わたしが審神者に戻ってから暫く。わたしが本丸を留守にしていた二年間というのは、想像以上に大きいものだった。書類の件だけではない。新しく、見たことのない強敵が現れたと報せの来ていた戦場があったことや、新しく存在が確認された刀の種類についてだ。
確かに、今の初期刀は鶴丸と鯰尾であり、鍛刀でわたしにとってのふた振り目がとんとん拍子で増えていく中、唯一のひと振り目の二人でもあったけれど。それがついに覆ったのは、太刀と大太刀の鍛刀に力を入れ始めた頃のこと。
近侍である燭台切さん……と呼ぶと、少しだけ複雑そうな顔をされるので、光忠さんと呼んでいる彼に「今朝行った鍛刀が終わったみたいだよ」と報告を受けたのは、ちょうど鶴丸も鯰尾も出陣で本丸に居ない時だった。
毎日ご厚意で食事当番をしてくれている光忠さんと、今日明日の献立の話をしていると、鍛刀部屋までの距離が本当にあっという間に感じる。話し上手でもある彼との会話は心地よくて、ぽんぽん言葉が飛び交ってしまう。
「最近は洋食が多かったから、和食が食べたいなあ」
「ああ、確かに。西洋料理のリクエストが結構多いんだよね。特に鶴さんからなんかは」
「ふふ、そうそう。……んー、魚介類が食べたいな、……あ、ムニエルとか」
「……君、それ西洋料理だよ?」
「あれ?」
ぷすりと笑って、「分かった、作ってみるよ」と肩を揺らす光忠さんに、思わず顔を覆いたくなった。横文字に慣れ過ぎていると、たまにこうなるから恥ずかしい。
他愛ない会話を交わしつつ、たどり着いた鍛刀部屋へ入ると、小さな鍛刀職人さんがどうだ! と言わんばかりに両手を広げて、美しく輝く二振りの刀を見せてくれた。……あれ、二振り? 一振り分の資源しか使用しなかったような気がするけれど、気が付かないうちに消費していたのだろうか。
職人さんが、刀の顕現の邪魔にならないよう、すっと身を引いた。一歩後ろで光忠さんがこれは、と呟くから、思わず振り返ったわたしに、けれど「ああ、なんでもないよ。ごめんね。さ、顕現を」と首を振って背を軽く押される。
それに少しだけ不安を感じつつ、まあ、何かあったらちゃんと言ってくれるだろうと思い直して、二振りに手を翳した。……語りかけるのは、いつもと同じことだ。ただ、鶴丸から、神に助けを求めるような呼びかけは止めるようにと言われてしまっているので、それは考えないようにしている。いくら付喪神とはいえ、配下にするのだから低姿勢でいるのは考えものだ、とのことだ。手を翳し、指先から刀に霊力を注ぎ込むイメージを浮かべる。どうか応えてくださいと呼びかけながら。
……鶴丸の言うことは一理ある、けれど。とは言っても、わたしは、配下にしているというよりかは、力を借りて助けてもらっているという認識なわけで……。いや、今それを自分の中で議論しても仕方がない。今は──……。
「──やあ。源氏の重宝、髭切さ。こっちは弟の……えっとー、鬼丸だったかな?」
「それは兄者の名だろう! ……こほん、失礼した。俺の名前は膝丸だ。君が俺達を呼んだ主だな? 宜しく頼む」
「よろしくね。……それにしても……不思議な空間だねえ、此処は。様々な記憶が漂っているよ?」
……今は、二年前には顕現出来なかった、新しく刀剣男士として任命されたこの二振りに。鯰尾と鶴丸以外で、ついにわたしにとっての、新しいひと振り目として顕現したこの二人に、どう説明すればいいのかを考えなければ。
―――――――――
敵の本陣を目指して、時間遡行軍を倒しながら先へ先へ進む。大太刀が現れた時は、厄介なことになる前に真っ先に殲滅しに向かい、太刀が現れた時は足止めしつつ、味方の出方を伺った。この部隊で俺が心掛けるべき一番大事なことは、敵を倒しすぎないようにすることだ。多少面倒ではあるが、自由奔放に戦場を駆けてしまっても意味がないからな。
……今日は、俺にとっても鯰尾にとっても、久方ぶりの部隊での出陣だった。俺や鯰尾が隊員に居ると、練度が低い刀たちが誉を取りにくく、練度がうまいこと上がらないからと、暫く遠征にしか向かわせてもらえていなかったためだ。まあ、こればっかりは仕方がない。ならば俺と鯰尾の二人で戦場に行くことも提案したのだけれど、それは危険だから絶対に嫌だだめだと断られてしまった。……全く、本当にきみは心配性だなあ。
そして待ちに待った今日、後から顕現した刀たちの練度が追い付いて来たからと、やっと揃って出陣の許可が出たわけだ。とはいえ、やはり練度の差が零になったわけではない。俺も鯰尾も、張り切っているのは確かだが、一人で突っ走ったりしないよう、その辺は見極めているさ。
仲間の気配を感じ、押さえていた太刀を蹴り飛ばすと、横からすかさず一閃が飛んでくる。突き出した足に剣先が掠めそうになって、流石にひやりとした。いやいや、少しズレていたら、敵と一緒に俺の脚も消えるとこだったぞ!
