主は、どこかの本丸の審神者のように聡明ではない……と言うと勘違いされそうだけど、特別知能がずば抜けているわけじゃないし、霊力が別段高いわけでもない。なのに珍しいと言われている刀を顕現出来ているのは、鶴丸さんの言うように「呼び声」にあるんだろうな、と思っている。……俺自身、なんとなくその声に惹かれた刀の一つだったから。
主が光の粒になって消えていく、その最後の一粒まで鶴丸さんと一緒に見送った後、何もなくなったその空間から目を離せないまま、「本当に良かったの?」と隣で同じようにそこを見つめている鶴丸さんに聞いてみた。返ってきた言葉は、予想通りだったけれど。でも、ちらりと覗き見たその表情は、なんだかとても……その表情を見た俺の心にまで針が刺さったように、痛くて……でも、安堵に溢れていた。
「……ああ、もちろんだ」
「もし、俺が残ってなくて、鶴丸さんのひと振りだけだったとしても?」
「はっ、当然! 同じ選択をしただろうさ! 考えてもみろ、全員が此処から居なくなってしまったら、誰がこの本丸を守るんだ?」
「そうですね……。主と過ごした場所だから」
「ああ。たった一年。だが確かに、主と生きた場所だからな。……俺が言えた台詞でもないが、あんなに未練を残す主を置いて、億が一の可能性を……捨てたくはないと、思った」
「……本当にそれ、皆が聞いたら怒りそう」
「おっと、これは内緒だぜ?」
痛ましい表情を消して、からりと笑いながら言ったその言葉を、俺は心のどこかで期待すると同時に、それはないだろうと打ち消していた。そんな俺の心情を察してか、億が一の話だ、と目配せする鶴丸さんに、もう一度「そうですね」と返した。
静かになった、広くなった本丸を歩いていると、自分が呼ばれた瞬間の事、兄弟と過ごしたこと、誉を取って褒められたこと。この一年という短い期間の、沢山の思い出が蘇ってくる。そして、それがもう手に入らないのだと思うと、とても……とても、悲しくて。主が帰る直前に感じていた、彼女への悲しみとは少し違う。あれは、笑ってほしいのにどんなに頑張っても笑わせてあげられる回数が少なくなっていたから、悲しかった。でも今は、その主すら居ないから、心に、空気が通っているような、少し寒い、悲しさがあって。
鶴丸さんのぽつりと呟いた「寂しくなったなあ」という言葉を、思い出した。……そうか、これが寂しいってことなんだ。……寂しい、淋しい。でも、最後に残った俺達が本丸から居なくなったら、確実にこの本丸は消されてしまう。それはきっともっと、寂しい。そうして俺も鶴丸さんも別の誰かに解かされて、次に目が覚めた時、それは俺ではない俺だけれど。彼女ではない別の主に使われるのは、やっぱりいやだなと思ってしまうのだ。今此処にいる、”俺”という鯰尾藤四郎が主に対して感じたこと、想ったことを、無かったことにして消したくはないな、と。
──そして、数日後、いつまでもしんみりしているわけにはいかないことが判明する。
この本丸のこんのすけが定期連絡のために来た日のことだ。それはそれはものすごく驚いていたけれど、事情を聞くと耳と尻尾を垂れて落ち込んでしまっていた。こんのすけも主に懐いていたからなあ、悲しくはなれど怒れないのかもしれない。
「引き継ぎは、なされるのですか……?」
「いんや、しない。俺達は俺達のまま、此処に居ると決めたのさ」
「なるほど。しかしそれは……少し、厳しいかもしれません」
「どういうこと?」
悲しげな空気を消し、表情をキリリと引き締め、顔を上げたこんのすけが言うには、主が定期的に行っている、政府への業務報告がなくなるのがとても大問題なのだという。報告が無くなるということは、そこで何かがあったということ。こんのすけの報告で虚言を重ねたところで、政府が直々に調べに来てしまったら、此処に審神者が居ないと知られてしまったら、本丸が機能していない……存在意義が無くなったと認知されてしまったら。俺達刀には利用価値があるからと、どこか別の本丸に強制的に飛ばされるか、強制刀解されるか。此処は解体されるのが自然な流れだと。
……元より俺たち刀は、使ってくれる主が居るからこその存在だ。理由としては納得出来てしまう話だけれど、……感情では、納得できるはずもない。
「どうすればいい。何を……何をすれば、逃れられる? 教えてくれ、こんのすけ」
