※若干の修行手紙バレ有り
懐かしい空気が自分を包む。同時に「鶴丸、」と自分を呼ぶ声がして、瞼を持ち上げる。それはとても、とても長い間聞いていなかった……けれど他の誰のものよりも耳に残り続け、ずっと求め続けていた声だった。その音の出所を辿って顔を向ければ、俺を真っすぐに見つめる彼女が立っていた。目が合うと、その瞳が大きく揺れる。
――ああ、帰ってきた……帰ってきたんだ。彼女にとってはたった数日の、しかし自分にとっては二十年越しの再会に、言葉よりも先に駆け出していた俺を、自分より小さな体で彼女はしっかりと受け止めてくれたのだ。
……帰りが待ち遠しいな、と思った。
池を泳ぐ鯉に餌をやっている主と、それを覗き込んでいる今剣と蛍丸、しゃがんでいる三人のさらに後ろから、立ったまま池を覗き込む燭台切さんの四人。非番中ですることもない俺は、ぼんやりとその平和な光景を眺めていた。
どうやら最近、本丸に初期から設置されている池に錦鯉が泳ぎ始めたらしいのだ。しかし、本丸内の誰一人として錦鯉を買った覚えなんかはなく、主ですらもいつから住み始めたのか記憶にないらしい。更にこんのすけでさえも知らないと来た。ただこんのすけは、本丸の潤いに合わせて池の生物も変化するのかもしれないと予想を立てていたんだけど。主や俺たちの案内役を務めている割には、意外と知らないことが多いみたい。……確かに、鶴丸さんと薬研から聞いた話では、鈴蘭という見知らぬ花が種を蒔いてもいないのに突然咲いた事例もあったとのことだし、このくらいの変化はこの先も出てくるのかもしれない。とにかく、数日様子を伺ったところ錦鯉に害はなさそうだったので、その美しい外見に主はもちろん、刀たち皆がとにかく興味津々で。池を見に来る頻度が上がったということだ。
「おや、君がひとりで居るのは、なんだか珍しいねぇ」
縁側でただぼうっとしていた俺に声をかけて来たのは、源氏の刀である兄弟の兄の方だった。後ろからは当然のように膝丸さんが付いている。よいしょ、と声を出しながら隣に腰かけた彼、髭切さんは「そういえば、今日は珍しく鶴丸を見ていないね」だなんて言うから、それってわざと? って言葉と共に苦笑を浮かべてしまった。流石に、その隣に座った弟の刀も困り顔で兄を呼んでいる。対して、本当に自分が変なことを言ったと思っていないらしい髭切さんは、おやおやと首を傾げているものだから、これは彼の弟さんは日々苦労しているんだろうなぁと密かに同情した。
「今日どころか、明日も明後日も鶴丸さんは居ませんよ。――修行中、なんですから」
「……あぁ、そっか。うん……、そうだったね」
俺の言葉を聞いた髭切さんは少しだけ目を細めて、ゆったりと頷いた。そして先程の俺と同じように、池に集まる刀たちと主を見遣って、呟く。「そう、やっと決心できたんだね」
その言葉には何も返さず、再び主たちへ視線を向ける。いつの間にか、燭台切さんの手を取って立ち上がった主の背にしがみつき、おぶられることになっていた今剣と、それを羨ましそうに見上げて頬を膨らませる蛍丸と、そんな三人にくすくす笑いながら、落ちたりしないようにだろう、さり気なく池から距離を取らせる燭台切さんが会話を続けている。主がひとりで居る姿を見る機会は書斎の中でくらいしかないほど、主の周りにはあんな風にいつだって誰かが傍にいて、いつだって誰かが気に掛けている。ここにいる俺だって、隣にいるこの兄弟だってそうだろう。だけど、……でも、なんだか。……なんだか。
ひゅう、と音を立ててひんやりとした風が吹き抜ける。小さくくしゃみをした主の背から今剣がひょいっと身軽に飛び降り、代わりに燭台切さんがそっと背を押した。皆がこちらへ顔を向けたから、きっと日が落ちる前に部屋の中へ入ろうと声をかけたのかもしれない。もうすっかり冬の季節だ。たまに本丸にも小雪がちらちらと降ってくるくらい、風が冷たくなってきている。昼間や午後はまだ温かいけれど、夕暮れから一気に空気が鋭くなるものだから、この季節に主が長い時間外に出てることをあまり良く思えないその気持ちはよく分かる。会話を続けながら、俺たちに気が付いた主が小さく手を振ってくれたから、俺も自然と浮かぶ笑顔をそのままに大きく振り返した。
「っふふ、いじらしいね」
たまらず、といった声色でそんな言葉が聞こえて、思わず隣にいる刀を見上げた。髭切さんは、どこかくすぐったそうに眉を下げて小さく喉を鳴らしている。まるで同感だと言うように膝丸さんがふすりと笑みを落として、兄者、楽しんでるだろう? と呟いた。髭切さんは「さぁね」としか答えなかったけれど。その声が少し喜々としていたものだから。
まぁ……分かるけど。分かるけど、今は勘弁してくれよな、と心の中でため息をついて、肩を落とした。
多分、二人も気づいたんだろう。俺たちに手を振ったその一瞬、主の瞳が不安気に揺れたのを。今ここには居ない……誰かを、探すように。本丸の時間ではたった四日。されど四日だ。鶴丸さんが己を見つめ直すため、己と向き合うため、遂に修行に出かけてからまだ一日目。あと三日、この場所にあの真っ白な主の守り神が居ないことが、主の隣に立っていないことが、こんなにも"足りない"と、奇妙だと感じるなんて。正直、予想していなかった。早く帰ってこないかな……なんて、叶わない願いを空へ飛ばしてしまうくらいには。
