灰色だった。すべての世界が、ではなく、”私の世界”が。毎日変わらない任務、変わらない風景、変わらない顔ぶれ。変わらない敵。変わらない私の姿。……見慣れない刀を鍛刀したり、出陣先で見つけてくる初めましての刀などを顕現したときや、初めて見る敵の報告がちょいちょい出るたびに、頭を悩ませたりはするけれど。
喜ぶべきか悲しむべきか、それともこれが日本人の性なのだと言うべきか。訪れた変化にも、変化があるたびに騒ぐ本丸にも、数日あればやがて慣れてしまう。つまりは、毎日が果てしなく退屈だった。そして問題なのは、これを平和な証だと言って心穏やかに過ごせるほど、私ができた人間ではなかったことだ。
ああ、つまらないな。そう呟きそうになって、代わりに大きくため息を吐くことで押しとどめる。つまらない、退屈だ、と言葉にしてしまったら最後、今以上に毎日が色褪せて見えてしまうんじゃないかと危惧したからだ。無暗やたらに悪い感情は声に出すものじゃない。だからって、黙っていればこの時間が輝かしいものに変わるわけでもないのだから、参ってしまう。
今日やるべきこと、明日の予定……。あれこれ思い浮かべては、やっぱり特別なことは何もなくて、大きくため息をつく。……何か面白いこと、ないかな。
軽く上半身を前に倒して、椅子の横に取り付けてある、レバー式のロックを解除する。カチ……というよりかは、ガコン、と音が鳴ったのを確認してから、腕を大きく上に伸ばし、背もたれに思いっきり寄り掛かった。重心に従って背もたれが倒れ、角度で言えば百三十度ほど傾いたところで止まる。いわゆる、リクライニングチェア、というやつだ。奮発して買ってしまった椅子なのだけれど、座り心地は良いし、こうやって気軽に横になれるお蔭で、身体の疲労が案外溜まらない。突然の高額な出費に、当時近侍だった刀や博多くんには酷く怒られた記憶があるけれど、日々の満足感に比べれば安いものだ。
暫く伸ばしていた腕の力をため息と共にふっと抜いて、そのままごろんと横向きになる。動いた際に一瞬浮いた背もたれが、また頭の重みにぼすりと沈んだ。目に入るのは、人ひとり分隙間が空いている、執務室の襖と、その隙間から見えるいつも通りの庭。すぐ手前には、資料や暇つぶしの本が置かれている自分のために用意された机。
その何枚もの資料に挟まれている、政府から届いた最新の伝令が書かれている紙が目について、ジェンガのように伝令用の上質な紙だけをすっと抜き取った。まあ、取ったはいいものの、特に気になる情報があるわけでもなく。ただぼうっとそれを眺めていただけなのだけど。ふいに、襖の間に広がる狭い外の世界に誰かの影が差したから、視線だけを紙の向こう側へ動かした。
開いているというのに、律儀にこんこん、と折り曲げた指で襖を叩いてから、失礼するよと一言添えて入ってきた男士は、出陣時の武装姿のまま……けれど左手に一輪、花を持っていた。
「……おかえり。戻ってたんだ」
「ただいま。今帰ったところだよ」
べちりと軽く叩きつけるように持っていた政府からの紙を机に置いて、もう一度ぐぐ、と腕を伸ばしてから体を起こした。背をついてくる背もたれが定位置まで戻ったところで、再びガコン、と施錠する。一度後ろに体重をかけて、背もたれが倒れないことを確認してから、改めて彼を見る。今日の近侍は……というより、ここ最近の近侍は本人立っての希望で、大抵は光忠が勤めてくれている。
集めた物資は指定の場所へ保管したことと、物資と情報の収集が目的の遠征だったから、気になったものがあったら買っておいでと短刀たちに渡しておいたお小遣い……というのもなんだかおかしな話だけれど、それでちょっとしたお土産を買っていたから、あとで渡しに来るだろうとの報告を手短にした彼の言葉に、ふと肩の力が抜ける。自分たちの為に使って良かったのに、律儀というかなんというか。
そして最後に手に持っていた花を差し出して、これで丁度だったよね、と疑問符を浮かべてる姿につられて、記憶を探る。確かに、昨日も遠征組から同じように花を受け取った時に、あと一個だなあと考えていた記憶がある。……そっか、やっと集まったんだ。