「記憶にある姿に比べ、立ち回りが上手くなったなあ、鶴丸」
……三日月だった。刀を横に振り、ピッと血を掃う三日月に「おいおい、俺まで切る気だったのかい?」と肩を竦めてみせると、お前ならあのくらい避けれるだろうとくつくつ笑うものだから驚いた。お、お前、今のわざとだったのか!?
「鶴丸さーん! こっちも終わったよー!」
「おお? 順調だったなあ!」
「大きな負傷をしているものは……うむ、居ないようだな」
集まった面々を見渡し、大した被害を出ていない事を確認して、全員優秀だなと笑う。この辺りの敵は、もう余裕で倒せる練度にまで達しているようだ。各自装備している刀装もほとんど壊れていない。こいつは重畳。
念のため敵に生き残りがいないか周囲を見回していると、鯰尾が聞いてくれよ! と声を上げて、五虎退の背を押した。どうやら今回誉を多く取ったのは五虎退だったようだ。今日はすごい活躍だったんだ! と嬉しそうに笑う鯰尾の横で、骨喰も良く動けていた、と頷く。兄弟が仲睦まじく笑い合っているのは、いつ見ても良いもんだ。
恐縮だと俯く五虎退の前にしゃがんで、俺と同じ真っ白な髪を撫でてやると、不安そうな目に俺を映した。安心させるように、小さな戦士に微笑みかけ、伝えようと思っていたことを口にする。
「俺が大太刀を倒しに向かう時、敵の短刀が俺を狙わないよう、毎度毎度惹きつけてくれていただろう?」
「……っあ、えと、は、はい。一応……動きが早い短刀は、……鶴丸さんの邪魔をしちゃうと、思ったので……」
「ああ。おかげで、迷わず強敵に向かうことが出来た。あの咄嗟の判断力は、大したもんだったぜ!その誉は、自信を持って主に報告しよう!……な?」
「……! は、はいっ!」
ふわっと花が咲くように微笑んだ五虎退に、その場の空気がほっこりと緩んだ気がした。普段眉を下げてばかりいるやつの微笑んだ顔というのは、やはり心温まるものだ。……ふと、泣いてばかりだった主の表情が浮かんで、違う意味で表情を緩めると、察したんだろう鯰尾から、呆れを含んだ目を向けられた。……言いたいことは分からんでもないが、仕方がないだろ。このくらい許してくれ。
では帰還するかと、三日月が間延びした声で言うのと同時に、刀身を鞘に戻した。カチン、と硬い音が小さく響く。久々の実戦でそこそこ楽しかったし、皆の練度だけではなく、動きや状況把握能力も成長していた。何より、文句なしに良い成果だった。
主に良い知らせが出来るなあと、上々な心持ちで帰還した先で、……まさか、ついに初めて見る──新しい刀が顕現していようとは、思いもしなかったが。
――――――――――――
分かってはいた。分かってはいたんだ。いつかそういう日が来るってことくらい。俺達だけが、主の"一振り目"じゃなくなる日がきっと来るってことくらい。分かってはいたけれど。……やっぱり、いつまでもその位置に居たかったと思ってしまうのは、悪い事だろうか。許されない事だと思うか? 望みすぎだろうか。
いいや、あいつ等が嫌いだとか、鍛刀したことに腹を立ててるとか、そういうことじゃあないんだ。仲間が増えるのは素直に嬉しいものさ。鍛刀で珍しい刀が顕現されるのも、新しい刀が顕現されるのも、それだけ主が力をつけていて、それだけ主の呼び声に応えたいと思った刀が居たってことだろう?主の刀として、誇らしいことこの上ない。どれだけ仲間が増えたところで、俺達の間の何かが変わるわけでも、亀裂が入るわけでもない。……ただ。そう、ただ。俺はきっと、恐れているんだ。
「……情けなくて泣けてくるぜ、全く……」
「、どうしたの?」
「ん、あー……、いや。なんでもない。ひと段落ついたのかい?」
「ううん、もうちょっと」
「そうか?」
終わったら声かけてくれと一言添えて、再び主の書斎に置かれている、そふぁという名の長椅子に寝転がった。相変わらずこいつはふかふかで心地が良い。ま、此処で寝てしまうと、体の節々が痛くなるのが玉に傷だな。