そしてそれ以上に、俺は鶴丸さんに対する心配も大きい。修行が上手くいかないんじゃないかとか、そういう不安じゃなくて。だって俺も体験したから、分かるんだ。本丸の時間ではたった四日。でも俺たちが行う修行は、そんな短い時間で成し遂げられるものではない。自分自身と深く所縁のある地で、元の主の傍で、数十年……元主の生き様を見守り続け、きちんと見つめ続けて、そこで得たもの、見出したものを今の主人のために持ち帰ってくるのだ。……数十年、そう、数十年だ。俺と鶴丸さんが二人だけで過ごした二年間なんてあっという間に霞んでしまうくらい、長い時間。あの刀は……あの付喪神は、主の元を離れていて大丈夫なんだろうか、と。
多分だけれど、それもあって、鶴丸さんは長いこと修行に行きたがらなかったのかな、なんて思っている。どうして決心がついたのか、俺はよく知らないのだけど。知っている風な髭切さんからわざわざ聞き出すなんて野暮なことはしたくないけど、想像するに、きっと修行に行く決意をしたきっかけもまた、主絡みのことなんだろうな、とも思う。帰ってくる三日後が楽しみだ。楽しみだけれど、やっぱりちょっとだけ、鶴丸さんの心の安否が心配だった。
――――
――難儀なものだな、と思う。
常に一番近くにいた気配を探して瞳を震わせた己が主の姿に、いつの日か古き隣人とちょっとした会話をした日、彼もまた同じような瞳をしていたことを思い出したのだ。
僕や弟が主や仲間のため、力を付けるためにこの本丸を離れた時、自分が胸に抱えるものは白い彼程大きなものではなかったように思う。お互いに特別だからこそお互いに不安定になるその姿に、ただの無機物だった刀の神が人の姿を得て、心を授かるというのがどういうことなのかをまざまざと見せられている気分にすらなる。人の心というのは、本当に難儀なものだ。かくいう自分ですら、修行に出向く前と帰ってきた今とで心境の変化というものは確かにあり、主への想いや心の持ちようが変わった自覚だってしかとある。本当に"生きる"とは面白く、不思議なものだ。
実は、僕ら兄弟が修行に行く前も後も……いいや、それよりずっと前から、旅立ち道具が一式、常に主の部屋に隠されていたのを僕は知っている。旅立つための道具はいつだって予備があり、誰がいつ修行へ出掛けたいと申し出てもいいように数に不足を出したことはなかった。けれど、主の部屋に置かれていた一式だけは、誰にも使われることなく、ただただそこにあった。それを見つけたのは偶然で、珍しく僕が近侍になった日に興味本位で彼女の書斎兼自室を隅々まで見て回った時。隠す、と言っても戸棚の奥底に眠っているとか、そんな感じではなく。誰でも手に取れる棚の上に一式置き、その上から布を被せてあるだけのものだ。一瞬、何故こんなところに、と疑問が浮かんだけれど、主が「秘密ですよ」と小さく笑うので、察せてしまうのだ。これは、あの刀のために置いてあるのだろうと。
この僕ですら気づいたんだ。彼女の一番近くで生きてきた本人なら、当然気づいているはず。どうしてこれを受け取らないのだろう。その疑問は、主の部屋で旅道具を見つけた日からしばらくの間自分の頭の中に残り続けることになる。たくさんの刀が修行へ向かい、自分と向き合い、成長して帰ってくる中、あの刀は一向にその兆しを見せない。当然、僕が近侍になるたびに訪れた主の部屋には、相変わらず布で姿を隠している旅道具が一式そこにあり続けている。それは、僕ら兄弟が修行へ行き、帰ってきた後も変わらなかった。いったいどうしてなんだろう。……その答えは、月が美しく本丸を照らしていたとある夜、偶然出くわした彼から直接聞くことになる。
縁側から月を見上げてひとり酒を煽る白い刀に、思わずあれ、と声を出した僕を振り返って、彼は軽く手を挙げて答えた。
「こんな時間にどうしたんだい?」
「それはこっちの台詞だな。俺は……見ての通り、月見酒ってところさ」
「う〜ん、……なら、僕はそのお供ってところかな」
月を見るために部屋を出てきただけで、特に何をする予定もなかった僕は、彼の隣に座り、空のお猪口を手に取って答える。白い刀は数回目を瞬かせたあと、可笑しそうにぷすりと笑って、そりゃいいと上機嫌に僕の持つお猪口に酒を注いだ。普段刀たちの話し声や笑い声、足音で賑やかなこの場所は、皆が寝静まったあとの遅い時間だけ静寂に包まれる。しんと静まった本丸に、僕と彼の他愛ない会話は密かに溶けていった。
お猪口の中身が三度空になった頃。その話を持ち掛けたのは、意外なことに彼の方からだった。
「なぁ。……君が……長いこと、この本丸を空けていた間、君は、どんな気持ちだったんだい」
「……どんな気持ち、ねぇ。そうだなぁ……」
静かに問いかけてくるその言葉を、流石にからかって流してしまう気にはなれず、ゆっくり思考を巡らせながら言葉を紡いだ。己が訪れた場所のこと、その時に感じたこと、これから先を主の刀として"生きる"と決めた時、見えた未来の変化について、それを持ち帰ってくるまでに考えたこと。そして主に向き合おうと決めた瞬間のこと。僕にしては慎重に、ひとつひとつ丁寧に話したと思う。彼は口を挟まずにただ黙って、その全てを真摯に受け止めていた。本当は軽くかわしてしまっても良かったのだけれど、昔のよしみだし、どうしてか、彼がきちんと旅立つ姿を、帰ってくる姿を見てみたい気がしたのだ。
僕が話終わると、彼は一言そうかとだけ声を落として、深く息をついた。そして数秒瞼を閉じ、にじゅうねん、と呟いた。それが何を指す年数なのか、僕は"鶴丸国永"と最後まで一緒に居たわけではないから分からないけれど。それでも長い年月を通り過ぎて行った記憶から、なんとなくは察することはできる。
「ま、僕らにとっては一瞬みたいなものさ」
「……ああ、そうだろうな」
「君は、まだ行かなくていいの?」
「…………」
「いったい何を、恐れているのかな」
