それは過去であり



 ──ああ、ああ、なんてひどい。
 なんてひどい事をしたのだろう。

 あなたは何も酷くない、何も悪くないと、誰ひとりとして私の行動を、決意を責めなかった。それでいいのだと。それが貴方のためになるなら、貴方の物である自分達にそれを否定する権利はないのだと。
 けれど、私自身はきっとこの先永遠に、この罪に縛られ続けるのだろう。自分自身を縛り付け続けるのだろう。忘れるなんてこと、出来やしない。
 罪の意識に囚われたまま、白と黒の神様に見送られながら、意識が、体が光に包まれていく。次に目を開けた時、待っているのは私がずっと待ち望んでいた現世だ。私が"選んだ"世界だ。それでも何故か……、何故か。帰ってこれた嬉しさよりも、行き場のない、どうしようもない虚しさに、心の大半を埋め尽くしてしまうのだった。




――――――


「……大将、大将」
「ん……、う……?」
「お、起きたな」
 ふ、と浅いところから意識が浮上する。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。今はいったい何時だろう、わたしは今まで何をしていたのだったっけ。
 寝起き特有の重たい体を起こそうと身じろぎした時、視線を少し下げたところにある深紅色に一瞬思考が止まった。すやすやと寝息を立てる短刀の彼は、ぴったりとわたしのお腹に顔を埋め、腰に腕を巻き付けて眠っている。顔を埋めているのが胸ではないところが彼の愛いところだなあ、とその頭を軽く撫でてやると、頭上から「いやそうじゃねぇだろ」と呆れたような声が降りかかってきた。……そうだった、わたしは彼の声で目が覚めたのだった。欠伸を噛み殺して、改めて辺りを見渡す。
 ここは書斎だ。執務室兼、わたしの自室になっている個室。個室と言っても、十畳はある大部屋だけれど。書斎机の他に、柔らかめのソファ、出陣中の戦況を映し出す電子モニターが置いてあり、小振りの本棚には戦術の本が数冊仕舞われている。書斎机の上には、使い慣れた湯呑。ああ、片づけなくちゃと思っていたのに忘れてしまっていた。
 わたしを起こしてくれた短刀、薬研くんに目を向けると、ようやっと目が覚めたようで何よりだ、と苦笑した。
「……薬研くん、おはよう。……もうあさ?」
「おいおい……、寝惚けるのも大概にしてくれよ? 逆だぜ大将。もう夜、だ」
「よる……、夜?」
「おう」
 あれ、と思う。皆と夕餉を済ませた後、わたしは確かこの書斎で、政府への定期連絡報告書を作っていたはずだ。……ああ、でも、お腹が膨れた満足感と、温かい室温のおかげか、途中でうとうとしてしまって……今日の近侍だった深紅の彼──比較的最近我が本丸に顕現してくれた、短刀の信濃くんに、眠いの? と尋ねられてからの記憶が曖昧だ。そのまま眠ってしまったのだろうか。……いや、十中八九そうなのだろう。信濃くんまでこれ幸いと懐に潜り込んできたものだから、夜の肌寒さに目覚めることなく、そのままぬくぬくと……といったところだろうか。
 消灯時間も近いのに信濃が戻ってこないから様子を見に来たのだと、起こしてくれた薬研くんが肩をすくめる。夜の戦場へ向かわない日は、不健康な生活にならないよう、決まった時間に部屋に戻って、睡眠を十分取ることを本丸の規則にしている。まあ、規則と言っても厳しいものではなく、頻繁に破っている場合は注意し合う程度のものだけれど。
 起こしてくれた礼を言いつつ、信濃くんの眠りを妨げないよう、わたしの腰に回っていた彼の腕をそっと下ろしてから、上半身を両手で押し上げて起き上がるわたしに対して、彼の傍にしゃがんだ薬研くんは、容赦なく紅髪をベシンと叩いた。……気遣う必要なんざないとでも言いたげだ。
「ぁいっ……たぁ……? えぇ……?」
「えぇ? じゃない。ったく……寝るなら自分の部屋で寝ろ。ほら、戻るぞ」
 状況を把握した信濃くんが、やだやだ大将と寝る! と駄々を捏ねはじめたけれど、薬研くんは大きな溜息をひとつ落としたと思うと、「も・ど・る・ぞ!」と静かに怒りながら、そんな駄々っ子の襟首をガシリと掴んで、ずるずると引き摺りながら部屋を出ていく。二振りとも身長はそんなに変わらないはずなのに、どこか信濃くんよりも大きく見える背中に内心拍手を送りたくなってしまった。さすが、彼らの兄貴分は伊達じゃない。
「んじゃ、邪魔したな。ゆっくり休んでくれよ、大将。ちゃんと布団は敷いてな」
「うん、おやすみ」
 ひらひら後ろ手を振って、唸る信濃くんを引き連れて部屋へ向かう薬研くんが、しかしふと「そういえば」と思い出したように振り返った。答える代わりに、どうしたのかと首を傾げてみせる。その間も信濃くんの首根っこを掴んでいる手を緩めないあたり、逃がさないぞという意思が垣間見えて、思わず頬が緩みそうになってしまった。そして「明日の近侍は誰にするんだ?」と問われて初めて、信濃くんと眠りに落ちてしまう前に、その事でも悩んでいたことを思い出した。
 わたしたちの本丸では、この本丸に、というよりは、わたしという今生での持ち主と、自分が得た人の体に慣れてもらうため、新しく顕現した刀を優先的に近侍にして、本丸の案内や説明をしているのだけれど。最近は政府から顕現を許可されている刀は一通り揃い、皆の生活も落ち着いている為、近侍にする刀の順番で悩んでしまいがちだった。誰かひと振りだけを近侍にし続けて周囲の不満を買いたくないし、そのせいで闘気が下がってしまってはいけない。薬研くんと信濃くんは、それを聞くと流石に心配しすぎだと笑ったけれど。
 演練先でご挨拶をした他の審神者さんにそれとなく聞いてみれば、大抵の人からは「迷った時は初期刀を近侍に命じている」と答えが返ってくる。自分が審神者になった当初から支えてくれている彼を近侍にするのは、とても自然な気がするし、誰よりも頼りになるからだと。真理だと思うし、初期刀をいつまでも大切にしているその気持ちが、とても素敵だと思う。けれど──……。