名残惜しいとは思いつつも、相棒の椅子にお別れを告げ、立ち上がる。彼にお礼を言いながらそれを受け取って、何も飾られていないまっさらな壁の前に立った。壁に向けて手を翳し、手のひらに意識を集中する。それを壁全体に塗りたくるように、横にすっと手を流せば、耳に残るノイズと共に、大きな電子画面が浮かび上がった。
先程受け取った花をその電子画面に触れさせると、パチンと弾け、光の粒になって画面の中へ吸い込まれていく。画面をスライドさせるように手のひらを仰ぎ、内装、外装の画面を呼び出したところで、後ろから「良かった、ちゃんと貯まってる」と呟く声が聞こえた。見れば、新しく政府が寄越した、新しい本丸の外装が画面上で選択できるようになっている。昨日までは、素材が足りなくて選択できない状態だったのだ。
「ほんと、古典的なんだか近未来的なんだか、分かったもんじゃないよね、このシステム」
「まあまあ。両方体験できるんだし、お得じゃないかな」
「ふうん?」
なんとなく、彼にしては珍しい答えだな、と思った。返答に掛かった時間も短かった。常日頃から思っていたことなんだろうか。……けれど光忠は、「って、貞ちゃんが言ってたんだけどね」あっさりネタ晴らしをしながら苦笑して、そういう考えもありかなって、と続けた。なるほど。あの子なら確かに言いそうだ。
早速、見慣れた風景にお別れをしようと、景趣変更の文字が浮かぶ画面に触れようとして、ああその前に、と光忠を振り返った。
「外に誰かいた?」
「ああ、ちょっと待ってね」
ひらりと手を上げて答えた彼は、入り口とは反対側にある縁側……つまりはベランダだ。そこと部屋を仕切っている襖を開き、柵から身を乗り出して下を覗き見た。
他の本丸が同じ設計なのかどうかは知らないけれど、この本丸の審神者部屋は二階にある。真下はちょっとした広場のようになっているので、刀たちの遊び場であり、交流の場であり、手合わせの場でもあり。何らかの理由で刀達が居ることが多いのだ。急に辺りの景色が変わるよりも、誰かしらには一言かけておいた方が良いだろうと思ってのことだったのだけれど、彼はそこまで言わずとも把握してくれたらしい。
例によって誰かが居たのだろう広場に向けて、今から模様替えするよーと声を張る光忠に、はーい、と元気な返事が複数返ってくる。居たのは、どうやら短刀たちらしい。「模様替えするってよ〜」と遠くで聞こえた厚の声に、反応する刀達がまた複数。どうやら外に出ていない者たちにも伝えてくれているようだ。
少ししてから、光忠が柵に手をかけたまま振り返り、ひとつ頷く。それを合図に、今度こそ押されるのを今か今かと待っていた電子画面に浮かぶ「景趣変更」の文字に、そっと触れた。
──途端、空気がぶわっと変わる。役目の負えた画面を閉じ、縁側に視線を向けて、……私は、言葉を失った。
本丸のあちこちで、嬉々とした声が上がっている。……光忠の背の向こうで、桃色の海が出来ている。淡い色をしたそれは、この国の自慢である桜とはまた違うけれど。
ふらりと誘われるように、縁側に出る。光忠からの視線を無視して、柵に両手を添え、眼前に広がる一面の梅の花を目に焼き付けているのではと自分でも思う程、気づけば、釘付けになっていた。それはとても、とても、幻想的で、美しい風景だった。
「……」
「……」
「……一ヶ月」
「ん?」
「一ヶ月経ったら……、外装は、戻すよ」
どうして、と言いたげの表情を、視界の隅で捉える。風に乗って舞い上がってきた花弁に手を伸ばして、けれどそう簡単には指にすら触れてくれなくて、少しだけ笑った。物語に出てくるヒロインみたいに、うまく手のひらに収まってはくれないみたいだ。……どうしてか、理由なんてひとつしかない。
幼い頃、梅の花も桜の花も、一年中咲いていればいいのにと何度か思ったことがある。こんなに綺麗なのに、春にしか咲かない儚い花。けれど私が幼かった頃に祖母も、母も語ったのだ。儚いからこそ、すぐに散ってしまうからこそ、美しいと感じるのよと。
この桃色が、あの自慢の国花が、一年中この国で咲き乱れていたら、果たしてこの心は揺さぶられただろうか。果たして、他国は桜の木をこの国の財産だと認めてくれていただろうか。
