くに予鈴が鳴ったのが聞こえて、一気に顔が青ざめた。それもこれも、自身の手際の悪さを呪うしかない。
とにかく、早く戻らなければ午後の授業には間に合わない。すでに息切れしていて休みたい勢いだが、怒気をまとった先生の顔がチラついたために、老骨にムチ打って逆に足を早めることにした。
「あ〜〜、璃黛〜〜」
と、どこからか間延びした声が聞こえた。
周りを見渡すと、すでに過ぎ去った茂みのところに、うつぶせで寝そべっている朔間凛月を見つけた。にへらと笑い、機嫌がいいのか手を振っている。
その、のんびりとした態度に、急いでいたことを少し忘れて、足は凛月の元へと向かっていた。
「凛月くん、こんなところで何してるの? もう午後の授業はじまるよ」
かがんで声をかけてみたものの、凛月は退屈だとでも言うように、「ふあぁ…ふ」とあくびをしただけだった。
そのまま彼をうかがっていると、両腕を手前に組んで頭を乗せようとしている。こいつ、人に声をかけておいて二度寝する気だ、とすぐに分かった。
凛月の手をとり、半ば強引に立たせるようにして手を引いた。細身とはいえ、やはり男子。手にした感覚は、ずしりと重い。
凛月の保護者役である真緒は、昼は生徒会だと言っていた。この様子だと、忙しさにかまける真緒の目を掻いくぐって午後の授業もサボるつもりでいたに違いない。
やれやれ、保護者が居ないとなるとすぐにこれだ、と璃黛は小さくため息をついた。
「ほら。凛月くん、立って。腕引いてってあげるからちゃんと自分で歩いて〜」
「うう……璃黛、ねむい。俺のことおぶって……」
「そんなこと言わずにがんばって。あと、私は『ま〜くん』じゃないからおぶりません」
「え〜? …あ、じゃあさ、このまま俺を保健室まで連れて行ってよ。それまで、目を閉じたままちゃんと歩くから」
「だめ。真緒くんが心配すると悪いから、見つけた以上はちゃんと教室まで連れて帰りまーす」
「うう……今日の璃黛はいじわるだ。なんだか、嫌な予感がする……」
と言い、もたれかかるようにして璃黛の肩口に顔を埋めた。
何をするかと思えば、凛月は、「ま〜くん俺を迎えに来てぇ…」と駄々っ子のように頭をすり寄せている。もうすぐ授業が始まるのだから、さすがにそれは無理だろう。
ううう〜…と唸る凛月の背を、あやすようにぽんぽんと撫でながら、午後一の授業にはもう間に合わないだろうなと思ったところだった。狙ったかのようなタイミングで本鈴が鳴る。これで、二人の遅刻は確定したのだった。
とりあえず、璃黛は祈ることにした。椚先生のお叱りはきちんと受けます。必要とならば反省文も書きます。なので、どうかこのことは、お小言を趣味としている蓮巳敬人(先輩)の耳にだけは入りませんように、と。
だが、それは無意味なことだったと後で知ることとなる。そうとは知らずに、璃黛は凛月の腕を引きながら校舎に向かって歩き始めていた。
歩きづらいなぁとは思いながらも、ペースはきちんと彼に合わせている。
真緒も璃黛も、なんだかんだで凛月を甘やかしてしまう節があるのは自覚していたが、互いに指摘するようなことはしてこなかった。まぁ、お互い、そういう性なのかもしれないが。
なんて、ぼんやりと考えながら角を曲がったところで、凛月が小さくうめき声をあげた。どうかしたのかと見ると、彼はげっそりとした顔をしている。すぐには気づかなかったが、表に出たことで、自分たちの身体には陽が当たるようになっていた。
そういえば、彼は吸血鬼。日光はダメなんだったと、一歩遅れて思い出した。
ちょっと、わざとなの、とでも言いたそうな声色に、たははと璃黛は苦笑い。仕方ないなぁと、近場に日陰はないかと周りを見渡したときだった。
「凛月〜〜、璃黛〜〜」
と、まるで語尾にハートでもつくかのような勢いで名を呼ばれた。
声のした方へと目を向けると、少し先の方で、日傘をさした朔間零が嬉々とした表情で手を振っているのが見えた。が、彼の日傘に違和感を覚える。違和感というか、それは場違いというか、なんか、とても彼らしくないものであったのは確かだった。
目にした情報をそのまま言うと、それは白くて、フリフリで、甘々ぶりぶり。まるで、中世ヨーロッパの貴婦人が持つような、装飾がとても華美でラブリーなもの。最も過激で背徳的な〜なんて謳っているような人が持つべきではないようなそれだった。
「何あれ、キモい」
それが、兄を目にした凛月の第一声であった。
お互い歩み寄る形をとれば、距離は自然と埋まるわけで。だんだんと零が近づくに連れて、凛月の表情も徐々に険しいものとなっていた。
零はそれに気づいていないのか、はたまたわざとなのか。いい笑顔のまま、変わらぬ態度で、こちらに向けて手をひらひらとさせていた。
「我輩の愛し子たちよ、奇遇じゃのう」