鶴丸さんも、同じ気持ちみたいだった。当然だ。こんのすけは一瞬だけ視線を下げて、もう一度俺達を見上げると「本当に此処に残られる覚悟がおありなのですね」と言った。それも、当然だ。
「俺は、俺で居たいんです。俺達の主との記憶がある、俺で居たい。その記憶が残っているこの本丸から、離れたくない」
「ああ、ああ。その通りだ。だから頼む、教えてくれないか。どうすれば、俺達がここを守れるのか」
頷いた俺達を見たこんのすけは、一息置いた後、少しだけ嬉しそうに、微笑んだ。
「……分かりました。そう難しいことではありません。要は、此処はまだ生きていると……主様が居ると、政府の方々に証明出来ればよいのです。先程も申しました通り、主様が行っていた定期連絡が無くなってしまうことが、大問題なのです。ですから、」
「……それを、俺達がやればいいの?」
「ええ、そうなります」
尻尾をひと振りして、笑った。サポートでしたらお任せください! と。政府へ報告書を届けるのも、向こうでの僅かな報告もお任せを。主様が使っていた機械の使い方もお教えしますと胸を張るこんのすけに、ほっと肩の荷が少しだけ降りたように感じた。どうやら、こんのすけは俺達を無理矢理にでも此処から引き離そう、なんてことは考えていないみたいだ。寧ろ、こんなに愛された主様と本丸を担当することが出来て、誇らしく思います、だって。……なんだ、良いやつじゃん。
どうやら最悪の事態は、免れることが出来そうだ。どこか別の本丸では、こんのすけですら政府の人間ように問答無用で心無いことを言ってくるところもあるらしいと、前に主が言っていたのを思い出した。……良心的なこんのすけで良かったよ、ほんと。
「審神者様が辞めていく話は何度も耳にしましたが、審神者様の居ない本丸に残りたいと申し出る刀が居るとは……わたくしの経験上、聞いたことがありませんでした」
「ま、普通はそうだろうな」
「お二方は……主様が、大層お気に召しているのですねぇ」
「……そりゃ、唯一の、主だからな」
「こんのすけだって、同じ気持ちなんでしょ?」
「ええ、ええ! 皆様に内緒で油揚げを頂いたこともありましたし、肌寒い日などは、わたくしを抱えてお眠りになったこともありましたし、お優しかったですからねぇ」
「さらっと主の秘密を明かしたな」
「……えっ! 待ってずるい! 俺も添い寝したかった〜!」
「ふふん、狐の特権でございますね!」
「っぶは! ははは! なんだなんだ、案外、退屈しないで済みそうだなあ? ……よし、やるか!」
……主、此処は俺達がちゃあんと守るからね。俺達は、いつまでも此処に居るよ。どうか、もう泣かないで。現代ではきっと、また笑っていてくださいね。
――――――――
昼、出陣から帰ってきて、隊長からの報告が終わり、怪我をしている刀は軽傷でも手入れ部屋に行くようにと、見慣れた風景なりつつある帰還後の一連の流れが終わってから、数刻経った頃。
今日の出陣先で検非違使に出会ってしまい、少しばかり倒すのに手こずった場面もあったけれど。いつも通り無傷で帰ってきた俺は、兄弟との部屋に戻ろうか、どこかで日向ぼっこでもしながら仮眠でもとろうか、それとも少し早いお八つを強請りに行こうか。今日の予定についてどうしようかなあと、適当にぶらぶら歩いていたのだけど。
「なまずお、……なまずおー……」
「ん?」
主の部屋に近づいてきた時、名を呼ばれた気がしてそちらを見ると、隊長からの報告を自室へ持ち帰ったはずの主が、その部屋からひょっこり顔を出していた。ちょいちょいと手招きをしながら、内緒話をするようにもう一度小声で俺の名前を呼ぶ。思わず同じように小声になりながら、「どうしたの?」と近寄ると、きょろきょろと辺りを見渡して、俺以外誰もいないことを確認すると、ちょっと中に入って、と部屋に招き入れてくれた。……なんだろう。
静かに襖を閉めると、ちょっと待ってね、と言いながら、最近届いたらしい書類が積まれている机の引き出しから、何やら小さな箱を取り出して。俺に差し出してきた。
「はい、これ」
「え、なに? 俺に?」
「うん、……貰って」
その小さな箱の口は磁石でくっついているようで、指に力を少し込めるとパカリと開いた。中には、蘇芳色の石が付いた……首飾り?
