朝。普段起きるよりも少し早い時間に目が覚め、身支度を整えていると「主! 起きてる〜?」と襖の向こうから自分を呼ぶ声がして、まだ覚醒しきれてない頭で、そういえば今日も近侍は鯰尾にお願いしたのだったな、とゆったり思考を巡らせ、入ってきて良いよと声をかける。起きているとは思わなかったらしく、襖を開けた先には僅かに驚いた顔があり、「俺が起こそうと思ってたのに、主起きるの早いなぁ」と少しだけ残念そうな声でぼやきながらこちらへ歩いてくる鯰尾の、高いところで結ばれている艶やかな黒髪が左右に揺れるのを、ぼんやり見つめる。
昔は流すように緩く結んでいた長い髪を、ポニーテールにするようになったのは、彼が修行から帰って来てからだ。この本丸で、一番最初に修行の旅に出たいと頼み込んできたのは他でもない彼だったのを、寝ぼけ頭で思い出した。そういえばあれは、いつの日だっただろうか。
――わたしが審神者としてまた務める事になったのは、今からほんの半年程前の夏のこと。今のわたしにとっての"初期刀"である彼と鶴丸は、わたしが審神者に戻った時点から……正確には、わたしが審神者を辞める時点でもう、最大まで練度を極めていた。
この職に戻ったからには、この本丸という場所が、わたしという審神者と共に此処できちんと生き、存在していることを証明するためにも、他の審神者との交流の場でもある演練に参加していかなくてはいけない。審神者も刀もいなくなり、廃墟として死んでいく本丸になど存在意義もその場を守る力もなく、時間遡行軍に荒らされる前にさっさと解体してしまえと上から命が出されるのは当然のことだからだ。では、わたしがいなくなった後、戻ってくるまで、本丸はどうしていたのかというと……鯰尾と鶴丸がこんのすけと手を組み、ギリギリのところで繋ぎ止めてくれていたからなのだが……その話は、またの機会にしよう。
ややあって、審神者に戻ったわたしが、急ぎ演練に参加することになった日。鍛刀もせず、たったの二振りだけ……右に鯰尾を、左に鶴丸を連れ、二振りの一歩前を歩き、演練の場に赴いたわたしは、他の審神者の目にはそれはそれは異質に映ったことだろう。審神者になって一番最初に政府に初期刀として与えられ、顕現するはずの打刀が不在の上、連れている二振りは史実上関連性がなく、更には最高練度ときた。わたしでもそんな人が演練場に現れたら怪訝な目で見てしまうと思う。初期刀が演練場へやってこないことは珍しくもないけれど、二振りでやってくる場合は、その二振りに強い関連性がある(例えば、源氏の二振りのみを連れてくる審神者は多く見かける)か、そもそも六振り以下で演練場へ来ることのメリットが、戦力、戦略的に無いからだ。
……正直、まだ審神者という存在、刀剣男士という存在への後ろめたさが心の大半を占めていたその頃は、周りからのそんな視線がとても痛くて、恐ろしかった。例えそれが嫌悪の視線ではなくても、ただの好奇心からの視線だったとしてもだ。それでもまずは、この二振りだけで演練場へ行こうと決めたのは自分なのだからと、俯かずに顔を上げ続け、自分の持ち場に着いたわたしを、鶴丸と鯰尾は満足げに見守っていてくれた。
けれど、どこからか聞こえた「一勝は出来るな」という誰かの声。演練場に響いたその言葉が、じくりと容赦なく、確実にわたしの心に突き刺さる。きっと、……いや、確実にその言葉はわたしに向けられていたのだろう。それまでわたしへの好奇心で満ち溢れていたとはいえ、比較的穏やかだった周りの空気を、両側に居る二振りが一瞬で凍らせてしまうくらいだったのだから。
その言葉が聞こえた途端、二振りからぶわりと溢れたそれは、確かな殺気だった。声の主のところまで行こうとしないだけ、マシだと思うほどの。思わず言葉を向けられた方を見れば、恐らく先程の声の主が、遠目でも彼らから向けられる強い殺気にたじろいでいるのが分かる。このままではいけないと、静かに湧き上がらせる怒りを落ち着かせるように、右手で鯰尾の、左手で鶴丸の手を取った。「落ち着いて」
手に触れたことに驚いてか、わたしの咎める声に気が付いてか、どちらにしろ、はっと殺意を引っ込めた二人に、まるで双子のように同じ反応をするものだと気が抜けて、少しだけ笑う。
およそ二年ぶりとなる他の刀との手合わせを、どうか楽しんできてほしい。演練場で、戦う感覚を取り戻して来てくれればそれでいい。例えどんな相手だろうと、他の審神者に、無闇に敵意を向ける必要はない。これは鍛錬の場であり、戦場ではない。敵を葬り去る場所じゃない。気楽に挑んでくれればそれでいいのだ。……でも。……でも、もし、出来る事ならば。
「どうか……負けないで」
出来ることなら、勝って来てほしい。たった一勝でもいいから、勝利をもぎ取って来てほしい。こんなにも自惚れてしまうほどわたしの事を想ってくれた刀は、わたしが大事に想っている刀は、あの頃から衰えてなんていないのだと。この上なく贅沢な願いだけれど、今のわたしという審神者に、周りの言葉なんて気にならなくなるくらい、今一度、僅かでも自信を持たせてほしかった。
「ああ、もちろんだ」
わたしの左手の指先をそっと握り返して、目を細めて鶴丸は言う。