ぽろぽろ自然と口から問いかけが出てきて、自分で気づく。なるほど、彼は何かを恐れているせいで本丸から出られないのか、と。ハッと息を飲み、目を見開く彼は、どうやらそこを突かれるとは思っていなかったらしい。何か言おうと口を開いて、しかし何の音にもならずに閉じられた。訪れた夜の静寂に、彼の長い長いため息だけが響く。お猪口に四杯目を注ぎ、僅かに舌に乗せたとき。空のお猪口を手に持ったまま、俯きがちに情けない話だよ、と彼が言葉を吐き捨てた。酒を口へ運ぶのは止めて、彼のその姿は目に入れずにゆるりと月を見上げる。気にせず話始める彼の声に、耳だけを傾けた。
情けない話さ。この本丸の時間ではたった四日。主からすれば、四日間俺が離れるだけだ。その間にこの本丸に何かあったら、という恐れは、確かに無いわけじゃあない。だがそんなことより、ずっと恐れているのは、俺自身のことだ。俺が、鶴丸国永が、"鶴丸国永"を見つめ直す旅を……二十年余り、してくるわけだ。……二十年だぜ? 確かに俺たちが生きた千年なんていう時間に比べれば、些細なものさ。君の言う通り、ほんの一瞬だろう。けど、けどな、今の主のあたたかさを知る前の二十年と、知った後の二十年じゃあ、訳が違う。その二十年の間で、俺が経験した何かで、俺の中の何かが変わってしまうことで、あの子への想いまで、変わってしまうんじゃないかと、そればかりが頭を占める。俺は、予想のつかない未来の俺が、此処に帰ってくる"鶴丸国永"が、恐ろしい。 それは果たして、本当に今此処に居る俺なんだろうか。
「…………なぁんだ、そんなことか」
「! は、……はぁ?」
「君、要は寂しいんだね」
「……身も蓋もないな」
「それは我慢するしかないよねぇ……。ただ、もう一個の悩みは、悩むことじゃないと思うけどな」
「どういうことだい?」
「いやぁ、簡単な話だよ。僕もね、大体は覚えているんだよ。元の主は誰だったか、どういう人生だったか、僕がどう人の手に渡ってきたか……僕というたくさんの名前を持った刀とは、どういうものだったのか。たくさんあった自分の名前自体は、忘れてしまったけどね。でも僕は、僕でしかない。……だから君も大丈夫さ、きっとね」
「……」
「ふふ、分からないかい?」
怪訝そうに眉を顰める彼に、ふと笑みが浮かぶ。これから君が行かなければならない修行とはつまりどういうことなのか。口に出して見せれば、彼は酷く驚いたように徐々に目を丸くしてみせた。
誰よりも見た目が人間とは程遠いこの付喪神は、どの付喪神よりも随分と、人間らしくなってしまったものだ。
――――
真っ白な神様のいない本丸は、どこを歩いても誰と話していても"足りない"と思わせられる三日間だった。
ぱらりと震える手を抑えながら手紙を開く。その様子を見ていた今日の近侍である日向くんは、少しだけ困り顔で「手紙は逃げないから、一旦座って落ち着こう?」 と背を押してくれた。気を遣わせてしまったことに申し訳なく思いながら、素直にソファに腰かけて深呼吸をひとつ。改めて、開いた手紙に視線を落とした。
――これが、彼からの最後の手紙のはずだ。慎重に、彼の意志を、決意を、一粒も落としてしまわないように時間をかけて読んでいく。修行のため本丸から離れた彼らが実際に何を見たのか、どう感じたのかは、どうしたってわたしの知れるところではなく。彼らからこうして定期的に送られてくる手紙に綴られた文字から想像して、読み取るしかない。数日前、決意に満ちた瞳で修行の許可を取りに来たわたしの白い神様はいったい何を見て、どう感じて、この手紙を書いたのだろう。
ふ、と詰まっていた息を吐きだす。その答えは……正直、分からなかった。というのが素直な感想だ。山姥切のように自分の存在の真相を知り、すべてを割り切ることが、吹っ切ることが出来たわけでもなく。鯰尾のように取り戻した確かな"何か"があったわけでもなく。ただ、どうしようもないことを、どうにもならないことを飲み込み、受け止め、それでも自分を自分の中で納得をして、歩き方を決めた。そうとも取れる内容で。けれど、最後にこれだけはと書き足された一文が、全てを語ってくれている気もして。それが答えのような気も、して。
未だ煩く鳴る心臓を落ち着かせるためにもう一度深呼吸をしていると、様子を伺っていた日向くんのわたしを呼ぶ声に顔を上げる。
「これも、主に」
「……これは?」
「鶴丸さんからの、手紙だよ」
「え? でも」
日向くんがふわりと目を細めて、実はもう一枚入ってたんだ。きっと、それを読み終わってから渡した方がいいと思って。と手紙をもう一枚差し出してくる。手紙と言っても、今しがた読んだばかりのそれのように綺麗に折りたたまれたものではなく、急いで封に入れたのだろうか、ところどころ皺になっていて、手紙というよりはメモ帳の切れ端のようなものだった。彼にしては珍しい、と不思議に思いつつも有難く受け取って、それを開く。……瞬間、心臓が大きく鼓動した。
優しく微笑みながら、「明日、楽しみだね」なんて声をかけてくれる近侍の彼に、喉の震えを抑えられなかったわたしは、情けなくも何も返すことが出来なかったのだ。
――――
俺にとって何より大事なことは、いつだってたったひとつだった。
全てが記憶通り過ぎ去ったことを悟り、ひとつ大きく息を吐きだして、よし、と目を閉じた瞬間、ぶわりと自分の周りを暖かな光が包む。久方ぶりの、本丸へ帰還の合図だ。