「あ、え……? ほ、本当に貰っていいの?」
「いらない?」
「いらなくない! そうじゃなくて、待って、突然どうして……特別、誉を取ったわけでもないのに」
「……うーんと」
今日の誉は、蛍丸だった。練度が俺よりずっと低いはずなのに、そんなの些細なことだと宣言されているかのように容赦なく敵を薙ぎ払ってしまうから、蛍丸と同じ部隊になった日には誉なんて取れやしない。頼もしい限りではあるけど。
主は少しだけ困ったように小首を傾げて唸り、やがて「夢で、」とぽつり、言った。
「夢?」
「わたしが、審神者として、ちゃんともう一度向き合おうって……そう思ったのは、夢の、おかげだったから」
「……ゆめ」
はたと、思考が止まる。それは、どうにも覚えのありすぎる話だったからだ。主が、鯰尾が言ってくれた一言に、凄く救われてしまって、と言葉を続けた。
「その夢、鶴もね、出てきたんだけど。鯰尾のその、……その一言が、わたし、ずっと聞きたかったのかもしれなくて。すごく……すごく。だから、……って、あの、ただのわたしの夢の話だから、鯰尾は何も分からないだろうけどっ」
「……」
「だからその、ずっと何かしたいなって思って……いて、ええと。つまり、た、ただの自己満なの! でも受け取ってくれたら、嬉しいです」
ぱたぱたと両手を振りながら、なんとか伝えようと必死になる主に、思わす頬が緩む。俺の口から零れた言葉は、いつかの、それだ。「"もう、本当にしょうがないなあ"」。主が、ハッと息を飲んだ。受け取った小さな箱の蓋を閉じる。かぽ、と軽い音がした。
瞬間、ぶわっと瞳に涙が溜まっていくのを見て、ああ、泣かせてしまったと少しだけ胸が痛んだ。戸惑う感情のまま、意味を持たない言葉をぽつぽつ落とし始める主に笑って、夢だけど、夢じじゃなかったんだよと返してあげる。主は、涙を隠すように少しだけ俯いて、ふるふると首を横に振った。
「うそ、」
「本当だって」
ただの夢じゃないとはうすうす感じてたことだろう。感覚も、声も、ハッキリし過ぎていたんだ。俺も、今だって鮮明に思い出せる。「でも、ただの自分に都合のいい夢でしかないって」「ただの夢だったとしても、わたしにとっては二人が言ってくれた言葉が全てだったから」とぽつりぽつり明かしていく主に、何故だかとても申し訳なくなってしまって。つい、鶴丸さんがするように、主の頭をよしよし、と撫でてしまった。そっか。そういえば、その話を全くしていなかったよね。
「ごめん。ちゃんとその事、話せばよかったね」
「っううん」
「なんて言えば良いのかなあ……ああもう、泣き虫なんだから。……ちゃんと話すから、泣き止んで」
──今思えば、あれは、此処に残してきた主の未練の残り香、ってやつだったんだと思う。この場所と、俺達自身に残っていた主の僅かな霊力と、現代に居る主の身に宿ったままの霊力が糸で結ばれ、ほんの一瞬だけ繋がった、一回きりの奇跡だったのだと思う。
その時俺が感じた霊力の量は、本当にほんの僅かで、一瞬で。少しでも他の事に目を向けていたら気が付かなかったんじゃないかと思うくらい、とても細く小さなそれだった。俺の中に残っている主の霊力が、一瞬だけ、僅かに呼応したのだ。
それを感じた瞬間、反射的に大急ぎで向かったのは、主の書斎兼自室だった場所。何故だか、此処に行かなければいけないと思ったからだ。同じように、向こうから切羽詰まった表情で走って来る鶴丸さんも、きっとあの一瞬の糸を感じたんだろう。息を切らして書斎まで走る俺に対しても、同じことを思っていたはずだ。
この時はもう、主の事で、俺達に言葉はいらなかった。書斎の前で鶴丸さんと目線を合わせ、頷き合い、襖を開く。……何もなかった。何もない、けれど、チクチクと胸が痛い。今まで感じたことのない感情が、無理にでも湧き上がってこようとしているかのように、痛くて、少しだけ息苦しい。不思議で、理解しがたい感覚だった。
ふと気配を感じて振り返ると。
「、え」
