それは、あまやかな気遣いだった

 コツコツ、と机を叩く音に、ふと目線を上げる。主が愛用している書斎机で、さらさらと紙の上を滑っていた筆はいつの間にか止まっており、紙を抑えていたはずの左手指でコツ、コツコツと机を叩いていた。眉をぐっと顰め、小さく唸る彼女は、どうやら報告書の作成に煮詰まっているらしい。
 近侍が手伝う分として、自分に当てられた書類は既に終わりかけている。筆を持ち直し、最後の一文をさらりと書けば、それで終了だ。使い終わった硝子筆を水の入った器にカランと入れると、墨を吸い取った水に黒が滲んでいく。書き終えた数枚の書類を束ね、一度机にとんと落として、角を揃えてから"ぜむぴん"とやらで止めた。
 音で気づいた主が書類から顔を上げ、終わった? と眉を下げて微笑む。ひとつ返事を返しながら纏めた書類を渡し、他に手伝えることはないかと聞こうとしたけれど、机の上にある空になった湯呑が目に入り、いや、その問いかけは間違いだなと軽く首を振って、やめる。恐らく、手伝えることは無いだろう。これまで、主宛の書類を山ほど見てきたけれど、俺達では正確に答えられない類の書類も数多くあった。俺が今の今まで片づけていた、主から渡された書類は、主が不在の間も偽造せずに作成できていたものばかりだった。今、主が頭を悩ませている薄っぺらな数枚の紙は、恐らくそんな、俺が手を付けられないような類の書類なのだろう。手伝えないか聞けば、逆に申し訳ないと思わせてしまうと分かっている言葉を、無意味にぶつけるものではない。
 ならば、俺ができることはこちらだろうと、空になった湯呑を手に取る。きょとり、疑問符を浮かべた表情で見上げてくる主に「ここあでも淹れて来よう」と笑いかけた。疲れた時には甘味が効くとよく言うものだから。そういえば確か、貞坊のやつが水羊羹を買って来ていた。食いしん坊な誰かに食われていなければ残っているはずだ。残っていたら、主へひとつ分けてもらおうか。戻って来た時にまだ頭を悩ませているようなら、休憩にでも誘ってみようか。……ああ、だとすれば、ここあではなく普通に茶の方が良いな。
 そんなことをつらつら考えながら、主のお礼の言葉を背に受け、返事の代わりにひらりと手を上げて応える。さて、他に出来ることは何があるだろう。

 書斎から廊下へ出て、後ろ手に襖を閉める。どうするかなと考えを巡らせながら数歩歩いたところで、く、っと一瞬胸の奥が重くなり、驚いてくらりとよろけてしまった。しかし困惑で瞬きを数回する間に、纏わりついてくるような胸の重たさは嘘のように消え、ほっと息をつく。なんだ今のはと思う間もなく、瞬時に理解する。ああ、これは、また"繋がった"んだろうと。
 どういう原理なのか、どんな理由でなのか、本当のところは全くわからないのだが。主とこの本丸と、そして俺と鯰尾の小さな点と点が何かの拍子に結ばれ、ほんの少しの間だけ繋がってしまうことがある。繋がると言っても、繋がった瞬間の主の感情や状態に、指先でちょんと触れるような……そんな、僅かな感覚でしかないのだけれど。これは頻繁に起こるわけではなく、今までは……それこそ、主に何か特別な異常が起きている場合だけだった。
 例えば主の心が死んでしまいそうなほど堕ちていくばかりだった時。瞬きもしていないのに目の前がほんの一時だけ靄がかかったように見え、何事かと混乱したものだ。例えば主が恐怖の海に溺れてしまいそうだった時。指先が急に冷え、振り切るように握りしめてしまった事があった。まあ、主をそうさせた何かに対する怒りで、すぐに忘れてしまったのだが。
 いつやってくるかも分からないこの感覚は、確かに不便に思うときもある。だが、主の不調、異常をいち早く察することができるという意味では、少しばかり有難くもあった。胸の奥が重たくなる、という事例は初めてのことだけれど。今日までの数日を思い出せば、なんとなく察することは出来る。──もしかすると主は、今、……これまでにないほど心底疲れているのではないか、と。
 ……ああ、気づけなかった。そんな後悔が、遅れてやってくる。俺達の主は、自分が作ってしまった空白を埋めようと、どうしても過度に執務に励む嫌いがある。何度もほどほどにしろと、夜遅くまで働くのはやめるようにと言っているのだけれど、なかなかすんなり頷いてくれないのだ。