「この景色に、飽きたなんて思いたくはないから」
「……そっか」
穏やかな声で応えた彼の腕が視界に入って、そちらを見る。柵から手を伸ばした彼は、まるで導かれるように舞い上がってきた桜の花弁を、いとも簡単に手のひらに乗せてみせた。それをいいなとも、ずるいなとも思わなかったけれど。ただ、その花弁が光忠に拾われるためにここまで風に乗って来たんじゃないかと錯覚するほどに、それはなんとも自然な現象のように見えたから。単純にすごいな、なんてシンプルな感想は浮かんでしまった。
桜の花弁は、地面に落ちる前に捕まえることが出来ると幸福を呼ぶらしいと聞いたことがある。もしこれが桜の花だったなら、少しは羨ましくなったのかもしれないけれど。残念ながら、これは梅の花だ。とはいえ、折角自分の元に来てくれた仮初めの幸福を、しかし光忠はそれを指で摘まんで私に差し出してくる。きっと、私が欲しがっていると思っただけなんだだろうけど。幸福のおすそ分けだということにして、素直に受け取った。押し花のしおりでも作ろうと密かに考えて、少しだけ口角が上がる。
「……でも、なんだか悔しいな」
「悔しい? ……何が?」
「さっきのこと」
「どれのこと……」
「君が、この光景を見て、感動してたことだよ。僕が見たことないくらい、目の奥が輝いてたから」
そうかな、とは言わなかった。あんなに心動かされた瞬間は、確かに初めてだったから。代わりに、そんなに分かりやすかった? と聞いたら、すごくね。と返ってきた。その声が、どこか寂しさを含んでいる気がして、光忠を見上げる。それがどう、悔しいに繋がるのだろう。私の視線に気づいた彼は、困ったように眉を下げて苦笑を浮かべた。
「別に大したことじゃないんだよ、本当に」
「うん」
「……僕らが何をしても、君の憂いは完全には拭えなかったのに。この景色は、一瞬で君にあんな表情をさせることができるんだ……って、……それがちょっと、悔しいなって思ったんだよね」
「……光忠ってさ」
「うん?」
すぐ恥ずかしいこと言うよね、と口走りそうになった言葉を飲み込んで、やっぱいい、と首を振る。すぐに、「それで、」と言葉を挟むことで、先の言葉への追及を拒んだ。
「梅の花が嫌になった?」
「ええ!? まさか!」
「冗談。どう思ったの?」
「それはもちろん、主のためにもっと頑張らないとなって思ったよ。負けたままじゃあ恰好悪いからね」
ああ、なるほど。今は、梅の木々に負けた気分だったのか。何と勝負しているんだか、と可笑しくなって、「じゃあ、頑張って」と少しだけ笑った。光忠が、照れくさそうにはにかむ。
下の広場で梅の木々を見に集まってきていた刀の一人が、ベランダの柵に寄り掛かっている私達に声をかけてきた。時間があるなら下に降りてきたらどうか。皆でお花見をしよう。と。断る理由なんてない。二つ返事で受け入れて、皆に呼びかけておいてと声を張れば、了解の声が複数上がる。
じゃあ、皆のところに行こう、と踵を返して自室に目を向けた瞬間、あ、と思う。つい、振り返って、もう一度梅の木々を見た。……一瞬前と同じように、桃色は美しく咲き誇っている。不思議そうに尋ねてくる光忠に曖昧な返事をしながら、再び部屋へ目を向けた。
私の部屋に、真昼の暖かな日差しが差し込んでいる。その光は、外の梅の花の色と交わって、ぼんやり桃色に染まっている。私の部屋に、……景趣を変えるまで、灰色だと思っていた私の世界に、淡い、色が付いていた。たったそれだけ。それだけのことが、どうしてか、とても特別なことのように思えたのだ。
失くしてしまわないよう、貰った花弁を和紙に包んで、メモ帳に挟んでおいてから部屋を出た。お弁当に何を入れてほしいか聞いてくる光忠に、甘い玉子焼きがいいと、ありふれた会話を交わして、皆が居る広場に向かう。
そんないつもの会話ですら、何故か特別な時間のように思えてくるのは、ちらちらと視界に入る、あの花弁があるからだ。本丸を駆けまわる付喪神達の声が、いつにも増して楽しそうで、嬉々としているからだ。何を作ろうか悩みながらも、どことなく普段より気合を入れているように見える彼をちらりと見上げて、ふと頬が緩む。