新しくこの本丸に来た源氏の刀のうち、兄の方は、俺……鶴丸国永とも縁のある刀だ。向こうも覚えていたらしく、俺を見ては懐かしいねと目を細めていた。二人は、他の刀のように、顕現した瞬間ひと振り目の自分の記憶を辿る、という、この本丸では恒例になってしまっていた経験は、当然だが体験しているわけもなく。ただしその代わり、この本丸自体の記憶が、全体的に表面だけ、うっすらとだけ見えたらしい。
本丸に……特に鍛刀部屋に、刀達の昔の記憶が残っているのは感じる。けれど、それがどういうものなのかまでは分からない、と。何かを伝えようとしているのは分かる、けれど、全貌は伝わってこないのだと。兄の方曰く、「主を受け入れてくれるよう、過去の君達が導こうとしていたのかもしれないね」だそうだ。……もし本当にそうだとしたら、この場所は何とも幸多きことだ。
ちらちら覗き見た記憶だけでは理解しきれない部分は、その時近侍を務めていた光坊が説明してくれたようだ。あいつも、主から説明を頼むと命じられれば、お安い御用だと笑うだろうに。光忠さんに気を遣わせてしまったと落ち込んでいたあたりが彼女らしい。
しかし、兄の方……髭切は昔から変わらず、あの三日月よりものほほんとしている性格のせいか、一応は主にとって、数年ぶりの初対面の相手だというのに、彼女が気を許すのは早かったように思う。その弟である膝丸も同様にだ。しかも何を思ったんだか、主にお兄さんだとかお兄様だとか呼ばせて、「うんうん、妹が出来たみたいでなんだか楽しいね」だなんて笑っていやがる。主もなんだかんだで可笑しそうにくすくす笑っていた。どういうことだ。確かに驚きはしたが、俺は全然楽しくないぞ。
──待て、いや違う、そういうことが言いたいんじゃない。……だめだ。もう彼らのことを考えるのはよそう。別に嫌ってなどいないんだ。俺の気持ちの持ちようの問題で。……って、なんだそれは。女々しいにも程があるんじゃないか? 他の本丸の俺なら、こんなことでいちいち悩んだりしないだろうに。……するんだろうか? 分からん。全く本当に、きみの事となると、どうにも落ち着かない。
「そういえば、」
「! なんだっ?」
「え、……えっと、鶴って、その、髭切さんと同じところに居たこともあるんだよね?」
「……あ、っああ! そうだな! あれは……最初の主の……そう、霜月騒動、なんて呼ばれているやつだな!」
「……どうしたの……?」
話しかけられた内容が、考えないようにしようと決めたばかりの髭切の事だったから、自分でも分かるほどに、言葉に迷ってしまった。主が不審がっているのが見て取れる。これは、まずい。まずい。慌てて笑顔を作って「思い出話でも聞くかい?」と言葉を紡いだけれど、恐らく、顔が引き攣っていたと思う。
何か言わなければと考えを巡らせている間に、何か思案するように視線を彷徨わせていた主が、やがて静かに立ち上がって、深く長く、吐き捨てるようにため息をついた。……それが、疲れた時に出していたそれとあまりにも似ていたものだから、思わず、小さく肩が跳ねる。ああ、まずい、まずい。違う、待ってくれ。違うんだ。……何だ、何が違うというんだ?分からない。俺は何に焦っているんだ。分からない。ただ、漠然とした何か、嫌な予感に、背筋が凍る。
きみ、と声を出す前に、カタリと机の引き出しから、小さな箱を取り出して、彼女が言った。
「今の鶴からは、聞きたくないかな」
──ゾッとした。息が詰まる。心音が、気味が悪いほど全身に響く。
何を否定したいのか、何を引き止めたいのか分からないまま、違う、待ってくれと心が叫ぶ。喉がカラカラに乾いて、声が出なかった。血の気が引くとはこういうことなのかと、僅かに残る冷静な自分が苦笑している。その言葉に乗せた彼女の声の温度が思い出せなくて、余計に焦る。主の真意は分からないけれど、今の俺にとって、その一言が確かな拒絶に聞こえてしまったからだ。違う、違うんだ、ただ、……ただ?