 主の疲労は少しずつ積もっていたのだろう。とはいえ、今日だって普段と顔色も、声色も変わらず、いつも通りに過ごしていたように思う。あまりにも、疲労をうまく隠しすぎてやしないだろうか。いつも通りを振舞っていた……という可能性もある、けれど。そしてこれは、人の身を持ったからこそ知れたことなのだが、人間は、一度意識してしまった物事を頭から綺麗さっぱり、全てを消し去れるようにはできていない。「疲れた」と一度でも考えてしまうと、感じてしまうと。身体もその言葉に惹かれるようについて行ってしまう。だというのに、彼女はあまりにも平然としすぎていたような。……つまり、俺に伝わってくるほどまで溜め込んだ疲れに、主自身が気づいていない可能性がある。
 ……気づけなかったことを後悔していたって仕方がない。今は、俺にできることをしようと、考えを巡らせているうちにたどり着いた、厨房の戸をがらりと開いた。


「──で、だ。どうすれば主の疲労を取り除くことが出来ると思う」
「……それ、分からないって返事が返って来ること分かってて言ってるよね」
「そりゃあな」
「自信満々に言うことじゃないんだよなあ……」
「疲労回復、ねえ……」
 肩を落としつつも「そうだなあ」と腕を組んで悩んでくれている光坊は、江戸城に出陣した部隊が帰還した時の為に、甘味を作る予定で厨房に居たらしい。俺と同じように瞬間的な体の不調を感じ取り、俺を探していたらしい鯰尾も、数分後には厨房に入ってきたので、三振りで頭を働かせているのだが。これがなかなか思い浮かばない。……どうしたって、俺達と主とでは体の根本的な部分が違っているのだ。疲労の感じ方だって違うかもしれない。疲労の解消方法も、また。好調を知らせる、当然のようにちらちら降る桜も、当たり前だけれど主からは生成されないのが目で見て分かりやすい一番の例だ。
 結局、茶ではなくここあを淹れることにした。湯を注ぎ終わったところで、鯰尾が上の開き戸からましゅまろの入った袋を取り、渡してくる。さすが、分かってるじゃないか。入れようと思っていたんだ。ありがたく受け取り、三つ程取り出す。淹れたばかりのここあにぽとぽと落とし、一度だけくるりとかき混ぜた。そのうち溶けて、白い蓋を作り出すのだろうましゅまろによしよし、と頷く。すっかり慣れたものだ。取りあえず、冷めないうちに主に届けよう。届けたら戻ってくればいい。悩むのはその後だ。
 そう決め、また後で来ると言い残し、厨房を出ようとした時。光坊が、「……甘いものか……。! ああ、それなら、鶴さんも一緒に作ってみない?」と、良いことを思いついたと言わんばかりの声で笑顔を向けてきたものだから、ぴたりと足が止まった。作る? 何をだ。
「お八つだよ、お八つ。疲れた時には甘いものって言うから。……確かに僕らは違うけれど、そういう、……"人"であるが故の感覚的な部分は、主も僕らも同じはずだ。 だから鶴さん、お茶じゃなくてそっち淹れたんでしょう」
「……」
「へえ〜、鶴丸さんの作るお八つかあ……。主、喜びそうだね」
「ね?」
 手に持った湯呑に視線を落とす。水面はましゅまろで埋まっており、俺の顔は映らなかった。──そういえば、料理を作ったことは無数にあれど、茶菓子……甘味系を作ったことはなかった。……主の為に、作る菓子か。良いかもしれない。
 淹れるのは、ここあじゃなくて茶にした方が良かったかもしれないなあと肩を竦めてみせると、二振りは小さく笑って頷いた。


――――――――


「……よし」
「あ、終わった?」
「うん、終わった」
 書き終わった書類を、分類ごとに数枚ずつクリップで止めて、運送中に折れ曲がったりしないようクリアファイルに閉じ、大きめの封筒に入れる。あとはこんのすけが伝達を持ってきた時に預ければ良いだけだ。……クリアファイル……って、そういえば普通に使ってしまっているけれど、この場所にあるのはなんだか不釣り合いだな、だなんて思う。普段気にせず使用している文具も、横文字のものが多い気がする。クリアファイルだって、和名でなんと呼べば良いのか全く知らない。透明……透明、紙挟み。だろうか、分からないけれど。