「俺たちが負けるはずないですって!」
わたしの右手を両手で強く包み込んで、眩しい笑顔を浮かべてで鯰尾は言う。
そんな二振りの目を交互に見て、お礼の意を込めて頷いてから、行ってらっしゃいと手を離し、送り出した。一戦目開始準備の合図が、響き渡った。
いざ演練が始まってみると、二振りにとって久々の戦闘だとは思えないくらい、息の合った連携を彼らは見せてくれた。わたしだけではなく、観戦していた他の審神者さんたちも思わず目を見張っていたほどに。
鶴丸が相手の太刀と迫り合いをしていたか思えば、すかさず鯰尾が後ろから鶴丸の肩を借りて空中へ飛びあがり、鶴丸は、鯰尾が飛んだのを確認した次の瞬間には、相手が鯰尾の登場に怯んだ一瞬を逃さず押しのけていて、その勢いのまま自分の真後ろに刀を振り回し、自分達の背を狙いに来ていた相手を素早く切りつけ、鯰尾は重心をかけて鶴丸が迫り合いをしていた相手を沈ませていた。
機動の早い短刀には、比較的耐久力のある鶴丸が盾兵を使い、身を挺して庇っている間に鯰尾が投石兵や弓兵を呼び出し、短刀の動きが眩んだところをすかさず素早く対処する。太刀以上が相手なら、鶴丸が全面的に引き受けつつも、鯰尾がその他の刀種が鶴丸を狙わないよう立ち回り、隙があれば弓兵での援護を忘れない。大太刀や薙刀相手には流石に苦戦しつつも、鯰尾が相手の刀すら足場に利用して、くるくると空を飛び回り、鶴丸が背後を常に狙えるよう立ち回っていた。……お互いにお互いの動きを理解しているからこその、まるで、何度もそうして敵と戦ってきたかのような動きだったのだ。少なくとも二年前までの記憶では、こんなに上手く連携の取れる刀は存在しなかったはずなのに。
だから、つまりは、そういうことなのだと。やがて理解した。彼らにとって、これは――「久々の戦闘」では、無かったのだと。
気づいた瞬間詰まってしまう息を何とか吐き出して、二振りの雄姿をひたすらに見守る。本当は審神者から刀達に采配を振るうのが一般的なのだけれど、わたし自身久々の演練であること、彼らの鈍っているはずの──そう思っていたのはわたしだけだったわけだが──体を解すことが一番の目的であったことから、今日は何も言わずに見ていてほしいと言われてしまっているので、ただじっと見守ることに専念していたのだ。……しかし、本当は。自分がいない間に何度も何度もそうして二振りだけで戦って来たのだろうと、戦場に、赴いたことがあるのだろうと分かるその姿を見て、気づかないわけがなかった。二振りが何も言わずに見ていてほしいと言ったのは、単に久しぶりの演練だからというわけではなく、わたしがいない間にも成長した、"己の姿を見てほしかった"からなのだ、と。
──結果、さすがに全戦全勝とはいかなかったものの、予想していた以上の成果を残してみせてくれた。正直なところ、数で押し切られてしまう未来を予想していなかったわけではないため、一勝できれば嬉しいと思っていたにも関わらず、たった二振りというハンデの中で五戦中三勝ももぎ取ってみせたのだ。
演練場で傷だらけになった体と刀本体は、審神者が待機している場外へ一歩出れば元通りに修復されるシステムになっているため、この演練場での霊力の使用は全くもって不要だ。一瞬で傷一つない姿に戻り、お互いの握り拳を軽くコツンと合わせながら歩いてきた二振りに「おかえり」と声を掛ければ、誇らしげに笑いながら「ただいま」がふたつ返ってくる。どうやらこの結果に、彼らも概ね満足しているようだった
負けた対戦相手については、二振りで対処するならあの時はこう動いた方が良かったかもしれない、あの場面はこう動いた方が次に繋がりやすい、しかしあの時のフォローは助かったなど、そのまま流れるように今日の反省会を始めた彼らに、ほっと息をつく。二振りにとって充実していたようで何よりだ。本当に良かった。
彼らからではない声が自分にかけられて、大げさに肩が跳ねてしまったのは、そんな和やかな空気に包まれていた時だ。……それは、演練が始まる前に「一勝は出来る」と言った人の声だっだ。
……具体的にその審神者に何を言われたのかは、実のところあまり覚えていない。どうして二振りしか連れてこなかったのかとか、何故演練中に指示を出さなかったのかとか、仕舞いには鶴丸が珍しい刀の部類に入るからか、ただ自慢がしたかったのかいとか、そんなことだったように思う。なんとなく、刀が揃っていないわたしの現状のまま演練に出れば、誰かに何かしら言われるだろうことは覚悟していたので、声色の強いその人に思わずビクつきながらも内容を右から左に聞き流しながらも。久しぶりの現役の審神者からの言葉ということで、上手いこと切り抜けられずにいた。反論をしようにも、理由を語るわけにもいかない。どう説明してもややこしいことになる。二振りに黙ってみてろと言われたから、と言って、事実とはいえ彼らを言い訳のようにしたくもなかった。