――確かに、一瞬で過ぎていった二十年余りだった。だけれど。今までの人生……刀生を考えると、一番長く感じた二十年でもあった。ふと気がつくと、あの子の姿を探してしまう。ふと気がつくと、あの子に話しかけようとしてしまう。千年もの間刀として過ごしてきたというのに、その先でたった数年共に生きただけの、神を求める審神者の声を、自分でも驚くほどに望んでしまう。……とても長い、二十年だった。
しかし髭切の言う通り、心の奥底に灯っている気持ちには何も変わりはない。それはそうだ。あいつに言われるまで思いつくことすらできないほど、俺はこの二十年という数字に囚われてしまっていたらしい。
「だって君、刀に残る思い出を一から全て思い返してみたところで、主への気持ちが何か変わったりしないだろう?」
何を当然なことを言っているのだろうと思った。――そして、"それ"なんだと、気づいた。俺たちがこれからすることは、つまりそういうことなのだ、と。
何百年も前の記憶を、今思い出せと言われたところで、身に起こった出来事が多すぎて一から十までは思い出せない。俺、鶴丸国永という主を目まぐるしく変えていった刀の中でも印象の強い逸話という逸話は、俺欲しさに墓を暴かれたという話くらいなものだから、余計にだ。妖を切ったことが無ければ、名が変わったこともない。あるとすれば、主を転々としていく内に刀の装飾が増えていったくらいか。過去に戻り、それを今改めて見てくることで、経験してくることで、自分自身を見つめ直すのが目的の旅がこれだ。刀に朧気に残る記憶の欠片を拾い集め、記憶の穴を埋める旅に、修行という名をつけられているのだ。
さて、刀に残る俺の思い出が今繊細に蘇ったところで、記憶の穴を全て埋めたところで、鶴丸国永という俺自身が大きく変わるだろうか。――そうさ、その答えは、どう考えたところで否でしかなかったのだ。だってそうだろう? 逸話の多い刀に比べてしまえば、俺の過ごした千年は、その膨大な時間に反してあまりに平坦なものだったのだから。あいつに笑われてしまった理由も頷けるというものだ。
これが、もしも元主に特別重たい感情を抱いていたことがある刀ならば、過去を巡ったことで己の在り方が大きく変化したのかもしれないが、そういう点では、幸か不幸か、主人の手をぽんぽん幾度も渡り歩いてしまったお陰で強く思うほどの固定の相手が居なかった俺には、なんて不要な心配なのかと髭切は笑ったのだろう。彼もまた、名に執着できないという部分で俺と似通った感情を抱いていたからこその助言だったのかもしれないが。喜べばいいのか悲しめばいいのか分かったものじゃないな。
この二十年余り、己で己自身の有り方を問いかけながら、元主の生き様を見届けながら、それでもただひたすらに想い続けていたことがあった。何をしていても、何度季節が過ぎても、ただひたすらに、たったひとつ、叫びだしてしまいたいほど胸の奥を叩き続けてくる想いがあった。主へ最後の定期連絡の手紙を送る際、胸の奥から一滴溢れてしまったそれを、たった四文字のそれを、衝動のままに書きなぐり、手紙と共に封に入れてしまったけれど。今思えば、入れるべきじゃなかったのかもしれないと頭を抱えてしまうほど、感情だけが動いた瞬間だった。……あれでは、恋しい恋しいと鳴いてしまっているようなものだ。ああ、全く、本当に。
だけど、仕方がないじゃないかとも、思う。人としての心を得たのは俺を顕現した主のせいだ。無機物だった刀が、付喪神と呼ばれるそれらが人間らしくなってしまったのも、主のせいだ。ならばこのくらい許してくれたっていいじゃないか。とも。鶴と名が付きながらも一人の主の元に留まり続けることが出来なかった俺が、今度こそ一途であり続けたいと願ってしまったのは、誰でもないあの主のせいなのだ。あの子の傍に、在り続けたい。 その気持ちに、一滴も嘘は無いのだから。
懐かしい空気が自分を包む。同時に「鶴丸、」と自分を呼ぶ声がして、瞼を持ち上げる。それはとても、とても長い間聞いていなかった……けれど他の誰のものよりも耳に残り続け、求め続けていた声だった。その音の出所を辿って顔を向ければ、俺を真っすぐに見つめる彼女がいた。目が合うと、その瞳が大きく揺れる。
――帰ってきた……帰ってきたんだ。彼女にとってはたった数日の、しかし自分にとっては二十年越しの再会に、言葉よりも先に駆け出していた俺を、自分より小さな彼女はしっかりと受け止めてくれたのだ。
相変わらず腕の中にすっぽり収まる彼女の体温を感じながら、深く深く息を吐きだした。あたたかい。此処へ帰ってきて、彼女に触れて、やっと俺という鶴丸国永が完成した気さえする。自分で言ったじゃないか。彼女にとっての鶴丸国永は、"俺"でないといけないのだと。……不安がることなど、最初からなかったんだ。
腕の中で小さく震える主に、名を呼んでくれと頼む自分の声が驚くほど掠れていて、手遅れだろうに、それに気づかれたくなくて思わず腕に力を込めてしまう。俺の言葉に応えて何度も俺の名を呼んでくれる主の声もまた、少しずつ湿っていく。……なぁ、きみにとってこの四日間は、一体どう映ったんだろうな。この短くも長い時間の中で、一体きみにどんな変化をもたらしたんだい。きみにとってはたった四日だったけれど、その束の間の空白さえ心底寂しがってくれていたのだと、きみの為の刀を恋しがってくれていたのだと、そう自惚れてしまうほどには必死にしがみついてくるものだから。
……あぁ、けれどきっと。きっと、きみなら。
「……ただいま、俺の主」
「おかえり、わたしの……鶴丸、国永」
「ああ。……ああ、ただいま」
「っあ、あのね、あの」
「うん?」
「わたし……、わ、っ わたしも、会いたかった……っ!」
きみなら、そう言ってくれるだろうと分かっていたんだ。