彼女は、その箱を持ったまま、長椅子に座る俺の隣に腰掛けた。……心のどこかでは、そのまま書斎を出て行ってしまうのではないかとも思っていた、のだけれど。そうはならなかった。此処から離れようとしたわけでは、ないようだ。真っ青だよと眉を下げて頬に触れてくるその体温に、固まっていた全身の力が、解けるようにほっと抜ける。……いつもなら。いつもの自分だったら。こんなに動揺も混乱もしなかっただろうに。今は、先程まで頭をぐるぐる廻っていた、泥沼のような思考を溶かしてくれているような、主の手に縋りたい気分だった。
主が困ったように笑みを作り、小さく「無理に話さなくていいよ。……ごめんね」と呟いて、頬に触れていた手がそっと離れる。かと思うと、耳に小さな重みと共に違和感を感じた。満足そうに頷く主の手には、蓋が開いた箱がある。先程机から取り出していた箱だ。その中には、琥珀色の石が印象的な耳飾りが一つと、同じものがそこにも嵌め込んであったのだろう、窪みになっている空白の部分が一箇所。……ということは、今俺の耳にある違和感の正体は。
「この前、風邪引いた日に買ってたんだけど……渡しそびれてて」
「これ、は?」
「えっと、見たままだよ。耳飾り。鶴に、わたしからの贈り物」
「……贈り物」
「これで許して……という訳ではないんだけど。ごめんなさい、そんなに思いつめるとは思ってなくて。……鶴と生きたことのある刀だって聞いたから、その、わたし、……嬉しくて。話、聞いてみたかっただけなの。……鶴が話せると思った時に、聞かせてくれたら、それでいいから。」
「っは、……は? あ、いや、ま、待て待て! 顔を上げてくれないか、きみが謝る必要はないんだ! というかだな、何か勘違いしていないか!? そうではなくて、……」
恭しく頭を垂れる主に、身体の緊張が一気に解ける。と同時に、俺は主に何をさせているんだと大慌てで顔を上げさせて、大きくため息をついた。どうやら、俺が髭切を苦手に思っていると捉えてしまったらしい。あいつとの話をしたくないのに聞き出そうとしてしまった、だから詫びなければ、と。そういうことか。俺は別に、髭切と居た時代の話をしたくないわけじゃない。確かに俺にとっては、一番最初の強い思い出ではあるけれど、あいつ自身に悪い印象はないし、……あるのは、もっと冷たい温度の方だ。だからきみは何も悪くない。そもそもそれで悩んでいたわけじゃないのだから。主の姿勢を戻させたとき、耳に着けられた飾りが、ちり、と小さく鳴った。
──彼女の特別でありたいと思った。特別が欲しいと思った。どこの本丸のどんな刀だって、主に対して考えることだろう。本心だ。ただ、何も言わずとも俺がそれを堂々と思えるのは、表に出せるのは、本丸の皆が厚意でその場所を譲ってくれているからだ。孤独を生き抜き、二度目の主を迎えた俺達ならば何も言うまいと、目を瞑って許してくれているからだ。
俺の心に渦巻いていたのは、そう。ただ、きみがいつか。俺達のように過去を知っているわけではない、けれどきみを酷く気に入った新たな刀に、きみが、俺の手の届かないところで攫われてしまうんじゃないかという、一抹の不安。そしてその、ありもしない疑いの視線を、これから増える自分の仲間に向けてしまうんじゃないかという、自分自身への恐れだ。……そしてその時、きみの中から俺という存在が薄れてしまうことが、とても恐ろしく思える。
ところが主は、それを聞くと不思議そうにきょとんと首を傾げ、また困ったように、しかし安心したように微笑んで「なんだ、そんなこと?」なんて言うもんだから、これはもう、目を丸くしてしまった。
「そ、んなことって、俺は真剣にだな……!」
「此処の記憶を持っていない刀が増えた時、もしわたしに何かあったらって、心配してくれたんだよね」
「ぐ、う、んん……? そう、なるの、か?」
……いや、違うだろう。もっと醜くて、主が言う程綺麗なものではない気がするけれど。きみがそう思うなら、そう受け取っておいてくれた方が良いのかもしれないと、ぎこちなくなってしまったが頷くと、またふすりと笑った。なんなんだ。俺はそんなに可笑しいことを言ったか?
「もし、そうなったら、わたしがいつどこへ連れて行かれたとしても、鶴が絶対……助けに来てくれるでしょう?」
「き、きみなあ!そりゃあ、勿論、そうだが!」
「ほら、心配ないよ。それに。……"わたしの神様"は、鶴丸だもの」
「? どういう、」
彼女が、ふっと目を細める。何故か、一瞬、呼吸が止まる。聞いてはいけないような、しかし聞かなければいけないような、複雑な感情に心臓を掴まれるような、感覚。それを紡ぐ彼女のはにかんだ表情に、目を奪われた。
「だから、ね? もし、連れて行かれるなら。
……その時は、……あなたに攫ってほしい」
「────」
言葉が、出なかった。正気か?と問うことも、出来なかった。彼女が冗談でそんなことを言うとは思えない。箱の中に残っていた耳飾りを、俺の反対の耳に付けて、その時は名前を貰ってね、と柔らかく言葉を紡ぐ彼女が、照れくさそうにへらりと笑った。
ああ、ああ、なんてこった。考えていたこと全て、どうでもよくなってしまうくらいの、とんでもない殺し文句だ。まさか、こんな驚きをもたらされるとは、夢にも思わないじゃないか。
