現在、放課後。わたしは誰もいなくなった教室で居残りをしていた。
心優しい泉さんから、何度目かのダメだしをもらったKnights の企画提案書。その修正案を再度、練っていたところだ。
ふいに机の横から圧を感じる。パーソナルスペースに人が侵入したときに感じる、あのあれだ。
圧の正体が誰か分かっていながらも顔をあげると、案の定、そこにはナルちゃんが立っていた。片手にハンドクリームをたずさえて、当たり前のようにして隣の席へと着席する。
そして、
「はい。手、だして」
これだ。
今日も来た……と、わたしは少しばかりうんざりする。
言葉にせず、心のなかだけに留めたつもりでいたが、どうやら顔にでていたらしい。あきれを含んだようなナルちゃんの表情が、わたしにそうだと教えてくれていた。
提案されたあの日からしばらく経つというのに、ナルちゃんは飽きもせず、A組に足を運び続けていた。
最初のときのように名前を呼ぶことはせず、最近ではさっさと教室にはいってくるようになった。そして少ない足音で近づいて、わたしの机の横に立つのだ。さらに、わたしが気がついたら開始だとでもいうように、いつもの空席に座ってすぐ、むかい合わせにさせられる。
それがほぼ毎日。いまだに続いているのが謎である。
いっつも二言目には、「アタシ、面倒ごとってきらいなのよねェ〜」なぁんて口ぐせみたいに言うくせに。こんなこと、絶対にナルちゃんの言う『面倒ごと』にはいるはずなのに。
実はこの『ナル子お姉ちゃん』とかいう人は、とんでもない大嘘つきなのかもしれない。
「……なあに、変な顔しちゃって。真面目に机にむかってなにしてたの?」
「泉さんからもらったダメ出しの修正」
「あら。あの企画書、まぁた返されてたのォ? 全体的に良さそうだったのに、なまえちゃんも大変ねぇ〜」
「泉さんって絶対に妥協、しないから。――――ねぇ、お姉ちゃん。かわいい妹のこと、ちょっとだけ助けてよ〜」
「えぇ……ヤ〜よォ。なまえちゃんが考えた企画、アタシも楽しみにしてるんだからっ!」
「そんなこと言っちゃって…… 『わたしと泉さんの間にはいるのは嫌』って顔に書いてあるからね、ナル子お姉ちゃん」
「やだぁ〜、そんなことないわよォ〜。なまえちゃんじゃないんだから、アタシは思ってたとしても、顔にでることなんてないわよっ♪」
「うう〜……いじわるう……」
やっぱり、助けてはもらえなかった。ジーザス。
当たり前に作業を中断されてしまい、わたしは仕方なく両手を差しだすことにした。しぶしぶというわたしとは対照的に、ナルちゃんはいそいそと、ハンドクリームのキャップをひねる。
「今日はね、クリームの種類を変えてみたの。きっと、なまえちゃんも気にいると思うわよォ♪」
「ふ〜ん」
わたしのそっけない返事が、空気に溶けて静かに消える。ぼんやりと、外部からの喧騒がやけに遠くに聞こえてくる。
それだけなのに、いつも感じていた騒がしさが、やけに懐かしく思えてきた。
わたしたちは、無人の教室にふたりきりだった。
今のいままで気にしさえしなかったのに、そういうのに気がつくと、とたんに身体が違和感を覚えはじめるから、困る。
どうやって呼吸をしていたのか忘れてしまったかのように、意図せず、呼吸が不規則になる。息苦しさを感じる。自分の呼吸音が目立つのではないか、とか、余計なことを考えてしまう始末だ。
ハンドクリームのかおりが鼻をぬけていくその一瞬までに、わたしは人知れず、そんな状況におちいっていた。やっとのことで話題をみつけて、さっきまで忘れかけていた呼吸のしかたを思いだしたのだった。
「――――いいにおいだね」
と、ひとことだけ絞りだす。声がかすれなくて、ほんとうによかった。