彼の一歩後ろに控えている近侍であろう刀が申し訳なさそうに眉を下げているものだから、気にしなくても良いと軽く首を振れば、少しだけ表情を和らげてくれた。刀からも男性審神者からも悪質な気配は感じないから、普段は健全な本丸で過ごしている人なのだろうと、思う。根が悪い人では、ないはず。多分、単純に疑問が募ってしまっているだけなんだ。……多分。だから、どうこの場を穏便にやり過ごそうか、勢いに押されつつも曖昧に相槌を打ちながら考えていた。事情があって、だとか、ものすごく濁して。けれどどうも、それでは納得できないらしい。わたしと自分の近侍との無言のやり取りに気付くことなく疑問をぶつけてくるこの審神者に、苦笑を浮かべつつ、本当にどうしたものかと首を捻る。
鶴丸と鯰尾も、面倒な人に捕まってしまったな、と言いたげな……あからさまに迷惑そうな表情をしながらも、口を挟もうとはしなかった。どう話を終わらせればいいのか悩んでいる様子でもあった。彼らも分かっているのだ。此処で無闇やたらに問題を起こして、わたしが無駄に注目を浴びる事になるのを避ける為に。
しかし彼らの気遣いもわたしの愛想笑いも、一瞬で壊れることになる。男性審神者からの、「その二振りは本当に君の刀なのか? 君の実力に見合っていないように思うが」という、言葉で。
わたしが何も指示をしない割にやけに息が合っていたから。二人はどこかから引き継いできた刀なんじゃないか。ああ、そうなんだろう? やっと答えに辿り着いたと言いたげな声が、耳に残っている。
言われた瞬間、思考がカチリと止まった。顕現してから共に過ごした時間より、離れていた時間の方が長い。だけど、この二振りを顕現したのは、確かにわたしなのだ。反論しようと口を開いた瞬間、しかしはっと息を飲む。途端に鶴丸と鯰尾の纏う空気がガラリと変わったからだ。その異様な変化にはさすがに気付いたのだろう男性審神者が、ぴたりと言葉を止めた。
「言いたいのは、それだけかよ……」
怒りを滲ませた、震える声で。俯きながら、鯰尾が初めて声を発した。ふつふつと湧き上がる怒りを、足元からゆっくり吸い上げているような、静かな静かな声色だった。その声を聴いて……すっと、頭が冷静になる。そして、勿論彼らは自分の自慢の刀だと即答できなかった己をきつく叱った。あの場は、わたしがしっかりしないといけない瞬間だったじゃないか。しっかりしろ、しっかりしろ。いつまでも弱気なままで、この世界を生き延びられると思うな。
鯰尾が衝動のままに自分の本体に手をかけてしまうより先に、鯰尾の刀の柄を上からぐっと抑えると、驚いたように顔を上げて、困惑した表情でわたしを見る。駄目だよ鯰尾。それはいけない。いけないことだよ、こんな公の場で、他の審神者に手を上げてはいけない。こんなことで人間に傷を負わせてはいけない。そのせいで万が一君たちが処罰されてしまうことになったら、わたしが戻ってきた意味がない。此処にいる、審神者でいる意味が無くなってしまう。
納得してはいないだろうけれど、細く長い息を吐き出しながら手を降ろしてくれた鯰尾に、一先ず安堵する。しかし、ここで鶴丸から目を離したのがいけなかった。呟くように言った男性審神者の「だが、不自然だろう。指示もなしにあれほど動けるなど、余りにも異質すぎる。君の手の届かないところで育てられたのではないのか? 反論はないのか? 全く、君はここがどういう場所か分かっ」て。……弾丸のように次から次へ紡がれていた言葉が、最後まで続かずに途切れた。
ヒュッと、風を切る音が聞こえた。すぐ横で、羽織がふわりと舞い上がるのを感じた。見れば、鶴丸がその審神者へ、腕を真っ直ぐ伸ばし、刀の切っ先を眼前へと向けていたのだ。
「ッ鶴!」
「実力を褒めてもらえるのは有り難いがな、俺達の主を侮辱する発言は……頂けないなぁ? 審神者さんよ」
「鶴、……鶴丸、落ち着いて」
いつもは淡いお月様のように柔らかく輝いている金色の瞳が、今は鋭い刃そのもののようにギラギラと燃えている。鯰尾は絶対に抜刀しないでと、念を押すように柄に触れていた手に力を込めると、彼は長く細い息をついた後、俺だって同じ気持ちなんですからねとぼやく。……大丈夫、伝わってるよ。と小さい声で囁くと、鯰尾はふっと柔らかい息を零した。
「つる、」
「見合ってない、とはね。この上ない驚きだ。主の鶴丸国永は、"俺"でないと意味がないというのに」
「……鶴、もういいから」
「そうだろう? きみ」
「鶴丸」
鯰尾の刀から手を離し、一歩前に出る。酷く落ち着いた頭で、いつでも抜刀できるように構えていた男性審神者の近侍に、その必要はないとゆるゆる首を振った。困惑に瞳を揺らす彼らに背を向け、鶴丸と向き合い、手を伸ばした。──男性審神者に向けられている、鶴丸の刀身に。
鯰尾が慌てて「主!?」と一歩踏み出すのを横目に、鶴丸国永の美しくも鋭い刀身をぐっと握る。燃えていた金色が、途端にぐらりと歪む。自分の手から、刀に、腕に、つつ、と鮮血が伝ってゆく。刃が食い込む手は痛い、というよりは、熱かった。
感情が暴走した刀の止め方なんて、わたしは知らない。彼を抑えつけようとしたって、彼に霊力が効くのかだって分からない。そもそも、霊力を使った抑え方だって知るわけない。力で押さえ込むにしたって力の差があり過ぎる。わたしの声も、きっと鯰尾の声だって、感情が突っ走っている今の彼の耳には入らない。なら、彼にとって一番分かりやすい方法で止めればいいと、考えただけのことだ。