 最近電子データで送られてきた書類は既に返送済みなので、直近でやらなければいけない作業はもう無いはずだ。二年分溜まっていた書類も、やっと三分の二は捌くことができた。ご褒美に、次にこんのすけが来るまでの数日は自分にとっての休日にしよう。……うん、そうしよう。
 のろのろ思考を泳がせながら、書類を入れた封筒の封を紐でくるくると閉じ、一仕事終えた達成感、それからじわじわ感じる疲労感に肩を落としながらため息をつくと、それまで静かに戦績を眺めていた鯰尾がぱっと顔を上げた。鶴丸から預かってきたというココアを持って来てくれた鯰尾は、そのままこの書斎でわたしが仕事を終えるのを待ってくれているようだった。手伝おうかと言ってくれたけれど、丁度手を付けていたのが審神者が使用する霊力というものに関する書類ばかりだったため、申し訳ないけれど丁重にお断りした。
 そもそも霊力と簡単に言うけれど、可視化できない上に自分の中にどれだけそれが備わっているのかも、本当にコントロールできているのかも分からないものについて書けと言うのは、なかなかに鬼だと思う。……理解している審神者さんも中にはいるのだろうし、こうして彼らを顕現し、受肉させることができている時点で、わたしにそれが備わっているというのは疑いようもないことだと……分かっているのだけれども。
 彼もそういう類の書類があることは把握済みなのだろう、気を悪くした素振りもなく、必要になったらいつでも呼んでと言って、ソファにぽすりと座り、適当に時間を潰すことにしたらしい。ココアでも淹れて来ようと言った当の鶴丸は、鯰尾曰く手が離せない状態だったらしく、冷めないうちに持って行ってくれと頼まれたのだとか。用事が終わったらまた書斎に来るらしいけれど。……一体何をしているのだろう。
 仕事が終わったと告げると、鯰尾がお疲れ様! と言いながら立ち上がったかと思えば、はい、と両腕を大きく広げた。……両腕を大きく広げた。
「え。……え?」
「あれ? 来ないの?」
「えっ、あ、え? あ、い、いきます」
「ど〜んと来い!」
 突然何なのかと思っていたら、心底不思議そうに首を傾げられてしまったから。恐る恐る近寄って、にこにこと笑顔のまま待機している鯰尾の背にそっと、腕を回した。殆ど背丈が同じ鯰尾の肩とわたしの肩が、こつんとぶつかる。彼は「控えめすぎ!」ところころ耳元で笑って、何倍も強い力でぎゅうっと抱きしめてきた。
 ……そういえば、こうやって誰かに引っ付くのは、なんだか久しぶりのような気もする。机と椅子には、毎日飽きる程引っ付いているのに。
「こうすると、疲労が回復して安心するって聞いたんだよね〜。 ……確かにあったかいし」
「……ハグは心労解消に効くってきいたことある、けど」
「へへ、びっくりした? たまには良いよね、俺が主にくっついても。……鶴丸さんも、心配してたよ。どうにか主の疲れを取り除いてあげたいって」
 わたしの背中をぽんぽん、と叩いて、「疲れたなら疲れたって言ってくれないと、俺達もさみしいからさ」とぽつり、言った。似たようなことを、前に彼の兄弟に言った事をような気がする。まさか、同じ感情を返されてしまうなんて、思わなかったな。そっか、そっか。わたし、疲れてたんだ。
 鯰尾の背に回していた腕に、少しだけ力を込めて、小さく名前を呼んだ。本当に暖かくて、安心して、優しくて。……ほっと、息をつく。ああ、本当だ。自分で思っていた以上に、この身体は疲労がたまっていたのかもしれない。
「鯰尾」
「ん、なあに?」
「……疲れた、かも」
「ええ〜? ”かも”じゃないんだけどなあ。……ま、いっか」
 すっと離れた鯰尾は、そのままわたしの両肩をぽんぽん、と軽く叩いて、俺の元気分けておいたから! と上機嫌に笑った。確かに、鯰尾の笑顔を見ていると、元気も勇気もふつふつ湧いてくる。小さな、暖かな太陽のように照らしてくれる。お礼を言いながら笑ったわたしに一度はにかんで「やっと来たみたい」と言葉を落とし、くるりと襖を振り返った。来たみたい? ……何がだろう?