──本丸の景色が、変わっていた。……否、正確には何も変わっていないのだけれど。季節が違っていた。主が現代へ帰ったその日から、この本丸は秋のままだ。四季を迎えることがない。だというのに、桜が舞っていた。そしてかつてのように、刀の声がするのだ。主の気配もする。と同時に、一瞬で理解した。これは、現実ではないって。
理解した瞬間、ズンと胸が重くなった。感じるのは、懐かしい霊力の温度と、そう、これは……主の、どこまでも続く、懺悔の想い。自分を憎らしく思う気持ち。ごめんなさいと泣く声が、俺達に届いた。
「……き、みは、ずっと、それを、……っは、そりゃないぜ、ったく……!」
隣で、胸元の着物をぐしゃりと握りしめながら、鶴丸さんが苦しげに呟いた。そうだ、そうか。さっきから感じていた苦しさは、息苦しさは、この痛みは、主のものなんだ。今、あの糸を辿って、俺達は主の意識と一時的に繋がっているんだろう。
主の想いと鶴丸さんに釣られて、余計に息が苦しくなりそうになるのを深呼吸で堪え、口を開く。
「でも、俺達の主って、そういう人でしたもんね。……だから、送り出したのに。……っ俺達の事、忘れて、ないじゃないですか」
忘れていいって、言ったのに。……声が震えてしまった。鶴丸さんが、微かに笑って、頷く。泣きそうな笑みだった。俺ももしかしたら、泣いていたのかもしれない。忘れていいって、言ったのに。ずっと覚えていて。覚えていてくれて。その上で、ずっと後悔していたんだ。俺達と主にあれなかった自分の弱さに、ずっと。
……夢の中の主と出会ったのは、その直後だった。だから、伝わればいいと思った。俺達の想いが、この一度きりだろう逢瀬で、伝わればいいと。そうやって自分を責めて苦しむのは、もうやめてほしいって。そしたら、それがまたこの場所を守って生きていく力になると思っていたから。覚えていてくれた。苦しくなるくらい、想っていてくれた。その事実だけで、今は十分だった。
……まさか、この奇跡をきっかけに、主が本丸に戻ってきてくれるだなんて……夢にも思ってなかったけれど。
―――――――――
「ね、これ、鶴丸さんには? 俺にだけ?」
「え、ええと。……うん、鶴には用意してない……」
「へへへ。嬉しいなあ! けど、鶴丸さん目敏いから、きっと俺が着けてたら気づくと思うよ? 主から貰ったって言ったら、ちょっと妬まれちゃうかも」
「い、言わなければいいんじゃ……」
「自慢したい!」
ええ、と頬を軽く引きつらせる主に、くすりと笑みが浮かぶ。本当だよ、他の本丸ではどうか知らないけれど、此処の鶴丸さんは、特に俺に対しては少しだけ嫉妬しいだ。
一番信頼してくれていると自負しているけれど、その分、主の事になると、好敵手だと思ってくれている節がある。この前だって、どちらが近侍をするかで言い合っていた時、俺が「冗談だよ」と耳打ちするまで、その目には焦りも見えていたし。……主も主なら、鶴丸さんも結構仕方のない刀だ。
だけど、俺は、ううん、きっと俺だけじゃなくこの本丸に居る刀たちも、知っている。……負けたくはないけれど、でも、きっと俺よりも……主の事を特別に考えているのは、他でもない鶴丸さんなんだってこと。全ての終わりであり、始まりであるのがあの人だから、皆理解して、認めているのだと。
主と繋がったあの瞬間、同じ空間に俺と鶴丸さんが居たのに、俺だけ贈り物を貰ってしまって、そんなあの人に無いのは、やっぱり俺がスッキリしない。鶴丸さんの分も選びに行こうと誘えば、一瞬迷っていたようだけれど、少しだけ眉を下げて微笑んで、頷いてくれた。
……その笑顔、好きだな、と、密かに思う。午後の予定、決まったみたいだ。
主が光の粒になって消えていく、その最後の一粒まで鶴丸さんと一緒に見送った後、何もなくなったその空間から目を離せないまま、「本当に良かったの?」と隣で同じようにそこを見つめている鶴丸さんに聞いてみた。返ってきた言葉は、予想通りだったけれど。でも、ちらりと覗き見たその表情は、なんだかとても……その表情を見た俺の心にまで針が刺さったように、痛くて……でも、安堵に溢れていた。