床にぽたりと一滴、赤が落ちる。痛みを無視して、鶴丸を見上げた。ひゅっと息を詰まらせた鶴丸が発した次の声は、聞いたことがないくらいに震えていた。
「っ、……鶴丸、話を聞きなさい」
「き、み、何をして、」
「……鶴、落ち着いて、刀を降ろして。刃を人に向けてはいけない。分かっているでしょう」
手が熱い、熱い。後から後からじわじわ痛みが襲ってきて、手がひくりと震えた。瞬間、鶴丸が怯えに似た表情のまま手から視線を上げる。ここで彼に情けない姿を見せてはいけないと歪みそうになる表情を硬く引き締めたわたしを見て、鶴丸の腕の力が少しずつ抜けていく。けれど、急に刀を動かしてしまうと余計にわたしの手を深く切りかねないからか、なかなか刀を引いたり、下げようとはしなかった。促す様にわたしが握った刀を軽く下へと力をかけると、それに合わせるようにゆっくりゆっくり腕を降ろしてくれる。
ようやく肩が完全に下がった頃、刀を握る手はそのままに、数歩横へ移動するように身体ごと審神者へ向き直る。突然のわたしの奇行に動揺で瞳を揺らす彼に、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。ご無礼を、お許しください」
「……」
「二振りとも、確かにわたしが顕現しました。わたしの大事な……とても、とても大切な、刀です」
「……そうか」
「きみ、血、……血が、」
「事情があり、詳しくお話することは、出来ません」
「……っ、きみ、はやく」
「……審神者様、本日は、どうかこの辺で」
「あ、ああ……いや……。その、こちらこそ、ずけずけとすまなかったな。……医療班を呼ぶか?」
「! い、いえ、大丈夫です。お気持ちだけ。……ありがとうございます」
そうか、と気まずそうに顔をそらして、男性審神者がやっと去っていってくれる。彼の近侍もわたしの手を一瞥してから、お心遣いに感謝をと一言残し、深く会釈をして、自分の主の後を追いかけていくのを見送る。……自分に正直で、周りが見えなくなるほど好奇心旺盛なだけで、やっぱり悪い人ではないんだろうな、なんて、こんな状況で呑気に思った。言い方だけ、改めてもらえたらいいな。
ふと"鶴丸国永"を握っている手を見遣れば、そこから滴る血で床に赤を点々と彩っていた。強く握り過ぎてしまったかもしれない。触れるだけに留めておけば良かったかもしれない。この赤いの全部わたしの血なのか。恐ろしい。なんて悠長に考えながら、そっと刀から手を離すと、「主、手を開かないで!」と切羽詰まった鯰尾の声が響いて、思わず「はいっ!」だなんて返事をしてしまった。手を開くと傷まで開いてしまうからだろう。確かにそうだ。それに、傷が開いたら多分すごく痛い。……危なかった。
応急処置しないと、と演練場に用意されているタオルや何やらで止血をしてくれる鯰尾の手つきが、なんだか慣れている。……わたしが居なかった間、鍛錬は毎日欠かさずやっていたと聞いたし、その辺りも身に着けたのかもしれない。……それにしても。
「っう、い、いった、」
「今更ぁ!? 痛いに決まってるじゃないですか! 本当に! もう!」
「うぅ、いっ、いぃ……!!」
「もう少し、我慢してくださいねっ……!」
「……きみは、一体、何をしているんだ」
近くに設置されていた観戦用椅子に座り、今更じりじり感じ始めた激痛に悶えながら、テキパキと急いで止血して、丁寧に包帯を巻いてくれている鯰尾からゆるゆる視線を上げる。立ち上がったままぽつりと声を発した鶴丸は真っ青な顔で、瞼を震わせていた。
「どうしてこんなこと、よりにもよって……俺で……俺が、きみに傷を、俺が……っ」
「……つる」
──ひとつ、気になることがある。刀の付喪神にとって、刀が本体である彼らにとって、「自分で肉体を切る」とはどういう感覚なのだろうかと。人間が包丁を扱うようなものなのか。それとも、切った感覚が五感に伝わるような感じなのだろうか。だとすると、……いや、そうでなくとも。彼らにとって先程のわたしの行動が、守らなければならないはずの自分の主人を切りつけるという行為が、耐え難い苦痛であることは理解できる。けれど、男性審神者の彼ではなくわたしに鶴丸の全意識を向かせるには、ああするのが一番手っ取り早いと思ったのだ。酷な事をしたとは、思うけれど。
苦しそうに表情を歪める鶴丸にぽつり、謝罪の言葉を落として、動かせる方の腕を広げてみせる。一度瞠目して、わたしと数秒視線を交わし、再び迷うように目線をうろうろ彷徨わせてから、もう一度視線をわたしに戻した。……やがて倒れ込むように、体を寄せて来る。わたしの肩に自分の額を預け、深く深く息を吐いた。ぽんぽん、と背を軽く叩く。予想以上に、相当堪えたようだった。宥めるように、白銀の髪をそっと撫でてみる。泣いてはいない、けれど、泣いているような、震える呼吸音が耳元で聞こえた。
「……俺も……すまなかった。……耐えられなかったんだ」
「ん、……分かってる」
「だが、本当にもう、あんなことは、今後一切やめてくれ。頼む……頼む。……俺は、きみを傷つけるための、刀じゃないんだ」
「……わかってる。ごめんね」
