◎死ネタ
「今日、なまえちゃんに会いたいんだ。どうしても」
受話器から聞こえた、か細い声。それが、渉先輩の得意とする声帯模写だということは、すぐに分かった。
ただ、不吉だった。だって、朝方近く、留守電に録音されたメッセージだったから。
その日、わたしは忙しくしていた。そして、個人のケータイにではなく、会社を通して、現地に連絡が入った。
眉根を寄せて、こわい顔をしているリーダーに呼ばれる。病院から、だったそうだ。
頭では分かっているつもりだった。彼には時間がないのだと。だけど、その実感がなかったのも本当だった。わたしは薄情なのかと思った事もあったが、でも、今やっと、
彼が、もう永くないのだと悟った。
だって、死ぬ死ぬ詐欺にしては、どう考えても手が込みすぎている。
プロデューサーの仕事をしていたわたしは、もどかしい気持ちを抑えて、キリのいいところまでの仕事をする。穴埋めの代理を立てて、最後まで引率できないことを謝って、関係者のひとりひとりに頭を下げて、すぐにその場を後にした。
小道を縫って、大通りまで走った。すぐに見つけた“空車”を掲げたタクシーを身を乗り出す勢いで止めて、「大学病院まで」と早口で告げる。ドライバーさんが怪訝な顔をしていたけど、すぐに緊急だと察してくれたようだった。
病室の前には、たくさんの人がいた。
以前、彼は言っていた。自分は嫌われた存在なのだ、とか。
これを見て、彼は同じことを、この場でも言えるのか。こんなにたくさんの人が集っているのに嫌われてるだなんて、思い違いもいいとこだ。
あのときは有耶無耶にしてしまったけど、やっぱりそんなの、嘘だったじゃん。こんなときに気付きたくなかったよ。
人混みのなかに、彼の親族を見つけた。近づく間際に目が合って、会釈をする。
「来てくれてありがとう。あのね、今日が山だって、お医者さまがおっしゃって。英智自身もそれをよく分かってるみたいで、どうしても、あなたを呼んでほしいって。我がままらしいことを言わないあの子が、お願いするから――――」
と。すでに泣き腫らしていた、彼の母親がそう言った。
室内は静かで、機械の音がする。わたしの足音だけが、嫌に響くように感じた。
ベッドに近づくと、彼はたくさんの機械につながれていた。それはもう、見慣れたようなものだった。
細く開かれた瞳と目が合う。良かった。彼はまだ、生きていてくれた。
「先輩、すみません。遅くなりました」
「本当に。君を、ずっと待っていたよ」
そう言った彼は、あろうことか、酸素マスクを自ら外した。その行動に、心臓が痛いくらい一拍鳴って、すぐに背筋がひやりとする。
咄嗟に手が前に出たけど、彼の痩せこけた手に制止された。
「ごめんね。どうしても、直接、ちゃんと話したいんだ」
と、彼は言う。
わたしは、彼の家族に目配せする。片や首を横に振り、片や首を縦に頷き、ただ何も言葉にすることはしなかった。そして、静かに出て行った。
わたしたちは、今日のなんでもない、いつもしていたような会話をする。
こうすることも今日が最後になるなんて、絶対に嘘だと思った。だってどう見ても、彼はいつもの彼だったから。
終わりが近づいてきているだなんて、信じたくなかったんだ。
「すこし疲れてしまったから、ベッド、倒してくれないかな」
彼の言葉に了承して、子機をいじって傾ける。
わたしは椅子には座らず、立ったまま、彼を見下ろしていた。
彼の呼吸が、だんだんと細くなっていくのが、目に見えて分かる。それが、つらい。
「すこし、眠るよ」
「嫌です。わたしはまだ話していたいので、今日はまだ、起きていてください」
「ふふ。いつもはすぐに寝かしつけるのに、今日は我がままなんだね」
だって、寝てしまったら、もう起きないのでしょう?
思ったとしても、それを口にはできそうもない。言えるわけもない。でも、彼はきちんと、自分の命の長さをわかっている。それが、すごく悔しかった。
わたしたちは、しばらくのあいだ、静かだった。ただ、ずっと静かに、目を合わせていた。
そして――――
「なまえ。僕は、君が、好きだったよ」
蚊の鳴くような声でそう言ってから、彼は、とうとう目を閉じた。
少しの笑みを最後に浮かべて、すぐ、甲高い機械音が、鳴る。
彼の、天祥院英智の、終わりを告げた。
彼の言った「好き」は、過去形だった。
そうしたのはきっと、わたしのため。置いて逝く、わたしを気遣っての言葉だと、すぐに分かった。いつも優しいんだよ、この人は。
そんな最期に、家族でも恋人でも何でもない、ただの転校生の、彼にとっての後輩のままで良かったのだろうか。
答え合わせをすることは、もうできない。
つう、と一筋、涙が伝う。
「……先輩 ――――ううん、英智くん。あのね、あの、わたし、わたしもね、」
好きだった。
わたしも、あなたが、好きだった。
彼が生きているうちに、言えればよかった。この気持ちはもう、届かないだろうけど、この後悔はずっと引きずっていくのだろう。
そして、いつかの再会の折には、きっと。2017天祥院英智の命が終わるとき
2021.11.09