「……ああ、もちろんだ」
「もし、俺が残ってなくて、鶴丸さんのひと振りだけだったとしても?」
「はっ、当然! 同じ選択をしただろうさ! 考えてもみろ、全員が此処から居なくなってしまったら、誰がこの本丸を守るんだ?」
「そうですね……。主と過ごした場所だから」
「ああ。たった一年。だが確かに、主と生きた場所だからな。……俺が言えた台詞でもないが、あんなに未練を残す主を置いて、億が一の可能性を……捨てたくはないと、思った」
「……本当にそれ、皆が聞いたら怒りそう」
「おっと、これは内緒だぜ?」
痛ましい表情を消して、からりと笑いながら言ったその言葉を、俺は心のどこかで期待すると同時に、それはないだろうと打ち消していた。そんな俺の心情を察してか、億が一の話だ、と目配せする鶴丸さんに、もう一度「そうですね」と返した。
静かになった、広くなった本丸を歩いていると、自分が呼ばれた瞬間の事、兄弟と過ごしたこと、誉を取って褒められたこと。この一年という短い期間の、沢山の思い出が蘇ってくる。そして、それがもう手に入らないのだと思うと、とても……とても、悲しくて。主が帰る直前に感じていた、彼女への悲しみとは少し違う。あれは、笑ってほしいのにどんなに頑張っても笑わせてあげられる回数が少なくなっていたから、悲しかった。でも今は、その主すら居ないから、心に、空気が通っているような、少し寒い、悲しさがあって。
鶴丸さんのぽつりと呟いた「寂しくなったなあ」という言葉を、思い出した。……そうか、これが寂しいってことなんだ。……寂しい、淋しい。でも、最後に残った俺達が本丸から居なくなったら、確実にこの本丸は消されてしまう。それはきっともっと、寂しい。そうして俺も鶴丸さんも別の誰かに解かされて、次に目が覚めた時、それは俺ではない俺だけれど。彼女ではない別の主に使われるのは、やっぱりいやだなと思ってしまうのだ。今此処にいる、”俺”という鯰尾藤四郎が主に対して感じたこと、想ったことを、無かったことにして消したくはないな、と。
──そして、数日後、いつまでもしんみりしているわけにはいかないことが判明する。
この本丸のこんのすけが定期連絡のために来た日のことだ。それはそれはものすごく驚いていたけれど、事情を聞くと耳と尻尾を垂れて落ち込んでしまっていた。こんのすけも主に懐いていたからなあ、悲しくはなれど怒れないのかもしれない。
「引き継ぎは、なされるのですか……?」
「いんや、しない。俺達は俺達のまま、此処に居ると決めたのさ」
「なるほど。しかしそれは……少し、厳しいかもしれません」
「どういうこと?」
悲しげな空気を消し、表情をキリリと引き締め、顔を上げたこんのすけが言うには、主が定期的に行っている、政府への業務報告がなくなるのがとても大問題なのだという。報告が無くなるということは、そこで何かがあったということ。こんのすけの報告で虚言を重ねたところで、政府が直々に調べに来てしまったら、此処に審神者が居ないと知られてしまったら、本丸が機能していない……存在意義が無くなったと認知されてしまったら。俺達刀には利用価値があるからと、どこか別の本丸に強制的に飛ばされるか、強制刀解されるか。此処は解体されるのが自然な流れだと。
……元より俺たち刀は、使ってくれる主が居るからこその存在だ。理由としては納得出来てしまう話だけれど、……感情では、納得できるはずもない。
「どうすればいい。何を……何をすれば、逃れられる? 教えてくれ、こんのすけ」
鶴丸さんも、同じ気持ちみたいだった。当然だ。こんのすけは一瞬だけ視線を下げて、もう一度俺達を見上げると「本当に此処に残られる覚悟がおありなのですね」と言った。それも、当然だ。
「俺は、俺で居たいんです。俺達の主との記憶がある、俺で居たい。その記憶が残っているこの本丸から、離れたくない」