「あー……、大将、もし誰にするのか決めてないんなら、鯰尾を選んでやってくれねぇか?」
「っえ?」
「いやな、最近命じてくれなくて寂しい〜って、よくぼやいてるもんでな……」
「あ! 明日もまた俺でも良いんだよ?」
「お前は今日まで頻繁に近侍を任されてたじゃねえか。そろそろ交代の時期だろ?」
「だって〜……」
「あはは、気持ちは嬉しいよ。……ええと、鯰尾が言ってたのね? 直接言ってくれればいいのに……」
「はは、大将に頼み込んで近侍にしてもらうんじゃなく、大将から、自分を選んでほしいんだろうよ。そりゃもちろん、俺もな」
 だから、俺が大将にこの事を教えたことは鯰尾兄には秘密にしといてくれよ? と目を細めて微笑む薬研くんにそっと微笑み返して、頷く。純粋に、嬉しい言葉だった。明日は寂しがっているらしい鯰尾に近侍をお願いして、薬研くんも、近いうちに近侍をお願いしよう。そう胸に誓いながら、最後にもう一度おやすみの言葉を交わして、今度こそ兄弟同室の大部屋に戻っていく彼らと別れる。見えなくなるまで見送ろうと、最後まで部屋に戻らずに二振りの後ろ姿を見守っていると、いつの間にか自分の足で立っていた信濃くんが、何度も振り返りながら手を振ってくれるものだから、愛らしくてくすくすと笑みが溢れてしまう。そのうち、いい加減にしろと薬研くんから拳骨を食らっていた。……痛そうだ。とはいえ、仲睦まじいことは良いことである。
 やがて二振りが角を曲がったところでわたしも書斎に戻り、思わず浮かんだ笑みをそのままに、襖を閉めた。