その帰り道、滅多にしない流血騒ぎの怪我だったせいか、急速に発熱してぱたりと倒れてしまったため、本丸に帰った後のことはあまり覚えていない。気がついたら自室である書斎で横になっていて、目が覚めたら左右に二振りがいて、まるでそれが当たり前であるかのように川の字で寝ていた。
主としては微笑ましいけど、異性としては良いんだろうか、そんなんで。とも思ったけれど、眠ったままの鶴丸に、傷に触れないように手ではなく腕をしっかり握られていたものだから、それがどうにもくすぐったくて、どうでもよくなってしまった。
それから少し経って。体調が戻り、傷も完治した直後のことだ。鯰尾が、もっと強くなるために修行に行きたいとわたしに申し出たのは。
「あーるじ? 何ボーっとしてんの?」
「あ、ううん」
修行から帰還した鯰尾はあの頃より雰囲気がずっと大人びて、すっかり敬語も抜けた。しかし本丸に兄弟が増えたからか、単に賑やかになったからか。前よりもよく笑うようにもなった。変わった部分は多いけれど、根本的な部分は変わらない鯰尾に密かに安心する。記憶を取り戻したという彼は、それでもわたしの隣で笑っていてくれる鯰尾に違いないのだと思わせてくれるから。
「髪、綺麗だなって思って」
「髪? 俺の?」
「そう、鯰尾の」
そうかなあと言いながら顔の横に垂れる自分の黒髪を指で弄り、しかし直ぐにぱっと表情を輝かせて「ねえ、主の髪、今日は俺が結わいても良い?」と聞いてくるので、髪を誰かに結わいてもらうのなんて久しぶりだなと二つ返事で返した。よっしゃ! と両手を握って喜ぶ姿は、まだどこか幼さが見え隠れする。大げさだと思えてしまう反応だけれど、それが本心からであると分かっているから、自然と頬が緩んでしまう。
あの時、わたしの意思を尊重してぐっと激情を堪えてくれた彼は、その想いを自分自身にぶつけて、今。この本丸での精鋭部隊を常に組ませる第一軍、出陣部隊隊長へと成長を遂げていた。
22.07.19
昔は流すように緩く結んでいた長い髪を、ポニーテールにするようになったのは、彼が修行から帰って来てからだ。この本丸で、一番最初に修行の旅に出たいと頼み込んできたのは他でもない彼だったのを、寝ぼけ頭で思い出した。そういえばあれは、いつの日だっただろうか。
――わたしが審神者としてまた務める事になったのは、今からほんの半年程前の夏のこと。今のわたしにとっての"初期刀"である彼と鶴丸は、わたしが審神者に戻った時点から……正確には、わたしが審神者を辞める時点でもう、最大まで練度を極めていた。
この職に戻ったからには、この本丸という場所が、わたしという審神者と共に此処できちんと生き、存在していることを証明するためにも、他の審神者との交流の場でもある演練に参加していかなくてはいけない。審神者も刀もいなくなり、廃墟として死んでいく本丸になど存在意義もその場を守る力もなく、時間遡行軍に荒らされる前にさっさと解体してしまえと上から命が出されるのは当然のことだからだ。では、わたしがいなくなった後、戻ってくるまで、本丸はどうしていたのかというと……鯰尾と鶴丸がこんのすけと手を組み、ギリギリのところで繋ぎ止めてくれていたからなのだが……その話は、またの機会にしよう。
ややあって、審神者に戻ったわたしが、急ぎ演練に参加することになった日。鍛刀もせず、たったの二振りだけ……右に鯰尾を、左に鶴丸を連れ、二振りの一歩前を歩き、演練の場に赴いたわたしは、他の審神者の目にはそれはそれは異質に映ったことだろう。審神者になって一番最初に政府に初期刀として与えられ、顕現するはずの打刀が不在の上、連れている二振りは史実上関連性がなく、更には最高練度ときた。わたしでもそんな人が演練場に現れたら怪訝な目で見てしまうと思う。初期刀が演練場へやってこないことは珍しくもないけれど、二振りでやってくる場合は、その二振りに強い関連性がある(例えば、源氏の二振りのみを連れてくる審神者は多く見かける)か、そもそも六振り以下で演練場へ来ることのメリットが、戦力、戦略的に無いからだ。
……正直、まだ審神者という存在、刀剣男士という存在への後ろめたさが心の大半を占めていたその頃は、周りからのそんな視線がとても痛くて、恐ろしかった。例えそれが嫌悪の視線ではなくても、ただの好奇心からの視線だったとしてもだ。それでもまずは、この二振りだけで演練場へ行こうと決めたのは自分なのだからと、俯かずに顔を上げ続け、自分の持ち場に着いたわたしを、鶴丸と鯰尾は満足げに見守っていてくれた。
けれど、どこからか聞こえた「一勝は出来るな」という誰かの声。演練場に響いたその言葉が、じくりと容赦なく、確実にわたしの心に突き刺さる。きっと、……いや、確実にその言葉はわたしに向けられていたのだろう。それまでわたしへの好奇心で満ち溢れていたとはいえ、比較的穏やかだった周りの空気を、両側に居る二振りが一瞬で凍らせてしまうくらいだったのだから。