何も言えないまま思わず項垂れて、顔を隠すように片手で覆っていたら、「その時まで、一緒にたくさんの景色を見よう」とまたふわりと笑うものだから、少しだけ笑ってしまう。視界の隅に桜の花弁が見える。やめてくれ、俺の心が見え見えじゃあないか。心底、参った。この本丸に帰ってきた当時よりもずっと前向きになってくれているのも、曇りのない信頼を置いてくれているのも、これ以上なく嬉しいのは、嘘偽りない気持ちなのだが。よく俺のことをずるいずるいと言うが、卑怯なのはきみの方なんじゃないのか? いやいや全く、本当に、とんでもない。勘弁してくれ。
俺の耳元で、再びちりり、と耳飾りが鳴った。それが、悩むこと自体、最初から意味なんてないよと主が笑っているようにも聞こえて。
ならば、ならば。それまで。きみの名前は大切に、鍵をかけて守っておいてくれと返すのが、今言える精一杯だった。それだけで嬉しそうにはにかむきみを、……その時まで、どうか誰にも奪われなければいいと願ってしまうのは、やはり仕方のないことだと思うのだ。
確かに、今の初期刀は鶴丸と鯰尾であり、鍛刀でわたしにとってのふた振り目がとんとん拍子で増えていく中、唯一のひと振り目の二人でもあったけれど。それがついに覆ったのは、太刀と大太刀の鍛刀に力を入れ始めた頃のこと。
近侍である燭台切さん……と呼ぶと、少しだけ複雑そうな顔をされるので、光忠さんと呼んでいる彼に「今朝行った鍛刀が終わったみたいだよ」と報告を受けたのは、ちょうど鶴丸も鯰尾も出陣で本丸に居ない時だった。
毎日ご厚意で食事当番をしてくれている光忠さんと、今日明日の献立の話をしていると、鍛刀部屋までの距離が本当にあっという間に感じる。話し上手でもある彼との会話は心地よくて、ぽんぽん言葉が飛び交ってしまう。
「最近は洋食が多かったから、和食が食べたいなあ」
「ああ、確かに。西洋料理のリクエストが結構多いんだよね。特に鶴さんからなんかは」
「ふふ、そうそう。……んー、魚介類が食べたいな、……あ、ムニエルとか」
「……君、それ西洋料理だよ?」
「あれ?」
ぷすりと笑って、「分かった、作ってみるよ」と肩を揺らす光忠さんに、思わず顔を覆いたくなった。横文字に慣れ過ぎていると、たまにこうなるから恥ずかしい。
他愛ない会話を交わしつつ、たどり着いた鍛刀部屋へ入ると、小さな鍛刀職人さんがどうだ! と言わんばかりに両手を広げて、美しく輝く二振りの刀を見せてくれた。……あれ、二振り? 一振り分の資源しか使用しなかったような気がするけれど、気が付かないうちに消費していたのだろうか。
職人さんが、刀の顕現の邪魔にならないよう、すっと身を引いた。一歩後ろで光忠さんがこれは、と呟くから、思わず振り返ったわたしに、けれど「ああ、なんでもないよ。ごめんね。さ、顕現を」と首を振って背を軽く押される。
それに少しだけ不安を感じつつ、まあ、何かあったらちゃんと言ってくれるだろうと思い直して、二振りに手を翳した。……語りかけるのは、いつもと同じことだ。ただ、鶴丸から、神に助けを求めるような呼びかけは止めるようにと言われてしまっているので、それは考えないようにしている。いくら付喪神とはいえ、配下にするのだから低姿勢でいるのは考えものだ、とのことだ。手を翳し、指先から刀に霊力を注ぎ込むイメージを浮かべる。どうか応えてくださいと呼びかけながら。
……鶴丸の言うことは一理ある、けれど。とは言っても、わたしは、配下にしているというよりかは、力を借りて助けてもらっているという認識なわけで……。いや、今それを自分の中で議論しても仕方がない。今は──……。
「──やあ。源氏の重宝、髭切さ。こっちは弟の……えっとー、鬼丸だったかな?」
「それは兄者の名だろう! ……こほん、失礼した。俺の名前は膝丸だ。君が俺達を呼んだ主だな? 宜しく頼む」
「よろしくね。……それにしても……不思議な空間だねえ、此処は。様々な記憶が漂っているよ?」
……今は、二年前には顕現出来なかった、新しく刀剣男士として任命されたこの二振りに。鯰尾と鶴丸以外で、ついにわたしにとっての、新しいひと振り目として顕現したこの二人に、どう説明すればいいのかを考えなければ。
―――――――――
敵の本陣を目指して、時間遡行軍を倒しながら先へ先へ進む。大太刀が現れた時は、厄介なことになる前に真っ先に殲滅しに向かい、太刀が現れた時は足止めしつつ、味方の出方を伺った。この部隊で俺が心掛けるべき一番大事なことは、敵を倒しすぎないようにすることだ。多少面倒ではあるが、自由奔放に戦場を駆けてしまっても意味がないからな。
……今日は、俺にとっても鯰尾にとっても、久方ぶりの部隊での出陣だった。俺や鯰尾が隊員に居ると、練度が低い刀たちが誉を取りにくく、練度がうまいこと上がらないからと、暫く遠征にしか向かわせてもらえていなかったためだ。まあ、こればっかりは仕方がない。ならば俺と鯰尾の二人で戦場に行くことも提案したのだけれど、それは危険だから絶対に嫌だだめだと断られてしまった。……全く、本当にきみは心配性だなあ。
そして待ちに待った今日、後から顕現した刀たちの練度が追い付いて来たからと、やっと揃って出陣の許可が出たわけだ。とはいえ、やはり練度の差が零になったわけではない。俺も鯰尾も、張り切っているのは確かだが、一人で突っ走ったりしないよう、その辺は見極めているさ。
仲間の気配を感じ、押さえていた太刀を蹴り飛ばすと、横からすかさず一閃が飛んでくる。突き出した足に剣先が掠めそうになって、流石にひやりとした。いやいや、少しズレていたら、敵と一緒に俺の脚も消えるとこだったぞ!
