いつか、それも思い出だと

※献上記念日2018(遅刻)



 夜。書斎で、今日中にここまでは読もうと思っていたページに目を通し終わり、開いていた分厚い文献をパタンと閉じる。ふと顔を上げて、壁にかかっている日捲り型のカレンダーに目をやると、左上に十一、中央に七と英数字で大きく書かれている。
 漢数字ではなく英数字の物を置いているのは、横文字に少しでも親しんでもらうため……と尤もらしい言葉を言い訳にしているけれど、実際は、わたしが見やすいからだ。漢数字がずらりと並んでいると、正直読みにくい。外来語に慣れてしまった身としては、このくらいは大目に見てほしいと思う。
 文献を本棚に仕舞い、用意していた上着を羽織ってから、音を立てないよう、襖をそろりと開ける。書斎が皆の部屋から少し離れてるとはいえ、大きな音を立てては、既に床に入っている刀たちの眠りを妨げてしまうかもしれないから。

 今日一日滞りなく過ごし、するべき事も終わり、後は寝るだけになったこの時間。わたしが部屋を出たのには、そうしなければいけない理由があった。……いや、わたしがそうしたいと思っただけなのだけれど。
 当然ではあるけれど、廊下に誰もいないことを確認してから、小さく……呟くように、彼の名を呼ぶ。
「……鶴丸」
 足音一つしない、風のそよぐ音だけが場を占めていたはずのその場所に、しかし頭上からカツンと音がしたかと思うと、縁側の向こうに白が上からふわりと降り立つ。ゆっくり振り返って、呼んだかい?と微笑む彼に、頷いて返した。
 予想はしていたその登場に、驚きはしない。彼もまた、気にした様子はなかった。彼がわたしに手を伸ばして「付き合ってくれるんだろ?」と眉を下げる。もちろん、断るわけもなく。
 重ねたわたしの手を、普段は柄をしっかり握っているその手で、そっと包まれて。「抱えるぜ」と宣言された通り、わたしを軽々抱えた彼は、そのまま先程まで居たのだろう屋根の上に飛び乗る。わたしを座らせ、その隣に座り、空を見上げると、細く長く息を吐き出した。……普段はコロコロ変わるその表情が、今は切なさに包まれているように思う。
 今の時期、上着を着ているとはいえ、夜は流石に寒い。けれど、まだ吐いた息が白くはならない。透明な彼のため息は、形にならないまま、空気に溶けていった。
「……あと一刻で、今日が終わる」
「うん」
「月日が経つのは、本当に……驚くほどに、早いものだなあ」
 今日の空は、生憎雲が多く出ている。月に雲がかかり、薄暗く光を放っているけれど、その姿を見ることは出来そうにない。
 少しだけ鶴丸に寄りかかってみると、彼も同じように身体をわたしに寄せてきて、思わず頬が緩む。鶴、と短く呼びかければ、視線を滲んだ月からわたしへ寄越し、目を細めて応えてくれる彼、鶴丸にとって、今日は少しだけ特殊な日だ。

 十一月七日。
 この日は、太刀、鶴丸国永が、御物として明治天皇に献上された日だった。
「……鶴にとって……今日は、どんな日?」
「…………、そうだなあ……」
 鶴丸は、もう一度見えない月を見上げ、困ったように微笑んで、言った。実のところ、よく分からないんだ、と。雲の向こうで輝く月を探していた金色を、瞼の裏に隠して、思い出を語るように言葉を続けた。
「時に盗まれ、時に譲られ、主を変え続けた。それでも使われてきた俺の、鶴丸国永の……刀としての役目が、本当の意味で終わった日であり。……退屈な、つまらん日々の始まりでもあり。まあ、国宝として扱われていたんだ。光栄なことだ……ってことは、分かっちゃあいるんだが」
 もう一度、今度は盛大な溜息をついて、ゆっくり瞼を持ち上げる。色のない声で、それでもあの日々は、死にそうな程につまらなかったと呟いた。
 体がではなく、心が死にそうだった、という意味だろう。刀として振るわれることなく、美術品として飾られ、そこにいるだけの、変化のない毎日。献上されることは誇りになるはずなのに、彼にとってそれからの数百年は、苦痛でしかなかったのかもしれない。……数百年。正確には、約三百年だ。長く生きれないわたしたち人間には、想像することなんてできない。
 予想しうる出来事だけでは心が死んでしまうと口酸っぱく皆に言っているのは、その言葉通り、彼はその「心の死」を、身を持って体験していたからなんだろう。

 何も言えずに、ただ彼の横顔を見つめて気持ちを受け止めていると、愁いを帯びていた瞳が、しかし突然ふっと和らいだ。
「ただ。それが、今この瞬間のために必要な時間だったとするなら、……そう悪くもないさ」
「……刀剣男士として、また刀を振るえたこと?」
「ああ、それもある。刀の本分は戦うことだからなあ、戦闘中は心が躍る。……が、それだけじゃない」
 鶴丸が、顔をわたしに向けて、からりと笑う。いつもの、少年の様な……無邪気な微笑みだった。
 皇室に鶴丸国永が献上されたこの日は、確かに彼にとって特別な日だ。記念すべき日だ。と同時に、彼の、刀としての終わりの日だ。……誕生日を祝うように、おめでとうと言っていいのか、喜べばいいのか、正直分からない。

「此処できみと出会い、生きていけることだ」

 けれどもし、何か言葉をかけるとするならば。彼が鶴丸国永として鍛刀され、戦い、受け継がれ、献上され、今ここに付喪神として存在している、その事実に。
「鶴、」
「ん?」
「……わたしも、あなたに会えて良かった」
「……、ああ」
「此処に来てくれて、ありがとう」
 長い長い時間の末に、わたしという一人の審神者の元に来てくれた鶴丸国永に、心からの感謝を。彼への言葉は、それだけで十分なんだろう。きっと、きっと。
 彼は水面に波紋が広がるように、緩やかに表情を緩めて、噛み締めるように頷いた。
 満足そうに空を見上げた鶴丸が、お、と声を上げる。見れば、流れていく雲の隙間から、金色にも白にも見える月が、ようやく顔を出しはじめていたところだった。
 あと数十分。日付が変わるまでは、こうしていよう。明日からまた、一日一日を歩めるように。
 どうか、彼にとっての此処での生活が、もっとずっとずっと、今までの愁いを全て塗り替えてしまえるくらい、輝きと驚きと、幸福に満ち溢れたものになりますようにと。少しずつ姿を見せる月に、願いを込めて。



18.11.8