その言葉が聞こえた途端、二振りからぶわりと溢れたそれは、確かな殺気だった。声の主のところまで行こうとしないだけ、マシだと思うほどの。思わず言葉を向けられた方を見れば、恐らく先程の声の主が、遠目でも彼らから向けられる強い殺気にたじろいでいるのが分かる。このままではいけないと、静かに湧き上がらせる怒りを落ち着かせるように、右手で鯰尾の、左手で鶴丸の手を取った。「落ち着いて」
手に触れたことに驚いてか、わたしの咎める声に気が付いてか、どちらにしろ、はっと殺意を引っ込めた二人に、まるで双子のように同じ反応をするものだと気が抜けて、少しだけ笑う。
およそ二年ぶりとなる他の刀との手合わせを、どうか楽しんできてほしい。演練場で、戦う感覚を取り戻して来てくれればそれでいい。例えどんな相手だろうと、他の審神者に、無闇に敵意を向ける必要はない。これは鍛錬の場であり、戦場ではない。敵を葬り去る場所じゃない。気楽に挑んでくれればそれでいいのだ。……でも。……でも、もし、出来る事ならば。
「どうか……負けないで」
出来ることなら、勝って来てほしい。たった一勝でもいいから、勝利をもぎ取って来てほしい。こんなにも自惚れてしまうほどわたしの事を想ってくれた刀は、わたしが大事に想っている刀は、あの頃から衰えてなんていないのだと。この上なく贅沢な願いだけれど、今のわたしという審神者に、周りの言葉なんて気にならなくなるくらい、今一度、僅かでも自信を持たせてほしかった。
「ああ、もちろんだ」
わたしの左手の指先をそっと握り返して、目を細めて鶴丸は言う。
「俺たちが負けるはずないですって!」
わたしの右手を両手で強く包み込んで、眩しい笑顔を浮かべてで鯰尾は言う。
そんな二振りの目を交互に見て、お礼の意を込めて頷いてから、行ってらっしゃいと手を離し、送り出した。一戦目開始準備の合図が、響き渡った。
いざ演練が始まってみると、二振りにとって久々の戦闘だとは思えないくらい、息の合った連携を彼らは見せてくれた。わたしだけではなく、観戦していた他の審神者さんたちも思わず目を見張っていたほどに。
鶴丸が相手の太刀と迫り合いをしていたか思えば、すかさず鯰尾が後ろから鶴丸の肩を借りて空中へ飛びあがり、鶴丸は、鯰尾が飛んだのを確認した次の瞬間には、相手が鯰尾の登場に怯んだ一瞬を逃さず押しのけていて、その勢いのまま自分の真後ろに刀を振り回し、自分達の背を狙いに来ていた相手を素早く切りつけ、鯰尾は重心をかけて鶴丸が迫り合いをしていた相手を沈ませていた。
機動の早い短刀には、比較的耐久力のある鶴丸が盾兵を使い、身を挺して庇っている間に鯰尾が投石兵や弓兵を呼び出し、短刀の動きが眩んだところをすかさず素早く対処する。太刀以上が相手なら、鶴丸が全面的に引き受けつつも、鯰尾がその他の刀種が鶴丸を狙わないよう立ち回り、隙があれば弓兵での援護を忘れない。大太刀や薙刀相手には流石に苦戦しつつも、鯰尾が相手の刀すら足場に利用して、くるくると空を飛び回り、鶴丸が背後を常に狙えるよう立ち回っていた。……お互いにお互いの動きを理解しているからこその、まるで、何度もそうして敵と戦ってきたかのような動きだったのだ。少なくとも二年前までの記憶では、こんなに上手く連携の取れる刀は存在しなかったはずなのに。
だから、つまりは、そういうことなのだと。やがて理解した。彼らにとって、これは――「久々の戦闘」では、無かったのだと。
気づいた瞬間詰まってしまう息を何とか吐き出して、二振りの雄姿をひたすらに見守る。本当は審神者から刀達に采配を振るうのが一般的なのだけれど、わたし自身久々の演練であること、彼らの鈍っているはずの──そう思っていたのはわたしだけだったわけだが──体を解すことが一番の目的であったことから、今日は何も言わずに見ていてほしいと言われてしまっているので、ただじっと見守ることに専念していたのだ。……しかし、本当は。自分がいない間に何度も何度もそうして二振りだけで戦って来たのだろうと、戦場に、赴いたことがあるのだろうと分かるその姿を見て、気づかないわけがなかった。二振りが何も言わずに見ていてほしいと言ったのは、単に久しぶりの演練だからというわけではなく、わたしがいない間にも成長した、"己の姿を見てほしかった"からなのだ、と。
──結果、さすがに全戦全勝とはいかなかったものの、予想していた以上の成果を残してみせてくれた。正直なところ、数で押し切られてしまう未来を予想していなかったわけではないため、一勝できれば嬉しいと思っていたにも関わらず、たった二振りというハンデの中で五戦中三勝ももぎ取ってみせたのだ。
演練場で傷だらけになった体と刀本体は、審神者が待機している場外へ一歩出れば元通りに修復されるシステムになっているため、この演練場での霊力の使用は全くもって不要だ。一瞬で傷一つない姿に戻り、お互いの握り拳を軽くコツンと合わせながら歩いてきた二振りに「おかえり」と声を掛ければ、誇らしげに笑いながら「ただいま」がふたつ返ってくる。どうやらこの結果に、彼らも概ね満足しているようだった
負けた対戦相手については、二振りで対処するならあの時はこう動いた方が良かったかもしれない、あの場面はこう動いた方が次に繋がりやすい、しかしあの時のフォローは助かったなど、そのまま流れるように今日の反省会を始めた彼らに、ほっと息をつく。二振りにとって充実していたようで何よりだ。本当に良かった。