目の前から、「でしょ〜♪」と同意の声が返ってきたことに、わたしはひどく安心した。
ナルちゃんが使ってくれているクリームのかおりは、どこかで嗅いだことがあるような、そんな気がするものだった。それもごく最近、どこかで。どこだっけ。既視感のようなものが浮遊する。
あと少しで分かりそうで、分からない。のどに刺さった小骨が、取れそうで取れなかったときみたい。もどかしくて、お腹のあたりがムカムカする。
そんなことを考えながら、わたしは自分の手の一端だけをみつめていた。
ナルちゃんの手が、わたしの手の甲を重点的にケアしてくれている。とても丁寧な動きで、ハンドマッサージをしているみたいだった。
ナルちゃんのその手先から、わたしは順ぐりに視線をくゆらせる。とくに意味はなかったけれど、やっとのことで思い至った。さっきまでのもやつきが嘘のように、すうっと晴れていくさまが、感覚で分かった。ああそうだ。
「これ、ナルちゃんのにおいじゃん」
「あら。よく分かったわね」
「今すっごく考えてた。どっかで嗅いだことあるんだけど、どこだっけ〜って」
「ふふ、そうだったの? これね、アタシがいつも使ってるお気に入りのヤツなの。だから今日は、アタシとなまえちゃん、おそろいのかおりになるわね♪」
にっこり。そんな表現が似合うような笑顔をむけられる。
無邪気であるのに、あまりにも綺麗に笑うものだから、驚いたわたしは少しだけたじろいでしまった。
ナルちゃんが教えてくれたように、それは確かに、『ナルちゃんのにおい』だった。
ナルちゃんがすれ違ったときや近くにいるときに感じる、強く主張しない、このかおりはなんだろうとずっと思っていた。誰のものと分かる香水だけでない、それに混じって、ふんわりとかおるものの正体。
あれは、このハンドクリームだったんだ。これも含めての、『ナルちゃんのにおい』だったんだ。
やっと、点と点が線で繋がれたことに、ある種の感動さえおぼえた。しかし、その余韻は長く続かないまま、話題は次へと移行する。
「そういえばなまえちゃん。そろそろお家で何かしらのお手入れはしてくれてる?」
と、ナルちゃんがいつものように、手を止めずにわたしに問う。
考えるまでもなく、その答えはいつも決まっていた。
「いや、まったく」
「だと思ったわァ…… 相変わらず、アタシがこうしてやってるのみなのね」
ナルちゃんにそう言われて、怒られたような気分になってしまった。
じっと見つめたままでいた手から目線を上げてみると、目が合った。ナルちゃんも同じ所作をしたようで、下をむいていたはずの視線と、いとも簡単に交わってしまった。
その瞳は、別に咎めるつもりはないことを知らせてくれたので、わたしはしばしの安心を得る。目は口ほどに物を言う、とはこういうことなんだと変に納得をした。
続けられる言葉に、素直に耳を傾ける。
「ねぇ。なまえちゃんの手がこうして荒れるのって、昔からなの?」
「うーん。小さいころから荒れやすい体質ではあったみたいだけど、目に見えてきたのは最近かなぁ…… 乾燥しやすい季節だし」
「ふぅん。そうなの」
人に聞いといて、わりかし興味なさげな返答をもらった。作業に集中しているときのナルちゃんは、いつもこうだ。
気にするまでもないのは承知の上なので、わたしも首を縦にふるだけに留めておいた。
それより、動けないこの時間のほうが、わたしとっては問題である。単純にひま。やれることがない。
こういう手持ち無沙汰のとき、わたしはたまに、昔のことを思いだしている。
今はナルちゃんがしてくれているようなことを、昔はよく、お母さんにしてもらっていた。どこの家庭にでもあるような茶色いふたの市販薬を、母は『大丈夫』とわたしを安心させるように声をかけ、丁寧に塗りこんでくれていた。幼少期のころの話しである。