「記憶にある姿に比べ、立ち回りが上手くなったなあ、鶴丸」
……三日月だった。刀を横に振り、ピッと血を掃う三日月に「おいおい、俺まで切る気だったのかい?」と肩を竦めてみせると、お前ならあのくらい避けれるだろうとくつくつ笑うものだから驚いた。お、お前、今のわざとだったのか!?
「鶴丸さーん! こっちも終わったよー!」
「おお? 順調だったなあ!」
「大きな負傷をしているものは……うむ、居ないようだな」
集まった面々を見渡し、大した被害を出ていない事を確認して、全員優秀だなと笑う。この辺りの敵は、もう余裕で倒せる練度にまで達しているようだ。各自装備している刀装もほとんど壊れていない。こいつは重畳。
念のため敵に生き残りがいないか周囲を見回していると、鯰尾が聞いてくれよ! と声を上げて、五虎退の背を押した。どうやら今回誉を多く取ったのは五虎退だったようだ。今日はすごい活躍だったんだ! と嬉しそうに笑う鯰尾の横で、骨喰も良く動けていた、と頷く。兄弟が仲睦まじく笑い合っているのは、いつ見ても良いもんだ。
恐縮だと俯く五虎退の前にしゃがんで、俺と同じ真っ白な髪を撫でてやると、不安そうな目に俺を映した。安心させるように、小さな戦士に微笑みかけ、伝えようと思っていたことを口にする。
「俺が大太刀を倒しに向かう時、敵の短刀が俺を狙わないよう、毎度毎度惹きつけてくれていただろう?」
「……っあ、えと、は、はい。一応……動きが早い短刀は、……鶴丸さんの邪魔をしちゃうと、思ったので……」
「ああ。おかげで、迷わず強敵に向かうことが出来た。あの咄嗟の判断力は、大したもんだったぜ!その誉は、自信を持って主に報告しよう!……な?」
「……! は、はいっ!」
ふわっと花が咲くように微笑んだ五虎退に、その場の空気がほっこりと緩んだ気がした。普段眉を下げてばかりいるやつの微笑んだ顔というのは、やはり心温まるものだ。……ふと、泣いてばかりだった主の表情が浮かんで、違う意味で表情を緩めると、察したんだろう鯰尾から、呆れを含んだ目を向けられた。……言いたいことは分からんでもないが、仕方がないだろ。このくらい許してくれ。
では帰還するかと、三日月が間延びした声で言うのと同時に、刀身を鞘に戻した。カチン、と硬い音が小さく響く。久々の実戦でそこそこ楽しかったし、皆の練度だけではなく、動きや状況把握能力も成長していた。何より、文句なしに良い成果だった。
主に良い知らせが出来るなあと、上々な心持ちで帰還した先で、……まさか、ついに初めて見る──新しい刀が顕現していようとは、思いもしなかったが。
――――――――――――
分かってはいた。分かってはいたんだ。いつかそういう日が来るってことくらい。俺達だけが、主の"一振り目"じゃなくなる日がきっと来るってことくらい。分かってはいたけれど。……やっぱり、いつまでもその位置に居たかったと思ってしまうのは、悪い事だろうか。許されない事だと思うか? 望みすぎだろうか。
いいや、あいつ等が嫌いだとか、鍛刀したことに腹を立ててるとか、そういうことじゃあないんだ。仲間が増えるのは素直に嬉しいものさ。鍛刀で珍しい刀が顕現されるのも、新しい刀が顕現されるのも、それだけ主が力をつけていて、それだけ主の呼び声に応えたいと思った刀が居たってことだろう?主の刀として、誇らしいことこの上ない。どれだけ仲間が増えたところで、俺達の間の何かが変わるわけでも、亀裂が入るわけでもない。……ただ。そう、ただ。俺はきっと、恐れているんだ。
「……情けなくて泣けてくるぜ、全く……」
「、どうしたの?」
「ん、あー……、いや。なんでもない。ひと段落ついたのかい?」
「ううん、もうちょっと」
「そうか?」
終わったら声かけてくれと一言添えて、再び主の書斎に置かれている、そふぁという名の長椅子に寝転がった。相変わらずこいつはふかふかで心地が良い。ま、此処で寝てしまうと、体の節々が痛くなるのが玉に傷だな。
新しくこの本丸に来た源氏の刀のうち、兄の方は、俺……鶴丸国永とも縁のある刀だ。向こうも覚えていたらしく、俺を見ては懐かしいねと目を細めていた。二人は、他の刀のように、顕現した瞬間ひと振り目の自分の記憶を辿る、という、この本丸では恒例になってしまっていた経験は、当然だが体験しているわけもなく。ただしその代わり、この本丸自体の記憶が、全体的に表面だけ、うっすらとだけ見えたらしい。
本丸に……特に鍛刀部屋に、刀達の昔の記憶が残っているのは感じる。けれど、それがどういうものなのかまでは分からない、と。何かを伝えようとしているのは分かる、けれど、全貌は伝わってこないのだと。兄の方曰く、「主を受け入れてくれるよう、過去の君達が導こうとしていたのかもしれないね」だそうだ。……もし本当にそうだとしたら、この場所は何とも幸多きことだ。