彼らからではない声が自分にかけられて、大げさに肩が跳ねてしまったのは、そんな和やかな空気に包まれていた時だ。……それは、演練が始まる前に「一勝は出来る」と言った人の声だっだ。
……具体的にその審神者に何を言われたのかは、実のところあまり覚えていない。どうして二振りしか連れてこなかったのかとか、何故演練中に指示を出さなかったのかとか、仕舞いには鶴丸が珍しい刀の部類に入るからか、ただ自慢がしたかったのかいとか、そんなことだったように思う。なんとなく、刀が揃っていないわたしの現状のまま演練に出れば、誰かに何かしら言われるだろうことは覚悟していたので、声色の強いその人に思わずビクつきながらも内容を右から左に聞き流しながらも。久しぶりの現役の審神者からの言葉ということで、上手いこと切り抜けられずにいた。反論をしようにも、理由を語るわけにもいかない。どう説明してもややこしいことになる。二振りに黙ってみてろと言われたから、と言って、事実とはいえ彼らを言い訳のようにしたくもなかった。
彼の一歩後ろに控えている近侍であろう刀が申し訳なさそうに眉を下げているものだから、気にしなくても良いと軽く首を振れば、少しだけ表情を和らげてくれた。刀からも男性審神者からも悪質な気配は感じないから、普段は健全な本丸で過ごしている人なのだろうと、思う。根が悪い人では、ないはず。多分、単純に疑問が募ってしまっているだけなんだ。……多分。だから、どうこの場を穏便にやり過ごそうか、勢いに押されつつも曖昧に相槌を打ちながら考えていた。事情があって、だとか、ものすごく濁して。けれどどうも、それでは納得できないらしい。わたしと自分の近侍との無言のやり取りに気付くことなく疑問をぶつけてくるこの審神者に、苦笑を浮かべつつ、本当にどうしたものかと首を捻る。
鶴丸と鯰尾も、面倒な人に捕まってしまったな、と言いたげな……あからさまに迷惑そうな表情をしながらも、口を挟もうとはしなかった。どう話を終わらせればいいのか悩んでいる様子でもあった。彼らも分かっているのだ。此処で無闇やたらに問題を起こして、わたしが無駄に注目を浴びる事になるのを避ける為に。
しかし彼らの気遣いもわたしの愛想笑いも、一瞬で壊れることになる。男性審神者からの、「その二振りは本当に君の刀なのか? 君の実力に見合っていないように思うが」という、言葉で。
わたしが何も指示をしない割にやけに息が合っていたから。二人はどこかから引き継いできた刀なんじゃないか。ああ、そうなんだろう? やっと答えに辿り着いたと言いたげな声が、耳に残っている。
言われた瞬間、思考がカチリと止まった。顕現してから共に過ごした時間より、離れていた時間の方が長い。だけど、この二振りを顕現したのは、確かにわたしなのだ。反論しようと口を開いた瞬間、しかしはっと息を飲む。途端に鶴丸と鯰尾の纏う空気がガラリと変わったからだ。その異様な変化にはさすがに気付いたのだろう男性審神者が、ぴたりと言葉を止めた。
「言いたいのは、それだけかよ……」
怒りを滲ませた、震える声で。俯きながら、鯰尾が初めて声を発した。ふつふつと湧き上がる怒りを、足元からゆっくり吸い上げているような、静かな静かな声色だった。その声を聴いて……すっと、頭が冷静になる。そして、勿論彼らは自分の自慢の刀だと即答できなかった己をきつく叱った。あの場は、わたしがしっかりしないといけない瞬間だったじゃないか。しっかりしろ、しっかりしろ。いつまでも弱気なままで、この世界を生き延びられると思うな。
鯰尾が衝動のままに自分の本体に手をかけてしまうより先に、鯰尾の刀の柄を上からぐっと抑えると、驚いたように顔を上げて、困惑した表情でわたしを見る。駄目だよ鯰尾。それはいけない。いけないことだよ、こんな公の場で、他の審神者に手を上げてはいけない。こんなことで人間に傷を負わせてはいけない。そのせいで万が一君たちが処罰されてしまうことになったら、わたしが戻ってきた意味がない。此処にいる、審神者でいる意味が無くなってしまう。
納得してはいないだろうけれど、細く長い息を吐き出しながら手を降ろしてくれた鯰尾に、一先ず安堵する。しかし、ここで鶴丸から目を離したのがいけなかった。呟くように言った男性審神者の「だが、不自然だろう。指示もなしにあれほど動けるなど、余りにも異質すぎる。君の手の届かないところで育てられたのではないのか? 反論はないのか? 全く、君はここがどういう場所か分かっ」て。……弾丸のように次から次へ紡がれていた言葉が、最後まで続かずに途切れた。
ヒュッと、風を切る音が聞こえた。すぐ横で、羽織がふわりと舞い上がるのを感じた。見れば、鶴丸がその審神者へ、腕を真っ直ぐ伸ばし、刀の切っ先を眼前へと向けていたのだ。
「ッ鶴!」
「実力を褒めてもらえるのは有り難いがな、俺達の主を侮辱する発言は……頂けないなぁ? 審神者さんよ」
「鶴、……鶴丸、落ち着いて」
