それは、黒い神様の願いだった


 まだ人数も少なくて、頼りない本丸かもしれない。それでも、これからもっともっと頑張るから、どうか応えてください。

 俺が聞いたのは、そんな切実な言葉だったと思う。良いですよ、それでも。記憶が焼け落ちてしまっている俺でいいなら。これからあなたが、この空白の部分に思い出を詰め込んでくれるのなら。だから、だから。そんな泣きそうな声で、祈らないで。
 まるでその声に、手を差し伸べられているようだった。自分の手を、その暖かくも切ない声に、応えるつもりで重ねてみる。
 途端、ぶわりと声の持ち主の霊力が、身体を包んで。"自分"が身体を得たのが、分かった。刀には無かった「目」を、開く。胸に手を当てて座り込んでいる女性が、目を見開いて俺を見ていた。女性の……主になる人の、片方の手が。本当に俺に差し出されている。俺は、そこに自分の手を重ねた状態で、立っていた。ーーああ、なんだ、良かった、泣いてはいなかったんですね。……それが、一番最初に主を見て思ったことだった。
 いろいろ考えるよりも先に、重なっている手を両手でぎゅうっと握って、笑顔を向けた。
「俺、鯰尾藤四郎!」
 本当に泣いてはいなくてよかったと思った。それと同じくらい、あんな声で付喪神を呼び出す彼女を、俺がたくさん笑わせてあげるんだと……強く思ったのを、覚えている。俺の、最初の記憶だ。

 ある時は些細な遊びに誘って。ある時はお八つを少しだけこっそり貰って、執務に慎む主に持って行ったり。怒られたけど。ある時はその執務をなんとか覚えながら手伝ったり。ある時は主が作るご飯を、つまみ食いに忍び込んだり。怒られたけど。ある時は俺が誉を取り続けたり。
 顕現してから、主の笑顔がほしくて、寄り添いたくて、ずっと引っ付きまわっていた。実際、主は沢山笑ってくれていたと思う。しかもそれは、前よりずっと笑顔が増えたと微笑んでいた、初期刀である彼からのお墨付きだ。嬉しくて、誇らしかった。
 ……その分、心配にもなった。主は、自分が力不足だと思い悩んでいるようだったから。そんなことはないと俺は思うのだけど、主がそう思う原因は考えずとも明らかだった。この本丸に、その時はまだ太刀や大太刀、薙刀など、大きめの刀が顕現していなかったのだ。
 ……早く来てくれればいいのに。少しだけ、顕現してくれない太刀や大太刀に、文句を言いたくもなった。けれど、それと同時に、どうして来れないのかもなんとなく分かってしまうから、言葉にならずに胸の中で消えていく。
 ーー来ていない刀種の彼らにも、声は届いているんだろう。届いているはずなのだ。ただ、それに手を伸ばそうとする前に、声が届きやすい他の短刀や脇差、打刀が応えてしまうから、太刀以上の刀が手を伸ばす前に、主の声が消えてしまうだけで。だって、だって。俺の時も、そうだった。
 俺が手を伸ばそうとするすぐ後ろで、主の声に応えようとする付喪神の気配をいくつも感じていたのだ。でも、そいつらが手を伸ばすより、俺が手を伸ばす方がずっと早かった。それだけのことだ。……だから、俺は主に大丈夫ですよ、と笑顔を向けることしかできない。絶対いつか来ますから、と。俺達のこの感覚を、主に言葉で伝えるのは……とても、とても難しいことだったし、言ってもいいものかも分からなかったから。
 書斎で自分の戦績を眺めて、深い溜息を吐く主に、また明日頑張ってみましょう! と笑いかける。大丈夫、なんとかなる。いつか、他の付喪神に負けずに、手を伸ばしてくれる大きな刀が現れるはずだ。主が頷いて、肩の力が抜けたようにふわりと微笑む。
 ……大きい刀が来たら、顕現してくれなかった間、この笑顔をずっと俺がさせていたんだって自慢してやろうと、優越感に浸る心のままに、少しだけそう思った。

 ――その次の日のことだ。俺は初めて、重傷を負ってしまった。
 重傷と言っても、折れそうな程ではない。中傷のまま無理に動いたせいで、傷が悪化してギリギリ重傷になってしまった、くらいの負い方だ。でも主は、……主は。
 へらりと笑って帰還した俺を見て、倒れてしまうんじゃないかと思うくらい、顔を真っ青にしていて。手入れをしてくれている間、ずっとぼたぼた涙を流していた。主のせいじゃないのに。ヘマをした、俺自身のせいなのに。
 ……平気なのにな。手入れさえしてくれれば、すぐに治るんだから。俺が何度大丈夫だって言っても、主の表情は明るくならなかった。薬研も、敵さんが強かったんだと、隊長だった山姥切さんも、俺達の判断不足でもあったと、主を慰めようとしているのに。いつもなら申し訳なさそうにしつつも笑ってくれる主は、その日ばかりはずっと表情が曇ったままだった。……すごく、歯痒い、思いだった。
 主は俺達にごめんねと謝るけれど、俺だって、謝りたかったんだ。主を泣かせないくらい強くなれなくて、ごめんね、って。