 机の上に散らばっている、戦術の参考書類を纏めてクリップで閉じておき、パソコンの電源を切る。報告書の作成が手書きのものだけではなく、データの打ち込み型でも対応してくれるのは本当に助かっていた。審神者に就く前、現世では職業柄、そこそこパソコンに強かった方だから、毎日のこういう事務仕事に躓くことはほとんどない。デジタル万歳である。最近は、政府の人の一部から……本丸から送られてきた報告書を確認、分析、纏める、所謂事務仕事担当の人たちから、報告書の提出が早くて有り難いと個人的に連絡が来たりもしていた。光栄なことだ。
 他の審神者さんの中には、寧ろ手書きの方が早いとパソコンを使用しない人もいるそうなのだが、そうなると政府に届くまで若干の遅れが発生する。手書きの場合、こんのすけに書類を届けさせることになるため、足で運ぶのと電波が運ぶのとでは、当然だが届くまでの時間が全く違うのだと、報告書の受付担当の人に愚痴られたことまであった。紙媒体の書類もありはするのだけれど、電子のものよりも数は少ない。印刷後記入、提出期限ギリギリにこんのすけに発送を頼んだとしても、政府に届いたときには期限が数時間過ぎている、なんてこともあるのだとか。……いつの時代も、事務職さんは同じような鬱憤を溜めているみたいだ。
 ──それにしても、いつの間に政府の人とこんなに親密に会話できるようになったのかと、電子メールで話しかけられた当時はとても驚いたものだ。最初は堅苦しく話の通じない、硬派な人間しかいなかった政府の内部が、徐々に徐々に……本当に少しずつではあるけれど、わたしの知らないところで変わってきているという話は、本当だったみたいだと、安堵で肩を撫で下ろした日は記憶に新しい。……あの電子メールをくれた人だけが特殊なのかもしれないが。それでも、確かに数年前とは違うと、変化を感じていた。
 ……そう、わたしの、知らないところで。わたしの、知らない間に。あの政府の内情は、変わっていた。わたしが知っているのは、当時の、数年前の有様だけだったものだから、未だに違和感が拭えないままだった。当時の政府は、とてもひどい、……本当に、とても酷い、ものだった。
 だから、だからわたしは、そんな上役が恐ろしくて、恐ろしくて、悍ましくて──

 は、と気がつくと、指が、手が、体が、震えて仕方がなかった。情けない顔のわたしを映す、電源の堕ちた真っ黒な四角い液晶から逃げるように視線を逸らし、冷たいソファの上に座り込んだ。
 足のつま先から太ももへ、お腹から胸へ、腕へ首へ、ざわりざわりと悪寒が走っていく。やがて腹の中で虫が暴れているかの様に、ちくちくとした嫌な気持ち悪さが生まれ、だけれど自分ではこの悪寒をどうにも出来なくて。此処にナイフでもあれば、自分の腹を掻っ捌いで内臓を抉り出したのにだなんて考える。そんなことできやしないくせにと、脳裏の底でもう一人の冷静な自分がわたしを嘲笑している。
 いい加減にしろと、癖になっているマイナス思考を治せないこの頭をかち割りたい気分だった。
 現政府の比較対象として過去を思い返すたび、同時に思い返される出来事があった。それは、解決……とは言えないかもしれないが、乗り越え、消化し終わった出来事であるのに。結局、当時のことはわたしにとってのトラウマとなり、自分への怒りと悲しみと、"皆"への罪悪感が、時折こうして波になって襲い掛かかり、溺れてしまいそうになるのだ。