懐かしい空気が自分を包む。同時に「鶴丸、」と自分を呼ぶ声がして、瞼を持ち上げる。それはとても、とても長い間聞いていなかった……けれど他の誰のものよりも耳に残り続け、ずっと求め続けていた声だった。その音の出所を辿って顔を向ければ、俺を真っすぐに見つめる彼女が立っていた。目が合うと、その瞳が大きく揺れる。
――ああ、帰ってきた……帰ってきたんだ。彼女にとってはたった数日の、しかし自分にとっては二十年越しの再会に、言葉よりも先に駆け出していた俺を、自分より小さな体で彼女はしっかりと受け止めてくれたのだ。
……帰りが待ち遠しいな、と思った。
池を泳ぐ鯉に餌をやっている主と、それを覗き込んでいる今剣と蛍丸、しゃがんでいる三人のさらに後ろから、立ったまま池を覗き込む燭台切さんの四人。非番中ですることもない俺は、ぼんやりとその平和な光景を眺めていた。
どうやら最近、本丸に初期から設置されている池に錦鯉が泳ぎ始めたらしいのだ。しかし、本丸内の誰一人として錦鯉を買った覚えなんかはなく、主ですらもいつから住み始めたのか記憶にないらしい。更にこんのすけでさえも知らないと来た。ただこんのすけは、本丸の潤いに合わせて池の生物も変化するのかもしれないと予想を立てていたんだけど。主や俺たちの案内役を務めている割には、意外と知らないことが多いみたい。……確かに、鶴丸さんと薬研から聞いた話では、鈴蘭という見知らぬ花が種を蒔いてもいないのに突然咲いた事例もあったとのことだし、このくらいの変化はこの先も出てくるのかもしれない。とにかく、数日様子を伺ったところ錦鯉に害はなさそうだったので、その美しい外見に主はもちろん、刀たち皆がとにかく興味津々で。池を見に来る頻度が上がったということだ。
「おや、君がひとりで居るのは、なんだか珍しいねぇ」
縁側でただぼうっとしていた俺に声をかけて来たのは、源氏の刀である兄弟の兄の方だった。後ろからは当然のように膝丸さんが付いている。よいしょ、と声を出しながら隣に腰かけた彼、髭切さんは「そういえば、今日は珍しく鶴丸を見ていないね」だなんて言うから、それってわざと? って言葉と共に苦笑を浮かべてしまった。流石に、その隣に座った弟の刀も困り顔で兄を呼んでいる。対して、本当に自分が変なことを言ったと思っていないらしい髭切さんは、おやおやと首を傾げているものだから、これは彼の弟さんは日々苦労しているんだろうなぁと密かに同情した。
「今日どころか、明日も明後日も鶴丸さんは居ませんよ。――修行中、なんですから」
「……あぁ、そっか。うん……、そうだったね」
俺の言葉を聞いた髭切さんは少しだけ目を細めて、ゆったりと頷いた。そして先程の俺と同じように、池に集まる刀たちと主を見遣って、呟く。「そう、やっと決心できたんだね」
その言葉には何も返さず、再び主たちへ視線を向ける。いつの間にか、燭台切さんの手を取って立ち上がった主の背にしがみつき、おぶられることになっていた今剣と、それを羨ましそうに見上げて頬を膨らませる蛍丸と、そんな三人にくすくす笑いながら、落ちたりしないようにだろう、さり気なく池から距離を取らせる燭台切さんが会話を続けている。主がひとりで居る姿を見る機会は書斎の中でくらいしかないほど、主の周りにはあんな風にいつだって誰かが傍にいて、いつだって誰かが気に掛けている。ここにいる俺だって、隣にいるこの兄弟だってそうだろう。だけど、……でも、なんだか。……なんだか。
ひゅう、と音を立ててひんやりとした風が吹き抜ける。小さくくしゃみをした主の背から今剣がひょいっと身軽に飛び降り、代わりに燭台切さんがそっと背を押した。皆がこちらへ顔を向けたから、きっと日が落ちる前に部屋の中へ入ろうと声をかけたのかもしれない。もうすっかり冬の季節だ。たまに本丸にも小雪がちらちらと降ってくるくらい、風が冷たくなってきている。昼間や午後はまだ温かいけれど、夕暮れから一気に空気が鋭くなるものだから、この季節に主が長い時間外に出てることをあまり良く思えないその気持ちはよく分かる。会話を続けながら、俺たちに気が付いた主が小さく手を振ってくれたから、俺も自然と浮かぶ笑顔をそのままに大きく振り返した。
「っふふ、いじらしいね」
たまらず、といった声色でそんな言葉が聞こえて、思わず隣にいる刀を見上げた。髭切さんは、どこかくすぐったそうに眉を下げて小さく喉を鳴らしている。まるで同感だと言うように膝丸さんがふすりと笑みを落として、兄者、楽しんでるだろう? と呟いた。髭切さんは「さぁね」としか答えなかったけれど。その声が少し喜々としていたものだから。
まぁ……分かるけど。分かるけど、今は勘弁してくれよな、と心の中でため息をついて、肩を落とした。
多分、二人も気づいたんだろう。俺たちに手を振ったその一瞬、主の瞳が不安気に揺れたのを。今ここには居ない……誰かを、探すように。本丸の時間ではたった四日。されど四日だ。鶴丸さんが己を見つめ直すため、己と向き合うため、遂に修行に出かけてからまだ一日目。あと三日、この場所にあの真っ白な主の守り神が居ないことが、主の隣に立っていないことが、こんなにも"足りない"と、奇妙だと感じるなんて。正直、予想していなかった。早く帰ってこないかな……なんて、叶わない願いを空へ飛ばしてしまうくらいには。