 疑問に思ったのもつかの間、襖をすすす……といつになく慎重に開いて入ってきたのは、片手に小皿や湯呑、急須が乗ったお盆を持っている鶴丸だった。
「よ、待たせたな!」
「あれ、用事は終わったの?」
「用事? ……ああ、用事な。大丈夫だ、終わらせてきたぜ」
「主も仕事終わってるよ。数日は休日にするって」
「おお! 本当か!?」
 そうか、そうかと頷きながら頬を緩める鶴丸に、先程の鯰尾がいった、鶴丸も心配していたという言葉を思い出して、少しだけ気恥ずかしくなってしまった。そんなに、煮詰めているように見えていたのだろうか。……顔に出やすい、のかもしれない。そういえば分かりやすいってよく言われているし、多分そうなんだろうな。ちょっと複雑だ。
 思わず自分の頬を軽く抓ったり引っ張ったりしていると、鶴丸が何してるんだと言いたげな目をこちらに向けながらこてりと首を傾げる。彼が何かを言う前に、鯰尾が「じゃ、あとは鶴丸さんに任せるね〜」と言いながらさっさと書斎を後にしてしまったので、一瞬でそちらに気を持って行かれてしまった。呼び止める隙も見せず、やはり機嫌が良さそうにひらひら手を振りながら彼が出て行った方を見ていると、なんだ、あいつの分も用意していたのに、と少しだけ呆けた声で鶴丸が呟いた。用意、とは、もしかしなくても、その手に持っているお盆に乗っているもののことだろう。湯呑が三つ乗っている。わたしの視線に気づいた彼は、それはともかく、と月色の瞳をぱっと輝かせ、無邪気に微笑んだ。
「頑張っているきみに、良いものを持ってきたんだ!」
「いいもの。……え、これ、お饅頭……!」
 細長く湯気を立たせている急須と、湯呑二つを机に置き、続けてことりと置いた小皿の上には、なんと小ぶりで真っ白なお饅頭が四つも並んでいた。いつの間に買ったのだろう。
 目で見て分かるほど生地がふっくら丸く膨らんでいるから、普通の蒸し饅頭ではない、おそらく薯蕷饅頭だ。今でこそ一般的に売られるようになっているけれど、遥か昔は、薯蕷饅頭といえばそれなりに高価な甘味として扱われていたらしく、なかなか手に取れなかったのだとか。今でさえ普通に購入しても、蒸し饅頭の倍の値段はつく。はずだ。……ここ最近、そんなに高いお菓子の買い物をした記憶はないような気がするけれど……。
「小さな雪玉や、鈴蘭のようだろう? ……と、言えば聞こえはいいが、単純に色や模様をつける時間が無かっただけだ。見栄えが悪くてすまんな」
「……つ、ける。……って、うそ、これ、手作り!?」
「ああ! 驚いたかい?」
 光坊に手伝ってもらいながらだがなとはにかむ鶴丸が急須に手を伸ばしたから、慌ててわたしが淹れると言ったのだけれど、今日は俺にやらせてくれと譲ってくれなかった。ど、どうしたのだろう。なんだろう。すごく、お持て成しされて締まっている。今日、何かの記念日か何かだったっけ……? それにしても、光忠さんのレパートリーはどうなっているのだろうか。厨房に行くと日に日にレシピ本が増えている気はしていたけれど、それをどこから仕入れてきているのか大変気になるところだ。……明日にでも聞いてみよう。
 お茶を淹れてくれた彼にお礼を言って、さあさあ、と促してくる眼差しに素直に従い、鶴丸の言うとおり雪玉のように真っ白な薯蕷饅頭を手に取った。……出来立てなんだろう、まだ少し暖かい。触っただけでも分かる生地の弾力に、思わず感嘆の声が漏れてしまった。指先でほろりと三分の一程度に割り、どこか緊張した面持ちの鶴丸に見つめられながら、欠片を口に入れた。

「……!!」
 ……素直に、驚いた。思っていた以上に、ふっくらほくほくしていて、なのにもっちりと弾力がある。 舌を撫でた餡子の、しつこすぎず、程よく甘い味は何回か食べた覚えがある。この絶妙な甘さ加減は、さすが光忠さんというべきなのだろうか。正直に、とても、とっても……美味しい。