「それより、その身の丈に合わない傘はどうしたんですか」
「あぁ、これは日々樹くんに借りたのじゃ。演劇部の備品だと言うておったぞ」
「なるほど。私物じゃないなら安心しました。朔間さんが日中から行動するなんて珍しいですね、何かあるんですか?」
「なに、ただの散歩じゃよ、嬢ちゃん。吸血鬼であれども、たまには外で天日干しをせねばと思ってな。くっくっく…」
以前、凛月に面と向かって「カビ臭い」と言われたのを気にしているのだろうか。吸血鬼のくせに日光浴だなんてと疑問点は多々あるが、本人が良しとしているのだから、さほど問題ではないのだろう。
それよりも、問題なのは現状の方であった。
「久方ぶりじゃのう、凛月。お兄ちゃんじゃよ〜〜」
「はぁ? あんた、誰」
「凛月!? お兄ちゃんじゃよ!?」
「人違いじゃないの〜」
ご機嫌だった頃の彼はどこに行ったのか。凛月は、零に対してあからさまに不機嫌だという態度を取っている。顔を覗くと、先ほどよりも凄まじい表情をしていた。
零がそれを気にする素振りはなく、会話はそのまま続行されている。いや、会話というには微妙すぎる。言葉のキャッチボールというより、零の一人壁打ちだ。璃黛は、温度差のありすぎるその様子を、ただただ見守るしかなかった。
そろそろ “凛月” という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうな頃。名前を呼ばれるたびにイライラしていた当の本人は、気持ちが一周したのか、今は無表情になっていた。
一人で「凛月、凛月」と話す零をつまらなそうに一瞥し、「ふあぁ…ふ」とあくびを一つ。そして、さも自然な素振りで璃黛の手を取り、歩き始めた。いきなりの状況に混乱する。
「えっ、え? り、凛月くん?」
「なぁに、璃黛」
「あの、朔間…あ、零さん、いいの?」
「……誰それ。璃黛、もしかして何か見えてるの? うわ、こっわ〜」
「え、ちょ、凛月くん!?」
「どこに行くのじゃ? 凛月の大好きなお兄ちゃんのことを置いていかないでおくれ」
「黙ってろクソムシ、殺すぞ」
と、凛月はゴミを見るような目をして、実の兄にそう告げた。額には青筋を浮かべている。
かと思えば、ハッと気づいたような顔をしたあとに脱力し、「あーあ。不覚にも、存在を認めちゃったよ…」と一人ごちた。
凛月の言葉からして、どうやら零の存在ごと消し去り、無かったことにするつもりだったらしい。ぽやっとした顔をして、弟の方はやることがエグい。
「やれやれ、凛月は反抗期かの。ひどいことを考えるものじゃ…だが、そんなところも可愛らしいがの」
零のその言葉と同時、凛月はまた歩みを再開した。凛月に掴まれた璃黛の腕は、どんどん先へと引かれていく。
背後から、「凛月〜〜、お兄ちゃんを無視しないでおくれ〜〜」という兄の声が聞こえてくる。呼ばれた本人は、正面を見据えたまま無視を決め込んでいた。
璃黛は、なんとなく板挟みになったような気がして、気持ちが落ち着かず、うろたえるしかなかった。少し歩いたところで、さっきのはさすがに言い過ぎではないかと凛月に問うと、
「ん? …あ〜いいの、いいの。兄者の扱いは、あれくらいでちょうどいいから大丈夫。兄者の心配をしてくれるなんて、璃黛は優しいんだねぇ。よし、よし」
と、凛月はあけからんと答え、いい子いい子と璃黛の頭を撫でた。かと思えば、「そういえば、璃黛」と、さも今思い出したという顔をして歩みを止めた。
どうかしたのかと凛月を見ると、利き手がこちらに伸びてきている。何事かと思った矢先、片手で挟むようにして頬を鷲掴みにされた。
そして、そのまま彼の袖口で口を拭われる。しかも、力を加えてゴシゴシと。けっこう強く。てか、普通に痛い。
「いっ…! なっ、なに、りっ、くん」
「はいはい、我慢。あんなのとしゃべってたから、璃黛に兄者菌が感染したでしょ〜? 消毒できないし、しっかり拭かないと」
「い、いたっ、ちょ、普通に痛いから! も、いい、ほんと、だいじょぶだからっ! うう〜…くちびる…ヒリヒリする…」
「はぁ〜あ。せっかく璃黛をうまく誘導して、一緒にサボる予定だったのに。これじゃあ、あいつが来れない教室に逃げ込むしかないじゃんねぇ…? やっぱり、嫌な予感、当たった…」
はあぁ…と盛大にため息をついて、凛月は肩を落とした。その言葉に、どうやってもサボるつもりだったのか、と呆れから思わず笑みが漏れる。
仕方なしの理由でも、教室へは凛月が先導してくれている。手を引く彼の後姿を眺め、とにかく、教室に向かうつもりになってくれて良かったと胸をなでおろした。
ふと、気がつけば、背後から声が聞こえなくなっていた。
そういえば、零はどうしたのかなと後ろを振り返ってみる。だが、そこにはもう誰も居ず、すでにもぬけの殻だった。
2016.05.03
巻き添え