……やっぱり、今日の感動を上回るほどの出来事を用意するのは難しいんじゃないかななんて、思いながら。
喜ぶべきか悲しむべきか、それともこれが日本人の性なのだと言うべきか。訪れた変化にも、変化があるたびに騒ぐ本丸にも、数日あればやがて慣れてしまう。つまりは、毎日が果てしなく退屈だった。そして問題なのは、これを平和な証だと言って心穏やかに過ごせるほど、私ができた人間ではなかったことだ。
ああ、つまらないな。そう呟きそうになって、代わりに大きくため息を吐くことで押しとどめる。つまらない、退屈だ、と言葉にしてしまったら最後、今以上に毎日が色褪せて見えてしまうんじゃないかと危惧したからだ。無暗やたらに悪い感情は声に出すものじゃない。だからって、黙っていればこの時間が輝かしいものに変わるわけでもないのだから、参ってしまう。
今日やるべきこと、明日の予定……。あれこれ思い浮かべては、やっぱり特別なことは何もなくて、大きくため息をつく。……何か面白いこと、ないかな。
軽く上半身を前に倒して、椅子の横に取り付けてある、レバー式のロックを解除する。カチ……というよりかは、ガコン、と音が鳴ったのを確認してから、腕を大きく上に伸ばし、背もたれに思いっきり寄り掛かった。重心に従って背もたれが倒れ、角度で言えば百三十度ほど傾いたところで止まる。いわゆる、リクライニングチェア、というやつだ。奮発して買ってしまった椅子なのだけれど、座り心地は良いし、こうやって気軽に横になれるお蔭で、身体の疲労が案外溜まらない。突然の高額な出費に、当時近侍だった刀や博多くんには酷く怒られた記憶があるけれど、日々の満足感に比べれば安いものだ。
暫く伸ばしていた腕の力をため息と共にふっと抜いて、そのままごろんと横向きになる。動いた際に一瞬浮いた背もたれが、また頭の重みにぼすりと沈んだ。目に入るのは、人ひとり分隙間が空いている、執務室の襖と、その隙間から見えるいつも通りの庭。すぐ手前には、資料や暇つぶしの本が置かれている自分のために用意された机。
その何枚もの資料に挟まれている、政府から届いた最新の伝令が書かれている紙が目について、ジェンガのように伝令用の上質な紙だけをすっと抜き取った。まあ、取ったはいいものの、特に気になる情報があるわけでもなく。ただぼうっとそれを眺めていただけなのだけど。ふいに、襖の間に広がる狭い外の世界に誰かの影が差したから、視線だけを紙の向こう側へ動かした。
開いているというのに、律儀にこんこん、と折り曲げた指で襖を叩いてから、失礼するよと一言添えて入ってきた男士は、出陣時の武装姿のまま……けれど左手に一輪、花を持っていた。
「……おかえり。戻ってたんだ」
「ただいま。今帰ったところだよ」
べちりと軽く叩きつけるように持っていた政府からの紙を机に置いて、もう一度ぐぐ、と腕を伸ばしてから体を起こした。背をついてくる背もたれが定位置まで戻ったところで、再びガコン、と施錠する。一度後ろに体重をかけて、背もたれが倒れないことを確認してから、改めて彼を見る。今日の近侍は……というより、ここ最近の近侍は本人立っての希望で、大抵は光忠が勤めてくれている。
集めた物資は指定の場所へ保管したことと、物資と情報の収集が目的の遠征だったから、気になったものがあったら買っておいでと短刀たちに渡しておいたお小遣い……というのもなんだかおかしな話だけれど、それでちょっとしたお土産を買っていたから、あとで渡しに来るだろうとの報告を手短にした彼の言葉に、ふと肩の力が抜ける。自分たちの為に使って良かったのに、律儀というかなんというか。
そして最後に手に持っていた花を差し出して、これで丁度だったよね、と疑問符を浮かべてる姿につられて、記憶を探る。確かに、昨日も遠征組から同じように花を受け取った時に、あと一個だなあと考えていた記憶がある。……そっか、やっと集まったんだ。
名残惜しいとは思いつつも、相棒の椅子にお別れを告げ、立ち上がる。彼にお礼を言いながらそれを受け取って、何も飾られていないまっさらな壁の前に立った。壁に向けて手を翳し、手のひらに意識を集中する。それを壁全体に塗りたくるように、横にすっと手を流せば、耳に残るノイズと共に、大きな電子画面が浮かび上がった。