 作るのは難しくないとはいえ、薯蕷饅頭を作る機会なんてなかったし、作り立てを食べる機会なんて余計になかった。こんなに、普段食べているような蒸し饅頭と違いがあるなんて。しかも、これを作ったのが、他でもない鶴丸だなんて。本当に驚いてしまう。
 ……ああ、そうか。鯰尾が言っていた用事は、買い物なんかではなくて、これを作っていたんだ。記念日とか、そういう理由ではなくて。ただ単に……わたしが、仕事で疲れていると思ったから。「どうにか疲れを取り除いてあげたい」と、考えてくれたから、だ。今日の鯰尾の行動だって、そうだった。その気持ちが嬉しくて、嬉しくて。こくりと飲み込んだタイミングで、どこか緊張した面持ちで味はどうか聞いてくる鶴丸の声に、頬がだらしなく緩んでしまうのが、自分でも分かってしまった。
「……ん、美味しい!」
「そ、そうか! はは、そいつは良かった!」
「すごく、とっても美味しい……! これ、鶴が作ったんだよね、美味しい、すごいね……! あの、ありがとう、うれしくて、すごく、……嬉しい」
「お、おいおい、きみな……」
 安心したようにへらりと緩めたその表情にまた胸の奥が熱くなって、嬉しさが込み上げてきて、溢れ出てくる感情のまま、支離滅裂な言葉をぽつぽつ落とし続けているわたしを、鶴丸が可笑しそうにふすりと笑った。そこまで喜んでもらえるなら、作った甲斐があったものだと。少しだけ恥ずかしくて、可笑しくて。頬がだらしなく持ち上がってしまう。けど、でも、このふわふわな感情を、ごまかす気にはなれなかった。
「鶴も一緒に食べよう?」
「うん? ああいや、俺は……」
「口開けて、はい」
 問答無用で千切り分けたひと欠片を彼の口元まで持っていくと、一瞬たじろいだ後、しかし手を下げないんだろうと諦めたらしく、欠片を唇で挟む。わたしが指を離すと、はくりと口に入れた。途端、目を丸くする鶴丸に、ああもしかして味見していなかったのかもしれないとこっそり思う。だから、あんなにわたしの反応に不安そうにしていたのかもしれない。
「んん! 教わりながら作ったからとはいえ、我ながら美味いな!」
「でしょう」
「ふはっ、どうしてきみが得意気なんだい? ほら、きみも」
 もうひと欠片を、今度は鶴丸の指からぱくりと口にする。……美味しい。とんでもないご褒美だ。明日臨時で追加の書類が届いても、文句言わずに頑張れる自信がある。
 美味しいねえとゆっくりお饅頭を味わうわたしを、彼はお月様のような金色を細めながら見つめてくる。二つ目の薯蕷饅頭をぱかりと手で割ると、鶴丸がひと欠片摘まみ、食べるのかと思いきや、飲み込んだばかりのわたしの口元に持って来るものだから、抗議の眼差しを送りつつも欲には勝てずにまた口に入れ、もくもくと味わう。
 すかさず鶴丸にも、と思ったのに、自分で欠片を口に運んでしまうものだから、やり返せなくて、少し悔しかった。くすくす肩を揺らす彼は、しかし満足そうなため息をついて、そうか、とゆっくり頷いた。淹れてくれたお茶を啜って、ほっと息をつく。茶菓子を食べていると、暖かいお茶がいつもの倍以上美味しく感じる。こういう時、日本人で良かったなあと思ってしまうくらいには。
 やがて自分自身に染み込ませるようにしみじみ呟いた彼の言葉は、わたしにはよく分からないものだったから、否定も肯定も出来なかったけれど。彼なりに、何かしら感じるところがあったのだと思う。──わたしは、こうして一緒になんでもない時間を過ごせるだけで充分だよとは、さすがに言えそうもなかった。
「きみは、ただ与えられるだけよりも、"嬉しい"を共有した方が幸せそうにする。……──きっとそれが、きみの疲れを癒す一番の方法なんだろうな」


19.03.12