 俺の手入れが終わった後、完全に痛みが引くまではここで休んでいるようにと言い残して、山姥切さんを引き連れ、主が部屋を出て行った。……なんとなく、鍛刀部屋に行ったんだろうなと察する。
 薬研も同じように思ったようで、早く来るといいんだがなとため息をついた。太刀以上の刀種のことだろう。そうだねと応えようとして……、やめる。何故突然そう思ったのかは分からない。分からないけれど、どうしてか、どうしてか、なんとかなると、今ならきっと来ると、不思議な確信があったからだ。
 だって、主が俺たちの為にあんなに苦しんでいるんだ。悲しんでいるんだ。今、その主に手を伸ばさない理由があるんだろうか。……俺は、無いと思う。
 多分、来ると思うよ。そう呟いたら、薬研が驚いたように目を丸くして、俺も今、そう思ってたとにかり、笑った。

 ――二年後には相棒と呼べる位置に就くことになる、鶴丸さんが顕現したのは、その時だ。

 今まで感じたことのない強い霊力が湧き上がるのを感知して、俺と薬研は顔を見合わせ、待機命令も忘れて急いで鍛刀部屋に走った。「予想的中?」「かもな!」なんて軽く笑って言い合いながら。
 そこにいたのは、どういうわけか可笑しそうに笑っている真っ白な……太刀、である付喪神と、目を白黒させている主。そして俺達を振り返り、一言だけ、……来たぞ。と僅かに口角を上げる山姥切さんだった。
 薬研が隣で、鶴丸国永か、と喜色を浮かべた声で呟いた。知り合いみたいだ。
 真っ白な、この本丸初めての太刀……鶴丸国永が俺達に気づいて、自己紹介をしながら、ぱっと笑顔を向けてくる。……良かった、堅苦しい刀が来てしまったらどうしようかと、実はちょっとだけ思っていたんだ。この刀となら仲良くなれそうだなと、頭の隅で思う。待ちに待った刀種なのだ、どうせなら沢山話してみたいし、仲良くしたい。
 湧き上がる嬉しさと、またひとつ先輩になる誇らしさで胸が躍ると同時に、やっぱり、少しだけ残念だな、とも思う。
 主にとっても、長いこと待ち焦がれていた刀種だ。彼の顕現のおかげで、俺がずっと隣で寄り添える必要が、今後無くなってくるかもしれない。それがちょっとだけ惜しいかな、と。
 でも、主が鶴丸さんから俺に意識を向けた途端、そんな考えがどこかへ吹っ飛んでしまった。あっ、まずい。休んでろって言われていたんだった。大慌てで駆け寄ってくる主に、怒られる! なんて言い訳しよう! と思考をぐるぐる回転させていたのだけれど、主はそんな焦りに反して、怒りも叱りもしなかった。
 俺の両手を取って、ただ一言。

「私、これからも頑張るから!」

 これから。……これからも? 疑問符を浮かべている俺に気づいたのだろう主が、はっと少しだけ顔を赤らめる。勢いだけで出てしまった言葉だったらしい。
「だから、鯰尾が、皆が怪我しなくなるくらい、もっと頑張るから。また一緒に、……鯰尾も一緒に、頑張ってくれる……?」
 悲し気に眉を下げて、そう言った。答えを待つ主の瞳が、不安そうに揺れている。……断られると、思っているんだろうか。もしかして、もしかして。力不足で居たら、嫌われるとか、思ってたりするんだろうか。
 そうだとしたら、すごく、すごく。主は馬鹿だなあと、笑ってしまった。そして、俺も馬鹿だな、とも。
 ーー隣で寄り添う必要が無くなる? 馬鹿だなあ。俺は単に、主の為だけにそこに居たんじゃないでしょう。俺が、主の笑った顔が見たいから。俺自身の為に、そこに居たんだ。必要ないとか、そういうことじゃない。俺が傍に居たいから、そうあろうとしたんだ。
「もちろん! 鶴丸さんに、そう簡単に負けてなんてやりませんから!」
 にんまりと笑って、顕現したばかりの真っ白な付喪神を見ると、彼は目をぱちぱちと瞬かせた後、来て早々宿敵宣言されるとは、驚いたな! と大らかに笑った。……うん、良い人だ。来たのがこの刀で良かったなと、改めて思った。