ちらちら覗き見た記憶だけでは理解しきれない部分は、その時近侍を務めていた光坊が説明してくれたようだ。あいつも、主から説明を頼むと命じられれば、お安い御用だと笑うだろうに。光忠さんに気を遣わせてしまったと落ち込んでいたあたりが彼女らしい。
しかし、兄の方……髭切は昔から変わらず、あの三日月よりものほほんとしている性格のせいか、一応は主にとって、数年ぶりの初対面の相手だというのに、彼女が気を許すのは早かったように思う。その弟である膝丸も同様にだ。しかも何を思ったんだか、主にお兄さんだとかお兄様だとか呼ばせて、「うんうん、妹が出来たみたいでなんだか楽しいね」だなんて笑っていやがる。主もなんだかんだで可笑しそうにくすくす笑っていた。どういうことだ。確かに驚きはしたが、俺は全然楽しくないぞ。
──待て、いや違う、そういうことが言いたいんじゃない。……だめだ。もう彼らのことを考えるのはよそう。別に嫌ってなどいないんだ。俺の気持ちの持ちようの問題で。……って、なんだそれは。女々しいにも程があるんじゃないか? 他の本丸の俺なら、こんなことでいちいち悩んだりしないだろうに。……するんだろうか? 分からん。全く本当に、きみの事となると、どうにも落ち着かない。
「そういえば、」
「! なんだっ?」
「え、……えっと、鶴って、その、髭切さんと同じところに居たこともあるんだよね?」
「……あ、っああ! そうだな! あれは……最初の主の……そう、霜月騒動、なんて呼ばれているやつだな!」
「……どうしたの……?」
話しかけられた内容が、考えないようにしようと決めたばかりの髭切の事だったから、自分でも分かるほどに、言葉に迷ってしまった。主が不審がっているのが見て取れる。これは、まずい。まずい。慌てて笑顔を作って「思い出話でも聞くかい?」と言葉を紡いだけれど、恐らく、顔が引き攣っていたと思う。
何か言わなければと考えを巡らせている間に、何か思案するように視線を彷徨わせていた主が、やがて静かに立ち上がって、深く長く、吐き捨てるようにため息をついた。……それが、疲れた時に出していたそれとあまりにも似ていたものだから、思わず、小さく肩が跳ねる。ああ、まずい、まずい。違う、待ってくれ。違うんだ。……何だ、何が違うというんだ?分からない。俺は何に焦っているんだ。分からない。ただ、漠然とした何か、嫌な予感に、背筋が凍る。
きみ、と声を出す前に、カタリと机の引き出しから、小さな箱を取り出して、彼女が言った。
「今の鶴からは、聞きたくないかな」
──ゾッとした。息が詰まる。心音が、気味が悪いほど全身に響く。
何を否定したいのか、何を引き止めたいのか分からないまま、違う、待ってくれと心が叫ぶ。喉がカラカラに乾いて、声が出なかった。血の気が引くとはこういうことなのかと、僅かに残る冷静な自分が苦笑している。その言葉に乗せた彼女の声の温度が思い出せなくて、余計に焦る。主の真意は分からないけれど、今の俺にとって、その一言が確かな拒絶に聞こえてしまったからだ。違う、違うんだ、ただ、……ただ?
彼女は、その箱を持ったまま、長椅子に座る俺の隣に腰掛けた。……心のどこかでは、そのまま書斎を出て行ってしまうのではないかとも思っていた、のだけれど。そうはならなかった。此処から離れようとしたわけでは、ないようだ。真っ青だよと眉を下げて頬に触れてくるその体温に、固まっていた全身の力が、解けるようにほっと抜ける。……いつもなら。いつもの自分だったら。こんなに動揺も混乱もしなかっただろうに。今は、先程まで頭をぐるぐる廻っていた、泥沼のような思考を溶かしてくれているような、主の手に縋りたい気分だった。
主が困ったように笑みを作り、小さく「無理に話さなくていいよ。……ごめんね」と呟いて、頬に触れていた手がそっと離れる。かと思うと、耳に小さな重みと共に違和感を感じた。満足そうに頷く主の手には、蓋が開いた箱がある。先程机から取り出していた箱だ。その中には、琥珀色の石が印象的な耳飾りが一つと、同じものがそこにも嵌め込んであったのだろう、窪みになっている空白の部分が一箇所。……ということは、今俺の耳にある違和感の正体は。
「この前、風邪引いた日に買ってたんだけど……渡しそびれてて」
「これ、は?」
「えっと、見たままだよ。耳飾り。鶴に、わたしからの贈り物」
「……贈り物」
「これで許して……という訳ではないんだけど。ごめんなさい、そんなに思いつめるとは思ってなくて。……鶴と生きたことのある刀だって聞いたから、その、わたし、……嬉しくて。話、聞いてみたかっただけなの。……鶴が話せると思った時に、聞かせてくれたら、それでいいから。」