「主」
「っひ、」
 再びドロドロの真っ黒な感情に沈む一方だった、そんな時。自分を呼ぶ声と共に、ふんわりと何かに包み込まれ、驚いて目を見開いた視界が、真っ白に染まる。俯いて前かがみになっていた体は、前から起こすように抱きすくめられた重みで勢いのまま後ろへ傾くも、背中に回った腕でしっかり支えられ、倒れることはなかった。その腕が少しだけ上に動いて、わたしの肩を指先で軽く とん、とん、とん。と一定のリズムであやす様に、撫でるように叩いてくれる。
 小さな振動に促されるまま、深く息を吸って、吐いて。冷たい波から持ち上げて掬ってくれた抱擁に、自分でも呆れるほど安心してしまった。同じように、少しだけ呆れたような……寂しそうな声で、きみも懲りないな、と彼がほっと息を吐く。
「……それに。きみに怯えられるのは、そこそこ堪える」
「あ、っ……ご、めん……」
「……落ち着いたかい?」
「ん……うん……、つる?」
「ああそうさ。俺以外の何に見える?」
 何にも見えない、と答える代わりに、彼の背に手を伸ばし、真っ白な羽織ごと抱きしめた。……抱きついた、と言った方が正しいかもしれない。「おっ?」なんて驚いたような声を出しながらも、大胆だなぁとくすくす笑みをこぼし、しかし変わらず彼はわたしを包み込んでくれている。──ああ、甘やかされている。自覚はあるけれど、それが心地よくて、やっぱり、どうしようもなかった。
 主、と彼が、……鶴丸が、わたしを呼んだ。そっと体と腕を離し、返事の代わりに鶴丸と視線を合わせる。わたしが映り込む美しい金色の瞳は、どこまでもどこまでも、優しさと慈愛に満ちていた。そこに、少しの憂いの色を加えて、彼は言う。
「俺達の主は分かりやすいからなあ……。またあの日の事を思い出していたんだろう。これで何回目だい?」
 こつ、と指先で額を小突かれる。多分、まだ二桁はいっていない数だったと思う。素直に答えると、そんなもの数えるんじゃないともう一度小突かれてしまった。
「そういう時は、俺達どちらかを呼べといつも言っているってのに。きみの霊力の揺れを感じて、もしやと思って来てみれば、案の定じゃあないか。……どうしようもない時は、素直に助けを呼ぶもんだぜ。言葉にしてくれなきゃ、伝わらないことが多い……なんてこと、きみならとっくに知っているだろう。」
「……」
「……それにな、きみ。言霊ってやつは、本当にあるんだぜ」
 聞いてるかい? と眉を下げて顔を覗き込んできた彼に、ゆっくり頷く。聞いている。──分かっている。彼が何を言いたいのか。わたしに、何を言ってほしいのか、何と言ってほしいのか。分かった上で、わたしは今まで、"それ"を言えないでいた。求めすぎなのではないかと、思ってしまっていたからだ。ああ、けれどそれすらも、彼らにとっては不本意な悩みなのかもしれない。……いい加減、本当に、もう、振り切らなければ。いい加減、前を向かなければ。
 わたしのドロドロに染まっていく感情を、鶴丸はいつも素早く察知して、様子を見に来てくれている。ならば、この真っ黒な感情は、少なからず悪いものとして、何らかの影響で彼へと流れてしまっているのかもしれない。それこそ、鶴丸の言っていた、可視化出来ない「霊力」という不可思議な力で。
 いつまでもいつまでも、"わたしの神様"に、甘えてばかりはいられない。心の中で自分をキツく
叱りつけ、頭にかかる黒い霧を思い切り掻き分ける。それを感じ取ったのだろうか、ゆるりと目を細めた彼に言葉を伝えるために、す、と息を吸った。
「鶴、」
「ん?」
「ごめんなさい。いつも、ありがとう。……それから、」
「……それから?」
「もし……、また、同じように迷ってしまいそうになったら、……その。……助けて、くれ、ると、嬉しい……」
「! ……ああ、お安い御用さ! 任せておけ!」
 からりと嬉しそうに微笑む彼に、自然と浮かぶ微笑みで返した。
 頼ってくれと彼らは言う。存分に使ってくれと彼らは言う。必要としてくれと彼らは言う。沢山の優しさと強さと愛情を、彼らはくれる。本当にわたしが受け取って良いものか、困ってしまうほど。
 鶴丸は、笑みを少しだけ沈めて、わたしの肩に流れる髪を一房指先で持ち、するりと撫でた。
「なぁきみ、言っただろう? 俺達はもうとっくに許してるさ。いや、そもそも、俺も皆も、最初から怒っちゃいなかった」
「……うん」
「だから……そう何度も、過去の自分を無理矢理、傷つけるものじゃないぜ」
「……努力、する」
「ああ、そうしてくれ」
 ふわりと自分が着ていた羽織をわたしの肩にかけ、後ろに垂れているフードを頭に被せてきた。そのまま引き寄せられて、ぎゅう、と抱きしめられる。まるで、全身が彼に包まれているかのような感覚に、湧き上がってくる感情のまま、ひとつふたつ、涙がこぼれた。頬に当たる彼の胸から、とくりとくりと命の音が伝わってくる。
 刀の付喪神とはいえ、今こうしてわたしを包んでくれているのは、無機質なただの道具なんかじゃない。心を持った神様であり、……人なのだ。生きているのだ。そう、生きている。生きて、此処に存在している。だからこそ。
「わたし、っもっと、頑張るから……っ!」
「……ああ、期待してるぜ。けど、頑張りすぎも良くない。ほどほどで良いんだぜ、ほどほどでな」
 だからこそ、もっと、過去を塗り替えれるくらいに頑張らなくてはと、思う。"わたしが消してしまった、多くの命"のためにも。

 そう、わたしは、こうして寄り添ってくれる鶴丸と、近侍になりたいと言ってくれたという、鯰尾の、ふた振り。あなたたちだけを"解かす"ことが出来ないまま、二年間も此処から逃げてしまった……罪深い審神者なのだから。

18.10.08
21.01.24
22.02.19