 そしてこれは、今後、何度も実感することになる。




「へへ〜ん、今日は俺の勝ち!」
 ひくりと頬を引き攣らせたあと、悔しそうに見上げてくる鶴丸さんに手を貸して起き上がらせながら、これで俺が一勝多くなったねとにやり、笑ってみせる。鶴丸さんも口角を上げて不敵に笑みを作り、すぐ巻き返すさと返してきた。ふふん、それはどうかなあ。
 確か、これで三百九十六勝だったはずだ。部屋に戻ったら記録を残してある手帳を確認しよう。俺と鶴丸さんは、主が不在の時はもちろん、帰還して、刀の数が増えた今でも毎日、決まった時間に手合わせをするようにしている。顕現した皆の練度が俺達に追い付くまで待つだけでは、身体が鈍ってしまうから。勝った方は、夕餉のおかずを一種類渡す約束をしているから、今日は俺が貰う番だ。やったね。
 用意しておいた水筒で軽く水分補給をして、大きめの手ぬぐいを二つ手に取る。一つを鶴丸さんに渡そうとしたのだけれど、彼は扉に寄り掛かりながら外を眺めて、眩しそうに目を細めていた。今日ってそんなに日差しが強かったかな、と、鶴丸さんと同じように外を見てみると。……なるほど。主が、庭で短刀たちと蹴鞠をしているようだった。
 俺に気づいた鶴丸さんに手ぬぐいを渡しながら、並んで主を眺める。蹴鞠なんて、主にとっては馴染みのない遊びだろう。覚束ない動きで何とか蹴り上げる鞠を、しかし短刀たちは事もなさげに繋いでいた。
 暫くなんとか鞠が落ちずに繋がっていたのだけれど、力加減を誤ったらしい今剣が蹴った鞠が、一際大きく上に浮かび上がる。落下位置にいるのは、主だった。落ちてくる鞠を見上げながらよろよろ動いていた主だったけれど、やっぱりまだ全然慣れていないらしい。鞠は主の足元ではなく、額にボン、と直撃して。「あ」無意識に、声が漏れる。隣で、ぶふっと吹き出す音が聞こえた。
 勢いのまま尻餅をついた主に、短刀達が慌てて駆け寄って、しかし恥ずかしそうにころころ笑うから、皆も釣られて楽しそうに笑い声を響かせていた。……確かに、眩しいなと、思う。腕に掛けていた真っ白な上着をふわりと羽織って、代わりに手ぬぐいを腕にかけた鶴丸さんが、さて、と主たちから目を離した。
「今日の仕事でも確認しに行くかな」
「……鶴丸さん」
「ん、なんだい?」
 もう一度蹴鞠を始めた主たちを見ながら、ぽつり、言った。
「――鶴丸さんに、そう簡単に負けてなんてやらないから」
「……!」
 空気に溶けそうな白が、目を丸くする。そしてゆるりと表情を崩して、「改めて宣戦布告されるとは、驚いたな」と笑った。戦闘中によく見せる、不敵な笑みだった。嬉しくなって、俺も、笑顔を向けた。

 ……鶴丸さんは、この言葉の意味を、分かっているんだろうか。多分、分かってないんだろうなと、思う。
 俺は確かに、鶴丸さんには負けたくなかった。でもそれは、主の隣にそっと寄り添う刀として。主の、一番の脇差として。それは彼の想う“特別”とは、また違う意味で、負けたくなかったのだ。
 初めて挑発したあの日から、俺と鶴丸さんは、いろんな場面でよく競ってきたように思う。今のように手合わせすることでも、近侍につくことも、主の傍に居ようとするその心も。
 泣きそうな声で俺を呼んだ主の、すぐ傍で笑顔が見たかった。笑顔にさせたかった。笑っている主を一番近くで見る為に、そこにいたかった。鶴丸さんは、それでも倒れそうになる主の背を、肩を、支えてくれる刀だった。俺には力不足で出来ていなかった穴を、埋めてくれる刀だった。
 主は無自覚だろうけれど時々、綿あめのように柔らかな、それでいてすぐに溶けて消えてしまいそうな表情で、鶴丸さんを見ることがある。……俺は、その表情も、とても好きだった。二人が楽しそうにしているところを、二人が幸せそうにしているところを、一歩前で、時には一歩後ろで見るのが、好きだった。ずっと見ていたかった。二人が浮かべるそれは、一番傍で見なくても満足してしまうくらい暖かなものだったから、そういう時は主の傍に居なくても……ちょっと離れていてもいいかなと、思えるくらいに。なのに、主も鶴丸さんも、その笑顔を、幸せを、真っ先に俺に向けてくれる。それが、何よりの幸福でもあった。

 ――だからこそ、願うのだ。心から、心から。
 もしも、もしも主に、ずっと……それこそ永遠に、隣に居てくれる刀が居るとしたら。それは誰でもない、鶴丸さんであってほしいと。願うからこそ、いつまでも鶴丸さんには、俺を好敵手だと思っていてほしいと。だからこの想いを、ひねくれた言葉にする。俺にだけは負けないと、思っていてほしいから。強く胸に秘めていてほしい。そうすれば、きっといつまでも、鶴丸さんは俺より強くあろうとしてくれる。
 彼と同じくらい強い俺が、鶴丸さんから主を奪えないんだから、他のどんな刀にだって、主を奪えるはずないだろ?

 それは、二人の幸せを願う、この本丸一の古株である鯰尾藤四郎のちょっとしたお節介であり。俺がいつまでも、大切な、大好きな二人の心の中に居るための、ちょっとした、我儘な挑発の言葉なんだ。



18.12.10