先程受け取った花をその電子画面に触れさせると、パチンと弾け、光の粒になって画面の中へ吸い込まれていく。画面をスライドさせるように手のひらを仰ぎ、内装、外装の画面を呼び出したところで、後ろから「良かった、ちゃんと貯まってる」と呟く声が聞こえた。見れば、新しく政府が寄越した、新しい本丸の外装が画面上で選択できるようになっている。昨日までは、素材が足りなくて選択できない状態だったのだ。
「ほんと、古典的なんだか近未来的なんだか、分かったもんじゃないよね、このシステム」
「まあまあ。両方体験できるんだし、お得じゃないかな」
「ふうん?」
なんとなく、彼にしては珍しい答えだな、と思った。返答に掛かった時間も短かった。常日頃から思っていたことなんだろうか。……けれど光忠は、「って、貞ちゃんが言ってたんだけどね」あっさりネタ晴らしをしながら苦笑して、そういう考えもありかなって、と続けた。なるほど。あの子なら確かに言いそうだ。
早速、見慣れた風景にお別れをしようと、景趣変更の文字が浮かぶ画面に触れようとして、ああその前に、と光忠を振り返った。
「外に誰かいた?」
「ああ、ちょっと待ってね」
ひらりと手を上げて答えた彼は、入り口とは反対側にある縁側……つまりはベランダだ。そこと部屋を仕切っている襖を開き、柵から身を乗り出して下を覗き見た。
他の本丸が同じ設計なのかどうかは知らないけれど、この本丸の審神者部屋は二階にある。真下はちょっとした広場のようになっているので、刀たちの遊び場であり、交流の場であり、手合わせの場でもあり。何らかの理由で刀達が居ることが多いのだ。急に辺りの景色が変わるよりも、誰かしらには一言かけておいた方が良いだろうと思ってのことだったのだけれど、彼はそこまで言わずとも把握してくれたらしい。
例によって誰かが居たのだろう広場に向けて、今から模様替えするよーと声を張る光忠に、はーい、と元気な返事が複数返ってくる。居たのは、どうやら短刀たちらしい。「模様替えするってよ〜」と遠くで聞こえた厚の声に、反応する刀達がまた複数。どうやら外に出ていない者たちにも伝えてくれているようだ。
少ししてから、光忠が柵に手をかけたまま振り返り、ひとつ頷く。それを合図に、今度こそ押されるのを今か今かと待っていた電子画面に浮かぶ「景趣変更」の文字に、そっと触れた。
──途端、空気がぶわっと変わる。役目の負えた画面を閉じ、縁側に視線を向けて、……私は、言葉を失った。
本丸のあちこちで、嬉々とした声が上がっている。……光忠の背の向こうで、桃色の海が出来ている。淡い色をしたそれは、この国の自慢である桜とはまた違うけれど。
ふらりと誘われるように、縁側に出る。光忠からの視線を無視して、柵に両手を添え、眼前に広がる一面の梅の花を目に焼き付けているのではと自分でも思う程、気づけば、釘付けになっていた。それはとても、とても、幻想的で、美しい風景だった。
「……」
「……」
「……一ヶ月」
「ん?」
「一ヶ月経ったら……、外装は、戻すよ」
どうして、と言いたげの表情を、視界の隅で捉える。風に乗って舞い上がってきた花弁に手を伸ばして、けれどそう簡単には指にすら触れてくれなくて、少しだけ笑った。物語に出てくるヒロインみたいに、うまく手のひらに収まってはくれないみたいだ。……どうしてか、理由なんてひとつしかない。
幼い頃、梅の花も桜の花も、一年中咲いていればいいのにと何度か思ったことがある。こんなに綺麗なのに、春にしか咲かない儚い花。けれど私が幼かった頃に祖母も、母も語ったのだ。儚いからこそ、すぐに散ってしまうからこそ、美しいと感じるのよと。
この桃色が、あの自慢の国花が、一年中この国で咲き乱れていたら、果たしてこの心は揺さぶられただろうか。果たして、他国は桜の木をこの国の財産だと認めてくれていただろうか。
「この景色に、飽きたなんて思いたくはないから」
「……そっか」