「ああ、ああ。その通りだ。だから頼む、教えてくれないか。どうすれば、俺達がここを守れるのか」
頷いた俺達を見たこんのすけは、一息置いた後、少しだけ嬉しそうに、微笑んだ。
「……分かりました。そう難しいことではありません。要は、此処はまだ生きていると……主様が居ると、政府の方々に証明出来ればよいのです。先程も申しました通り、主様が行っていた定期連絡が無くなってしまうことが、大問題なのです。ですから、」
「……それを、俺達がやればいいの?」
「ええ、そうなります」
尻尾をひと振りして、笑った。サポートでしたらお任せください! と。政府へ報告書を届けるのも、向こうでの僅かな報告もお任せを。主様が使っていた機械の使い方もお教えしますと胸を張るこんのすけに、ほっと肩の荷が少しだけ降りたように感じた。どうやら、こんのすけは俺達を無理矢理にでも此処から引き離そう、なんてことは考えていないみたいだ。寧ろ、こんなに愛された主様と本丸を担当することが出来て、誇らしく思います、だって。……なんだ、良いやつじゃん。
どうやら最悪の事態は、免れることが出来そうだ。どこか別の本丸では、こんのすけですら政府の人間ように問答無用で心無いことを言ってくるところもあるらしいと、前に主が言っていたのを思い出した。……良心的なこんのすけで良かったよ、ほんと。
「審神者様が辞めていく話は何度も耳にしましたが、審神者様の居ない本丸に残りたいと申し出る刀が居るとは……わたくしの経験上、聞いたことがありませんでした」
「ま、普通はそうだろうな」
「お二方は……主様が、大層お気に召しているのですねぇ」
「……そりゃ、唯一の、主だからな」
「こんのすけだって、同じ気持ちなんでしょ?」
「ええ、ええ! 皆様に内緒で油揚げを頂いたこともありましたし、肌寒い日などは、わたくしを抱えてお眠りになったこともありましたし、お優しかったですからねぇ」
「さらっと主の秘密を明かしたな」
「……えっ! 待ってずるい! 俺も添い寝したかった〜!」
「ふふん、狐の特権でございますね!」
「っぶは! ははは! なんだなんだ、案外、退屈しないで済みそうだなあ? ……よし、やるか!」
……主、此処は俺達がちゃあんと守るからね。俺達は、いつまでも此処に居るよ。どうか、もう泣かないで。現代ではきっと、また笑っていてくださいね。
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昼、出陣から帰ってきて、隊長からの報告が終わり、怪我をしている刀は軽傷でも手入れ部屋に行くようにと、見慣れた風景なりつつある帰還後の一連の流れが終わってから、数刻経った頃。
今日の出陣先で検非違使に出会ってしまい、少しばかり倒すのに手こずった場面もあったけれど。いつも通り無傷で帰ってきた俺は、兄弟との部屋に戻ろうか、どこかで日向ぼっこでもしながら仮眠でもとろうか、それとも少し早いお八つを強請りに行こうか。今日の予定についてどうしようかなあと、適当にぶらぶら歩いていたのだけど。
「なまずお、……なまずおー……」
「ん?」
主の部屋に近づいてきた時、名を呼ばれた気がしてそちらを見ると、隊長からの報告を自室へ持ち帰ったはずの主が、その部屋からひょっこり顔を出していた。ちょいちょいと手招きをしながら、内緒話をするようにもう一度小声で俺の名前を呼ぶ。思わず同じように小声になりながら、「どうしたの?」と近寄ると、きょろきょろと辺りを見渡して、俺以外誰もいないことを確認すると、ちょっと中に入って、と部屋に招き入れてくれた。……なんだろう。
静かに襖を閉めると、ちょっと待ってね、と言いながら、最近届いたらしい書類が積まれている机の引き出しから、何やら小さな箱を取り出して。俺に差し出してきた。
「はい、これ」
「え、なに? 俺に?」
「うん、……貰って」
その小さな箱の口は磁石でくっついているようで、指に力を少し込めるとパカリと開いた。中には、蘇芳色の石が付いた……首飾り?