そしてそれ以上に、俺は鶴丸さんに対する心配も大きい。修行が上手くいかないんじゃないかとか、そういう不安じゃなくて。だって俺も体験したから、分かるんだ。本丸の時間ではたった四日。でも俺たちが行う修行は、そんな短い時間で成し遂げられるものではない。自分自身と深く所縁のある地で、元の主の傍で、数十年……元主の生き様を見守り続け、きちんと見つめ続けて、そこで得たもの、見出したものを今の主人のために持ち帰ってくるのだ。……数十年、そう、数十年だ。俺と鶴丸さんが二人だけで過ごした二年間なんてあっという間に霞んでしまうくらい、長い時間。あの刀は……あの付喪神は、主の元を離れていて大丈夫なんだろうか、と。
多分だけれど、それもあって、鶴丸さんは長いこと修行に行きたがらなかったのかな、なんて思っている。どうして決心がついたのか、俺はよく知らないのだけど。知っている風な髭切さんからわざわざ聞き出すなんて野暮なことはしたくないけど、想像するに、きっと修行に行く決意をしたきっかけもまた、主絡みのことなんだろうな、とも思う。帰ってくる三日後が楽しみだ。楽しみだけれど、やっぱりちょっとだけ、鶴丸さんの心の安否が心配だった。
――――
――難儀なものだな、と思う。
常に一番近くにいた気配を探して瞳を震わせた己が主の姿に、いつの日か古き隣人とちょっとした会話をした日、彼もまた同じような瞳をしていたことを思い出したのだ。
僕や弟が主や仲間のため、力を付けるためにこの本丸を離れた時、自分が胸に抱えるものは白い彼程大きなものではなかったように思う。お互いに特別だからこそお互いに不安定になるその姿に、ただの無機物だった刀の神が人の姿を得て、心を授かるというのがどういうことなのかをまざまざと見せられている気分にすらなる。人の心というのは、本当に難儀なものだ。かくいう自分ですら、修行に出向く前と帰ってきた今とで心境の変化というものは確かにあり、主への想いや心の持ちようが変わった自覚だってしかとある。本当に"生きる"とは面白く、不思議なものだ。
実は、僕ら兄弟が修行に行く前も後も……いいや、それよりずっと前から、旅立ち道具が一式、常に主の部屋に隠されていたのを僕は知っている。旅立つための道具はいつだって予備があり、誰がいつ修行へ出掛けたいと申し出てもいいように数に不足を出したことはなかった。けれど、主の部屋に置かれていた一式だけは、誰にも使われることなく、ただただそこにあった。それを見つけたのは偶然で、珍しく僕が近侍になった日に興味本位で彼女の書斎兼自室を隅々まで見て回った時。隠す、と言っても戸棚の奥底に眠っているとか、そんな感じではなく。誰でも手に取れる棚の上に一式置き、その上から布を被せてあるだけのものだ。一瞬、何故こんなところに、と疑問が浮かんだけれど、主が「秘密ですよ」と小さく笑うので、察せてしまうのだ。これは、あの刀のために置いてあるのだろうと。
この僕ですら気づいたんだ。彼女の一番近くで生きてきた本人なら、当然気づいているはず。どうしてこれを受け取らないのだろう。その疑問は、主の部屋で旅道具を見つけた日からしばらくの間自分の頭の中に残り続けることになる。たくさんの刀が修行へ向かい、自分と向き合い、成長して帰ってくる中、あの刀は一向にその兆しを見せない。当然、僕が近侍になるたびに訪れた主の部屋には、相変わらず布で姿を隠している旅道具が一式そこにあり続けている。それは、僕ら兄弟が修行へ行き、帰ってきた後も変わらなかった。いったいどうしてなんだろう。……その答えは、月が美しく本丸を照らしていたとある夜、偶然出くわした彼から直接聞くことになる。
縁側から月を見上げてひとり酒を煽る白い刀に、思わずあれ、と声を出した僕を振り返って、彼は軽く手を挙げて答えた。
「こんな時間にどうしたんだい?」
「それはこっちの台詞だな。俺は……見ての通り、月見酒ってところさ」
「う〜ん、……なら、僕はそのお供ってところかな」
月を見るために部屋を出てきただけで、特に何をする予定もなかった僕は、彼の隣に座り、空のお猪口を手に取って答える。白い刀は数回目を瞬かせたあと、可笑しそうにぷすりと笑って、そりゃいいと上機嫌に僕の持つお猪口に酒を注いだ。普段刀たちの話し声や笑い声、足音で賑やかなこの場所は、皆が寝静まったあとの遅い時間だけ静寂に包まれる。しんと静まった本丸に、僕と彼の他愛ない会話は密かに溶けていった。
お猪口の中身が三度空になった頃。その話を持ち掛けたのは、意外なことに彼の方からだった。
「なぁ。……君が……長いこと、この本丸を空けていた間、君は、どんな気持ちだったんだい」
「……どんな気持ち、ねぇ。そうだなぁ……」
静かに問いかけてくるその言葉を、流石にからかって流してしまう気にはなれず、ゆっくり思考を巡らせながら言葉を紡いだ。己が訪れた場所のこと、その時に感じたこと、これから先を主の刀として"生きる"と決めた時、見えた未来の変化について、それを持ち帰ってくるまでに考えたこと。そして主に向き合おうと決めた瞬間のこと。僕にしては慎重に、ひとつひとつ丁寧に話したと思う。彼は口を挟まずにただ黙って、その全てを真摯に受け止めていた。本当は軽くかわしてしまっても良かったのだけれど、昔のよしみだし、どうしてか、彼がきちんと旅立つ姿を、帰ってくる姿を見てみたい気がしたのだ。
僕が話終わると、彼は一言そうかとだけ声を落として、深く息をついた。そして数秒瞼を閉じ、にじゅうねん、と呟いた。それが何を指す年数なのか、僕は"鶴丸国永"と最後まで一緒に居たわけではないから分からないけれど。それでも長い年月を通り過ぎて行った記憶から、なんとなくは察することはできる。
「ま、僕らにとっては一瞬みたいなものさ」
「……ああ、そうだろうな」
「君は、まだ行かなくていいの?」
「…………」
「いったい何を、恐れているのかな」