「っは、……は? あ、いや、ま、待て待て! 顔を上げてくれないか、きみが謝る必要はないんだ! というかだな、何か勘違いしていないか!? そうではなくて、……」
恭しく頭を垂れる主に、身体の緊張が一気に解ける。と同時に、俺は主に何をさせているんだと大慌てで顔を上げさせて、大きくため息をついた。どうやら、俺が髭切を苦手に思っていると捉えてしまったらしい。あいつとの話をしたくないのに聞き出そうとしてしまった、だから詫びなければ、と。そういうことか。俺は別に、髭切と居た時代の話をしたくないわけじゃない。確かに俺にとっては、一番最初の強い思い出ではあるけれど、あいつ自身に悪い印象はないし、……あるのは、もっと冷たい温度の方だ。だからきみは何も悪くない。そもそもそれで悩んでいたわけじゃないのだから。主の姿勢を戻させたとき、耳に着けられた飾りが、ちり、と小さく鳴った。
──彼女の特別でありたいと思った。特別が欲しいと思った。どこの本丸のどんな刀だって、主に対して考えることだろう。本心だ。ただ、何も言わずとも俺がそれを堂々と思えるのは、表に出せるのは、本丸の皆が厚意でその場所を譲ってくれているからだ。孤独を生き抜き、二度目の主を迎えた俺達ならば何も言うまいと、目を瞑って許してくれているからだ。
俺の心に渦巻いていたのは、そう。ただ、きみがいつか。俺達のように過去を知っているわけではない、けれどきみを酷く気に入った新たな刀に、きみが、俺の手の届かないところで攫われてしまうんじゃないかという、一抹の不安。そしてその、ありもしない疑いの視線を、これから増える自分の仲間に向けてしまうんじゃないかという、自分自身への恐れだ。……そしてその時、きみの中から俺という存在が薄れてしまうことが、とても恐ろしく思える。
ところが主は、それを聞くと不思議そうにきょとんと首を傾げ、また困ったように、しかし安心したように微笑んで「なんだ、そんなこと?」なんて言うもんだから、これはもう、目を丸くしてしまった。
「そ、んなことって、俺は真剣にだな……!」
「此処の記憶を持っていない刀が増えた時、もしわたしに何かあったらって、心配してくれたんだよね」
「ぐ、う、んん……? そう、なるの、か?」
……いや、違うだろう。もっと醜くて、主が言う程綺麗なものではない気がするけれど。きみがそう思うなら、そう受け取っておいてくれた方が良いのかもしれないと、ぎこちなくなってしまったが頷くと、またふすりと笑った。なんなんだ。俺はそんなに可笑しいことを言ったか?
「もし、そうなったら、わたしがいつどこへ連れて行かれたとしても、鶴が絶対……助けに来てくれるでしょう?」
「き、きみなあ!そりゃあ、勿論、そうだが!」
「ほら、心配ないよ。それに。……"わたしの神様"は、鶴丸だもの」
「? どういう、」
彼女が、ふっと目を細める。何故か、一瞬、呼吸が止まる。聞いてはいけないような、しかし聞かなければいけないような、複雑な感情に心臓を掴まれるような、感覚。それを紡ぐ彼女のはにかんだ表情に、目を奪われた。
「だから、ね? もし、連れて行かれるなら。
……その時は、……あなたに攫ってほしい」
「────」
言葉が、出なかった。正気か?と問うことも、出来なかった。彼女が冗談でそんなことを言うとは思えない。箱の中に残っていた耳飾りを、俺の反対の耳に付けて、その時は名前を貰ってね、と柔らかく言葉を紡ぐ彼女が、照れくさそうにへらりと笑った。
ああ、ああ、なんてこった。考えていたこと全て、どうでもよくなってしまうくらいの、とんでもない殺し文句だ。まさか、こんな驚きをもたらされるとは、夢にも思わないじゃないか。
何も言えないまま思わず項垂れて、顔を隠すように片手で覆っていたら、「その時まで、一緒にたくさんの景色を見よう」とまたふわりと笑うものだから、少しだけ笑ってしまう。視界の隅に桜の花弁が見える。やめてくれ、俺の心が見え見えじゃあないか。心底、参った。この本丸に帰ってきた当時よりもずっと前向きになってくれているのも、曇りのない信頼を置いてくれているのも、これ以上なく嬉しいのは、嘘偽りない気持ちなのだが。よく俺のことをずるいずるいと言うが、卑怯なのはきみの方なんじゃないのか? いやいや全く、本当に、とんでもない。勘弁してくれ。
俺の耳元で、再びちりり、と耳飾りが鳴った。それが、悩むこと自体、最初から意味なんてないよと主が笑っているようにも聞こえて。
ならば、ならば。それまで。きみの名前は大切に、鍵をかけて守っておいてくれと返すのが、今言える精一杯だった。それだけで嬉しそうにはにかむきみを、……その時まで、どうか誰にも奪われなければいいと願ってしまうのは、やはり仕方のないことだと思うのだ。
18.11.22