「あ、え……? ほ、本当に貰っていいの?」
「いらない?」
「いらなくない! そうじゃなくて、待って、突然どうして……特別、誉を取ったわけでもないのに」
「……うーんと」
今日の誉は、蛍丸だった。練度が俺よりずっと低いはずなのに、そんなの些細なことだと宣言されているかのように容赦なく敵を薙ぎ払ってしまうから、蛍丸と同じ部隊になった日には誉なんて取れやしない。頼もしい限りではあるけど。
主は少しだけ困ったように小首を傾げて唸り、やがて「夢で、」とぽつり、言った。
「夢?」
「わたしが、審神者として、ちゃんともう一度向き合おうって……そう思ったのは、夢の、おかげだったから」
「……ゆめ」
はたと、思考が止まる。それは、どうにも覚えのありすぎる話だったからだ。主が、鯰尾が言ってくれた一言に、凄く救われてしまって、と言葉を続けた。
「その夢、鶴もね、出てきたんだけど。鯰尾のその、……その一言が、わたし、ずっと聞きたかったのかもしれなくて。すごく……すごく。だから、……って、あの、ただのわたしの夢の話だから、鯰尾は何も分からないだろうけどっ」
「……」
「だからその、ずっと何かしたいなって思って……いて、ええと。つまり、た、ただの自己満なの! でも受け取ってくれたら、嬉しいです」
ぱたぱたと両手を振りながら、なんとか伝えようと必死になる主に、思わす頬が緩む。俺の口から零れた言葉は、いつかの、それだ。「"もう、本当にしょうがないなあ"」。主が、ハッと息を飲んだ。受け取った小さな箱の蓋を閉じる。かぽ、と軽い音がした。
瞬間、ぶわっと瞳に涙が溜まっていくのを見て、ああ、泣かせてしまったと少しだけ胸が痛んだ。戸惑う感情のまま、意味を持たない言葉をぽつぽつ落とし始める主に笑って、夢だけど、夢じじゃなかったんだよと返してあげる。主は、涙を隠すように少しだけ俯いて、ふるふると首を横に振った。
「うそ、」
「本当だって」
ただの夢じゃないとはうすうす感じてたことだろう。感覚も、声も、ハッキリし過ぎていたんだ。俺も、今だって鮮明に思い出せる。「でも、ただの自分に都合のいい夢でしかないって」「ただの夢だったとしても、わたしにとっては二人が言ってくれた言葉が全てだったから」とぽつりぽつり明かしていく主に、何故だかとても申し訳なくなってしまって。つい、鶴丸さんがするように、主の頭をよしよし、と撫でてしまった。そっか。そういえば、その話を全くしていなかったよね。
「ごめん。ちゃんとその事、話せばよかったね」
「っううん」
「なんて言えば良いのかなあ……ああもう、泣き虫なんだから。……ちゃんと話すから、泣き止んで」
──今思えば、あれは、此処に残してきた主の未練の残り香、ってやつだったんだと思う。この場所と、俺達自身に残っていた主の僅かな霊力と、現代に居る主の身に宿ったままの霊力が糸で結ばれ、ほんの一瞬だけ繋がった、一回きりの奇跡だったのだと思う。
その時俺が感じた霊力の量は、本当にほんの僅かで、一瞬で。少しでも他の事に目を向けていたら気が付かなかったんじゃないかと思うくらい、とても細く小さなそれだった。俺の中に残っている主の霊力が、一瞬だけ、僅かに呼応したのだ。
それを感じた瞬間、反射的に大急ぎで向かったのは、主の書斎兼自室だった場所。何故だか、此処に行かなければいけないと思ったからだ。同じように、向こうから切羽詰まった表情で走って来る鶴丸さんも、きっとあの一瞬の糸を感じたんだろう。息を切らして書斎まで走る俺に対しても、同じことを思っていたはずだ。
この時はもう、主の事で、俺達に言葉はいらなかった。書斎の前で鶴丸さんと目線を合わせ、頷き合い、襖を開く。……何もなかった。何もない、けれど、チクチクと胸が痛い。今まで感じたことのない感情が、無理にでも湧き上がってこようとしているかのように、痛くて、少しだけ息苦しい。不思議で、理解しがたい感覚だった。