ぽろぽろ自然と口から問いかけが出てきて、自分で気づく。なるほど、彼は何かを恐れているせいで本丸から出られないのか、と。ハッと息を飲み、目を見開く彼は、どうやらそこを突かれるとは思っていなかったらしい。何か言おうと口を開いて、しかし何の音にもならずに閉じられた。訪れた夜の静寂に、彼の長い長いため息だけが響く。お猪口に四杯目を注ぎ、僅かに舌に乗せたとき。空のお猪口を手に持ったまま、俯きがちに情けない話だよ、と彼が言葉を吐き捨てた。酒を口へ運ぶのは止めて、彼のその姿は目に入れずにゆるりと月を見上げる。気にせず話始める彼の声に、耳だけを傾けた。
情けない話さ。この本丸の時間ではたった四日。主からすれば、四日間俺が離れるだけだ。その間にこの本丸に何かあったら、という恐れは、確かに無いわけじゃあない。だがそんなことより、ずっと恐れているのは、俺自身のことだ。俺が、鶴丸国永が、"鶴丸国永"を見つめ直す旅を……二十年余り、してくるわけだ。……二十年だぜ? 確かに俺たちが生きた千年なんていう時間に比べれば、些細なものさ。君の言う通り、ほんの一瞬だろう。けど、けどな、今の主のあたたかさを知る前の二十年と、知った後の二十年じゃあ、訳が違う。その二十年の間で、俺が経験した何かで、俺の中の何かが変わってしまうことで、あの子への想いまで、変わってしまうんじゃないかと、そればかりが頭を占める。俺は、予想のつかない未来の俺が、此処に帰ってくる"鶴丸国永"が、恐ろしい。 それは果たして、本当に今此処に居る俺なんだろうか。
「…………なぁんだ、そんなことか」
「! は、……はぁ?」
「君、要は寂しいんだね」
「……身も蓋もないな」
「それは我慢するしかないよねぇ……。ただ、もう一個の悩みは、悩むことじゃないと思うけどな」
「どういうことだい?」
「いやぁ、簡単な話だよ。僕もね、大体は覚えているんだよ。元の主は誰だったか、どういう人生だったか、僕がどう人の手に渡ってきたか……僕というたくさんの名前を持った刀とは、どういうものだったのか。たくさんあった自分の名前自体は、忘れてしまったけどね。でも僕は、僕でしかない。……だから君も大丈夫さ、きっとね」
「……」
「ふふ、分からないかい?」
怪訝そうに眉を顰める彼に、ふと笑みが浮かぶ。これから君が行かなければならない修行とはつまりどういうことなのか。口に出して見せれば、彼は酷く驚いたように徐々に目を丸くしてみせた。
誰よりも見た目が人間とは程遠いこの付喪神は、どの付喪神よりも随分と、人間らしくなってしまったものだ。
――――
真っ白な神様のいない本丸は、どこを歩いても誰と話していても"足りない"と思わせられる三日間だった。
ぱらりと震える手を抑えながら手紙を開く。その様子を見ていた今日の近侍である日向くんは、少しだけ困り顔で「手紙は逃げないから、一旦座って落ち着こう?」 と背を押してくれた。気を遣わせてしまったことに申し訳なく思いながら、素直にソファに腰かけて深呼吸をひとつ。改めて、開いた手紙に視線を落とした。
――これが、彼からの最後の手紙のはずだ。慎重に、彼の意志を、決意を、一粒も落としてしまわないように時間をかけて読んでいく。修行のため本丸から離れた彼らが実際に何を見たのか、どう感じたのかは、どうしたってわたしの知れるところではなく。彼らからこうして定期的に送られてくる手紙に綴られた文字から想像して、読み取るしかない。数日前、決意に満ちた瞳で修行の許可を取りに来たわたしの白い神様はいったい何を見て、どう感じて、この手紙を書いたのだろう。
ふ、と詰まっていた息を吐きだす。その答えは……正直、分からなかった。というのが素直な感想だ。山姥切のように自分の存在の真相を知り、すべてを割り切ることが、吹っ切ることが出来たわけでもなく。鯰尾のように取り戻した確かな"何か"があったわけでもなく。ただ、どうしようもないことを、どうにもならないことを飲み込み、受け止め、それでも自分を自分の中で納得をして、歩き方を決めた。そうとも取れる内容で。けれど、最後にこれだけはと書き足された一文が、全てを語ってくれている気もして。それが答えのような気も、して。
未だ煩く鳴る心臓を落ち着かせるためにもう一度深呼吸をしていると、様子を伺っていた日向くんのわたしを呼ぶ声に顔を上げる。
「これも、主に」
「……これは?」
「鶴丸さんからの、手紙だよ」
「え? でも」
日向くんがふわりと目を細めて、実はもう一枚入ってたんだ。きっと、それを読み終わってから渡した方がいいと思って。と手紙をもう一枚差し出してくる。手紙と言っても、今しがた読んだばかりのそれのように綺麗に折りたたまれたものではなく、急いで封に入れたのだろうか、ところどころ皺になっていて、手紙というよりはメモ帳の切れ端のようなものだった。彼にしては珍しい、と不思議に思いつつも有難く受け取って、それを開く。……瞬間、心臓が大きく鼓動した。
優しく微笑みながら、「明日、楽しみだね」なんて声をかけてくれる近侍の彼に、喉の震えを抑えられなかったわたしは、情けなくも何も返すことが出来なかったのだ。
――――
俺にとって何より大事なことは、いつだってたったひとつだった。
全てが記憶通り過ぎ去ったことを悟り、ひとつ大きく息を吐きだして、よし、と目を閉じた瞬間、ぶわりと自分の周りを暖かな光が包む。久方ぶりの、本丸へ帰還の合図だ。