親とナルちゃんでは似ても似つかないのだけれど、なんだか、懐かしい気持ちになるときがある。
それも含めて『お母さんみたいだね』なんて口にしたら、『こんなに手のかかる娘なんていらないわよォ。せめてお姉ちゃんって言ってちょうだい』と言われたことがあった。そこはやっぱりお姉ちゃんなんだ、と少し可笑しく思ったことは、まだ新しい記憶として残っている。
じっとしながら空想にふけっているあいだに、どうやらこの時間も、終わりを迎えようとしているみたいだった。
ナルちゃんは合図だとでもいうように、いつも両手のひらでわたしの手を包みこんで、最後にきゅっと圧をこめる。今日もそうしてくれたから、終了するタイミングがすぐに分かった。
「はぁい、おしま〜い♪」
「本日もありがとうございました」
「どういたしまして。なぁに、改まっちゃって。変な子」
「いつもありがとうって思ったの!」
「やだ、かわい〜い♡ アタシが好きでやってるから気にしなくていいのよォ。でもまあ、自分でやれるようになれば、もっと良いけどねェ」
「それはちょっと無理かもしんない……」
いつも何かしらに追われているわたしにとって、それは無理難題もいいとこだ。
わたしにとっては、たかが手荒れ。その程度のものに割く時間ほど、無駄なものはない。と、やってもらっている身でありながら、ちょっとだけそう思っている。言わないけど。
ナルちゃんは、そんなわたしのことさえも分かっている、みたいな顔をしていた。だから面倒を承知で、自らひき受けてくれているのかもしれない。
「ちゃんと分かってるわよォ。だからあんたはおとなしく、アタシの親切を受け取っておけばいーの! 分かった?」
「はあい」
「お利口さん♪ それじゃあアタシは部活に行くから、なまえちゃんも続き、頑張ってねェ〜♪」
「うん、ありがとう。次で合格がもらえるように、気合いいれてやってみる!」
「ふふ。あまり根詰めすぎないように、ほどほどにね。いっつも全力なんだから、この時間はいい休憩になったでしょ」
「でもナルちゃんが飽きたと思ったら、すぐにでもやめていいからね」
「んまっ、ヤ〜な言い方ねェ…… そう言われたら意地でも続けてやるんだから。覚悟なさい♪」
じゃあまた明日ねェ〜、と言って、ナルちゃんはさっさと教室をでて行った。こういうところは、妙にあっさりしている人である。
もしかしたら、急いでいたのに時間を取らせてしまったのかもしれない。今となっては、わたしが知るところではないけれど。
ふたたび無人と化した教室は、在りし静けさを取り戻していた。わたしもすぐに、中断していた作業にもどることにする。
と、その前に。ポケットティッシュを探しださねば。机の横に引っかけている、スクールバッグの中身を手探りで漁る。
やってもらったあとは、手のひらを拭かないと気が済まない。クリームのおかげで、ペンが滑ってとても持ちづらいのだ。あと単純に、ベタつきの気持ち悪さにいまだに慣れない。
目当てのものを捕らえたとき、そこで初めて、わたしはいつもとは違う感覚に気がついた。いつもなら、ティッシュが包まれたビニールに、ペタッと張り付く感覚がするのに今日はしなかったのだ。
すぐに手に取ったポケットティッシュを机の上に置く。そして、手のひら同士を合わせて、おそるおそる擦り合わせてみる。
驚いた。サラサラしている。放りだしたままのペンを持ってみた。うそ、なにこれすごい。わたしはまたもや驚いてしまった。
今日のこの手は、しっかりと潤っているのに、ベタつきがない。なぜだか、ペンさえも持ちやすいような気がする。
こんなに不快感が尾をひかないものと出会ったのは、わたしの人生のなかでは初めてのことだった。
Continues everyday