ふと気配を感じて振り返ると。
「、え」
──本丸の景色が、変わっていた。……否、正確には何も変わっていないのだけれど。季節が違っていた。主が現代へ帰ったその日から、この本丸は秋のままだ。四季を迎えることがない。だというのに、桜が舞っていた。そしてかつてのように、刀の声がするのだ。主の気配もする。と同時に、一瞬で理解した。これは、現実ではないって。
理解した瞬間、ズンと胸が重くなった。感じるのは、懐かしい霊力の温度と、そう、これは……主の、どこまでも続く、懺悔の想い。自分を憎らしく思う気持ち。ごめんなさいと泣く声が、俺達に届いた。
「……き、みは、ずっと、それを、……っは、そりゃないぜ、ったく……!」
隣で、胸元の着物をぐしゃりと握りしめながら、鶴丸さんが苦しげに呟いた。そうだ、そうか。さっきから感じていた苦しさは、息苦しさは、この痛みは、主のものなんだ。今、あの糸を辿って、俺達は主の意識と一時的に繋がっているんだろう。
主の想いと鶴丸さんに釣られて、余計に息が苦しくなりそうになるのを深呼吸で堪え、口を開く。
「でも、俺達の主って、そういう人でしたもんね。……だから、送り出したのに。……っ俺達の事、忘れて、ないじゃないですか」
忘れていいって、言ったのに。……声が震えてしまった。鶴丸さんが、微かに笑って、頷く。泣きそうな笑みだった。俺ももしかしたら、泣いていたのかもしれない。忘れていいって、言ったのに。ずっと覚えていて。覚えていてくれて。その上で、ずっと後悔していたんだ。俺達と主にあれなかった自分の弱さに、ずっと。
……夢の中の主と出会ったのは、その直後だった。だから、伝わればいいと思った。俺達の想いが、この一度きりだろう逢瀬で、伝わればいいと。そうやって自分を責めて苦しむのは、もうやめてほしいって。そしたら、それがまたこの場所を守って生きていく力になると思っていたから。覚えていてくれた。苦しくなるくらい、想っていてくれた。その事実だけで、今は十分だった。
……まさか、この奇跡をきっかけに、主が本丸に戻ってきてくれるだなんて……夢にも思ってなかったけれど。
―――――――――
「ね、これ、鶴丸さんには? 俺にだけ?」
「え、ええと。……うん、鶴には用意してない……」
「へへへ。嬉しいなあ! けど、鶴丸さん目敏いから、きっと俺が着けてたら気づくと思うよ? 主から貰ったって言ったら、ちょっと妬まれちゃうかも」
「い、言わなければいいんじゃ……」
「自慢したい!」
ええ、と頬を軽く引きつらせる主に、くすりと笑みが浮かぶ。本当だよ、他の本丸ではどうか知らないけれど、此処の鶴丸さんは、特に俺に対しては少しだけ嫉妬しいだ。
一番信頼してくれていると自負しているけれど、その分、主の事になると、好敵手だと思ってくれている節がある。この前だって、どちらが近侍をするかで言い合っていた時、俺が「冗談だよ」と耳打ちするまで、その目には焦りも見えていたし。……主も主なら、鶴丸さんも結構仕方のない刀だ。
だけど、俺は、ううん、きっと俺だけじゃなくこの本丸に居る刀たちも、知っている。……負けたくはないけれど、でも、きっと俺よりも……主の事を特別に考えているのは、他でもない鶴丸さんなんだってこと。全ての終わりであり、始まりであるのがあの人だから、皆理解して、認めているのだと。
主と繋がったあの瞬間、同じ空間に俺と鶴丸さんが居たのに、俺だけ贈り物を貰ってしまって、そんなあの人に無いのは、やっぱり俺がスッキリしない。鶴丸さんの分も選びに行こうと誘えば、一瞬迷っていたようだけれど、少しだけ眉を下げて微笑んで、頷いてくれた。
……その笑顔、好きだな、と、密かに思う。午後の予定、決まったみたいだ。
18.11.7