穏やかな声で応えた彼の腕が視界に入って、そちらを見る。柵から手を伸ばした彼は、まるで導かれるように舞い上がってきた桜の花弁を、いとも簡単に手のひらに乗せてみせた。それをいいなとも、ずるいなとも思わなかったけれど。ただ、その花弁が光忠に拾われるためにここまで風に乗って来たんじゃないかと錯覚するほどに、それはなんとも自然な現象のように見えたから。単純にすごいな、なんてシンプルな感想は浮かんでしまった。
桜の花弁は、地面に落ちる前に捕まえることが出来ると幸福を呼ぶらしいと聞いたことがある。もしこれが桜の花だったなら、少しは羨ましくなったのかもしれないけれど。残念ながら、これは梅の花だ。とはいえ、折角自分の元に来てくれた仮初めの幸福を、しかし光忠はそれを指で摘まんで私に差し出してくる。きっと、私が欲しがっていると思っただけなんだだろうけど。幸福のおすそ分けだということにして、素直に受け取った。押し花のしおりでも作ろうと密かに考えて、少しだけ口角が上がる。
「……でも、なんだか悔しいな」
「悔しい? ……何が?」
「さっきのこと」
「どれのこと……」
「君が、この光景を見て、感動してたことだよ。僕が見たことないくらい、目の奥が輝いてたから」
そうかな、とは言わなかった。あんなに心動かされた瞬間は、確かに初めてだったから。代わりに、そんなに分かりやすかった? と聞いたら、すごくね。と返ってきた。その声が、どこか寂しさを含んでいる気がして、光忠を見上げる。それがどう、悔しいに繋がるのだろう。私の視線に気づいた彼は、困ったように眉を下げて苦笑を浮かべた。
「別に大したことじゃないんだよ、本当に」
「うん」
「……僕らが何をしても、君の憂いは完全には拭えなかったのに。この景色は、一瞬で君にあんな表情をさせることができるんだ……って、……それがちょっと、悔しいなって思ったんだよね」
「……光忠ってさ」
「うん?」
すぐ恥ずかしいこと言うよね、と口走りそうになった言葉を飲み込んで、やっぱいい、と首を振る。すぐに、「それで、」と言葉を挟むことで、先の言葉への追及を拒んだ。
「梅の花が嫌になった?」
「ええ!? まさか!」
「冗談。どう思ったの?」
「それはもちろん、主のためにもっと頑張らないとなって思ったよ。負けたままじゃあ恰好悪いからね」
ああ、なるほど。今は、梅の木々に負けた気分だったのか。何と勝負しているんだか、と可笑しくなって、「じゃあ、頑張って」と少しだけ笑った。光忠が、照れくさそうにはにかむ。
下の広場で梅の木々を見に集まってきていた刀の一人が、ベランダの柵に寄り掛かっている私達に声をかけてきた。時間があるなら下に降りてきたらどうか。皆でお花見をしよう。と。断る理由なんてない。二つ返事で受け入れて、皆に呼びかけておいてと声を張れば、了解の声が複数上がる。
じゃあ、皆のところに行こう、と踵を返して自室に目を向けた瞬間、あ、と思う。つい、振り返って、もう一度梅の木々を見た。……一瞬前と同じように、桃色は美しく咲き誇っている。不思議そうに尋ねてくる光忠に曖昧な返事をしながら、再び部屋へ目を向けた。
私の部屋に、真昼の暖かな日差しが差し込んでいる。その光は、外の梅の花の色と交わって、ぼんやり桃色に染まっている。私の部屋に、……景趣を変えるまで、灰色だと思っていた私の世界に、淡い、色が付いていた。たったそれだけ。それだけのことが、どうしてか、とても特別なことのように思えたのだ。
失くしてしまわないよう、貰った花弁を和紙に包んで、メモ帳に挟んでおいてから部屋を出た。お弁当に何を入れてほしいか聞いてくる光忠に、甘い玉子焼きがいいと、ありふれた会話を交わして、皆が居る広場に向かう。
そんないつもの会話ですら、何故か特別な時間のように思えてくるのは、ちらちらと視界に入る、あの花弁があるからだ。本丸を駆けまわる付喪神達の声が、いつにも増して楽しそうで、嬉々としているからだ。何を作ろうか悩みながらも、どことなく普段より気合を入れているように見える彼をちらりと見上げて、ふと頬が緩む。
……やっぱり、今日の感動を上回るほどの出来事を用意するのは難しいんじゃないかななんて、思いながら。
19.03.29