――確かに、一瞬で過ぎていった二十年余りだった。だけれど。今までの人生……刀生を考えると、一番長く感じた二十年でもあった。ふと気がつくと、あの子の姿を探してしまう。ふと気がつくと、あの子に話しかけようとしてしまう。千年もの間刀として過ごしてきたというのに、その先でたった数年共に生きただけの、神を求める審神者の声を、自分でも驚くほどに望んでしまう。……とても長い、二十年だった。
しかし髭切の言う通り、心の奥底に灯っている気持ちには何も変わりはない。それはそうだ。あいつに言われるまで思いつくことすらできないほど、俺はこの二十年という数字に囚われてしまっていたらしい。
「だって君、刀に残る思い出を一から全て思い返してみたところで、主への気持ちが何か変わったりしないだろう?」
何を当然なことを言っているのだろうと思った。――そして、"それ"なんだと、気づいた。俺たちがこれからすることは、つまりそういうことなのだ、と。
何百年も前の記憶を、今思い出せと言われたところで、身に起こった出来事が多すぎて一から十までは思い出せない。俺、鶴丸国永という主を目まぐるしく変えていった刀の中でも印象の強い逸話という逸話は、俺欲しさに墓を暴かれたという話くらいなものだから、余計にだ。妖を切ったことが無ければ、名が変わったこともない。あるとすれば、主を転々としていく内に刀の装飾が増えていったくらいか。過去に戻り、それを今改めて見てくることで、経験してくることで、自分自身を見つめ直すのが目的の旅がこれだ。刀に朧気に残る記憶の欠片を拾い集め、記憶の穴を埋める旅に、修行という名をつけられているのだ。
さて、刀に残る俺の思い出が今繊細に蘇ったところで、記憶の穴を全て埋めたところで、鶴丸国永という俺自身が大きく変わるだろうか。――そうさ、その答えは、どう考えたところで否でしかなかったのだ。だってそうだろう? 逸話の多い刀に比べてしまえば、俺の過ごした千年は、その膨大な時間に反してあまりに平坦なものだったのだから。あいつに笑われてしまった理由も頷けるというものだ。
これが、もしも元主に特別重たい感情を抱いていたことがある刀ならば、過去を巡ったことで己の在り方が大きく変化したのかもしれないが、そういう点では、幸か不幸か、主人の手をぽんぽん幾度も渡り歩いてしまったお陰で強く思うほどの固定の相手が居なかった俺には、なんて不要な心配なのかと髭切は笑ったのだろう。彼もまた、名に執着できないという部分で俺と似通った感情を抱いていたからこその助言だったのかもしれないが。喜べばいいのか悲しめばいいのか分かったものじゃないな。
この二十年余り、己で己自身の有り方を問いかけながら、元主の生き様を見届けながら、それでもただひたすらに想い続けていたことがあった。何をしていても、何度季節が過ぎても、ただひたすらに、たったひとつ、叫びだしてしまいたいほど胸の奥を叩き続けてくる想いがあった。主へ最後の定期連絡の手紙を送る際、胸の奥から一滴溢れてしまったそれを、たった四文字のそれを、衝動のままに書きなぐり、手紙と共に封に入れてしまったけれど。今思えば、入れるべきじゃなかったのかもしれないと頭を抱えてしまうほど、感情だけが動いた瞬間だった。……あれでは、恋しい恋しいと鳴いてしまっているようなものだ。ああ、全く、本当に。
だけど、仕方がないじゃないかとも、思う。人としての心を得たのは俺を顕現した主のせいだ。無機物だった刀が、付喪神と呼ばれるそれらが人間らしくなってしまったのも、主のせいだ。ならばこのくらい許してくれたっていいじゃないか。とも。鶴と名が付きながらも一人の主の元に留まり続けることが出来なかった俺が、今度こそ一途であり続けたいと願ってしまったのは、誰でもないあの主のせいなのだ。あの子の傍に、在り続けたい。 その気持ちに、一滴も嘘は無いのだから。
懐かしい空気が自分を包む。同時に「鶴丸、」と自分を呼ぶ声がして、瞼を持ち上げる。それはとても、とても長い間聞いていなかった……けれど他の誰のものよりも耳に残り続け、求め続けていた声だった。その音の出所を辿って顔を向ければ、俺を真っすぐに見つめる彼女がいた。目が合うと、その瞳が大きく揺れる。
――帰ってきた……帰ってきたんだ。彼女にとってはたった数日の、しかし自分にとっては二十年越しの再会に、言葉よりも先に駆け出していた俺を、自分より小さな彼女はしっかりと受け止めてくれたのだ。
相変わらず腕の中にすっぽり収まる彼女の体温を感じながら、深く深く息を吐きだした。あたたかい。此処へ帰ってきて、彼女に触れて、やっと俺という鶴丸国永が完成した気さえする。自分で言ったじゃないか。彼女にとっての鶴丸国永は、"俺"でないといけないのだと。……不安がることなど、最初からなかったんだ。
腕の中で小さく震える主に、名を呼んでくれと頼む自分の声が驚くほど掠れていて、手遅れだろうに、それに気づかれたくなくて思わず腕に力を込めてしまう。俺の言葉に応えて何度も俺の名を呼んでくれる主の声もまた、少しずつ湿っていく。……なぁ、きみにとってこの四日間は、一体どう映ったんだろうな。この短くも長い時間の中で、一体きみにどんな変化をもたらしたんだい。きみにとってはたった四日だったけれど、その束の間の空白さえ心底寂しがってくれていたのだと、きみの為の刀を恋しがってくれていたのだと、そう自惚れてしまうほどには必死にしがみついてくるものだから。
……あぁ、けれどきっと。きっと、きみなら。
「……ただいま、俺の主」
「おかえり、わたしの……鶴丸、国永」
「ああ。……ああ、ただいま」
「っあ、あのね、あの」
「うん?」
「わたし……、わ、っ わたしも、会いたかった……っ!」
きみなら、そう言ってくれるだろうと分かっていたんだ。
21.01.24