いつもは淡いお月様のように柔らかく輝いている金色の瞳が、今は鋭い刃そのもののようにギラギラと燃えている。鯰尾は絶対に抜刀しないでと、念を押すように柄に触れていた手に力を込めると、彼は長く細い息をついた後、俺だって同じ気持ちなんですからねとぼやく。……大丈夫、伝わってるよ。と小さい声で囁くと、鯰尾はふっと柔らかい息を零した。
「つる、」
「見合ってない、とはね。この上ない驚きだ。主の鶴丸国永は、"俺"でないと意味がないというのに」
「……鶴、もういいから」
「そうだろう? きみ」
「鶴丸」
鯰尾の刀から手を離し、一歩前に出る。酷く落ち着いた頭で、いつでも抜刀できるように構えていた男性審神者の近侍に、その必要はないとゆるゆる首を振った。困惑に瞳を揺らす彼らに背を向け、鶴丸と向き合い、手を伸ばした。──男性審神者に向けられている、鶴丸の刀身に。
鯰尾が慌てて「主!?」と一歩踏み出すのを横目に、鶴丸国永の美しくも鋭い刀身をぐっと握る。燃えていた金色が、途端にぐらりと歪む。自分の手から、刀に、腕に、つつ、と鮮血が伝ってゆく。刃が食い込む手は痛い、というよりは、熱かった。
感情が暴走した刀の止め方なんて、わたしは知らない。彼を抑えつけようとしたって、彼に霊力が効くのかだって分からない。そもそも、霊力を使った抑え方だって知るわけない。力で押さえ込むにしたって力の差があり過ぎる。わたしの声も、きっと鯰尾の声だって、感情が突っ走っている今の彼の耳には入らない。なら、彼にとって一番分かりやすい方法で止めればいいと、考えただけのことだ。
床にぽたりと一滴、赤が落ちる。痛みを無視して、鶴丸を見上げた。ひゅっと息を詰まらせた鶴丸が発した次の声は、聞いたことがないくらいに震えていた。
「っ、……鶴丸、話を聞きなさい」
「き、み、何をして、」
「……鶴、落ち着いて、刀を降ろして。刃を人に向けてはいけない。分かっているでしょう」
手が熱い、熱い。後から後からじわじわ痛みが襲ってきて、手がひくりと震えた。瞬間、鶴丸が怯えに似た表情のまま手から視線を上げる。ここで彼に情けない姿を見せてはいけないと歪みそうになる表情を硬く引き締めたわたしを見て、鶴丸の腕の力が少しずつ抜けていく。けれど、急に刀を動かしてしまうと余計にわたしの手を深く切りかねないからか、なかなか刀を引いたり、下げようとはしなかった。促す様にわたしが握った刀を軽く下へと力をかけると、それに合わせるようにゆっくりゆっくり腕を降ろしてくれる。
ようやく肩が完全に下がった頃、刀を握る手はそのままに、数歩横へ移動するように身体ごと審神者へ向き直る。突然のわたしの奇行に動揺で瞳を揺らす彼に、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。ご無礼を、お許しください」
「……」
「二振りとも、確かにわたしが顕現しました。わたしの大事な……とても、とても大切な、刀です」
「……そうか」
「きみ、血、……血が、」
「事情があり、詳しくお話することは、出来ません」
「……っ、きみ、はやく」
「……審神者様、本日は、どうかこの辺で」
「あ、ああ……いや……。その、こちらこそ、ずけずけとすまなかったな。……医療班を呼ぶか?」
「! い、いえ、大丈夫です。お気持ちだけ。……ありがとうございます」
そうか、と気まずそうに顔をそらして、男性審神者がやっと去っていってくれる。彼の近侍もわたしの手を一瞥してから、お心遣いに感謝をと一言残し、深く会釈をして、自分の主の後を追いかけていくのを見送る。……自分に正直で、周りが見えなくなるほど好奇心旺盛なだけで、やっぱり悪い人ではないんだろうな、なんて、こんな状況で呑気に思った。言い方だけ、改めてもらえたらいいな。
ふと"鶴丸国永"を握っている手を見遣れば、そこから滴る血で床に赤を点々と彩っていた。強く握り過ぎてしまったかもしれない。触れるだけに留めておけば良かったかもしれない。この赤いの全部わたしの血なのか。恐ろしい。なんて悠長に考えながら、そっと刀から手を離すと、「主、手を開かないで!」と切羽詰まった鯰尾の声が響いて、思わず「はいっ!」だなんて返事をしてしまった。手を開くと傷まで開いてしまうからだろう。確かにそうだ。それに、傷が開いたら多分すごく痛い。……危なかった。
応急処置しないと、と演練場に用意されているタオルや何やらで止血をしてくれる鯰尾の手つきが、なんだか慣れている。……わたしが居なかった間、鍛錬は毎日欠かさずやっていたと聞いたし、その辺りも身に着けたのかもしれない。……それにしても。
「っう、い、いった、」
「今更ぁ!? 痛いに決まってるじゃないですか! 本当に! もう!」
「うぅ、いっ、いぃ……!!」
「もう少し、我慢してくださいねっ……!」
「……きみは、一体、何をしているんだ」
近くに設置されていた観戦用椅子に座り、今更じりじり感じ始めた激痛に悶えながら、テキパキと急いで止血して、丁寧に包帯を巻いてくれている鯰尾からゆるゆる視線を上げる。立ち上がったままぽつりと声を発した鶴丸は真っ青な顔で、瞼を震わせていた。
「どうしてこんなこと、よりにもよって……俺で……俺が、きみに傷を、俺が……っ」
「……つる」
──ひとつ、気になることがある。刀の付喪神にとって、刀が本体である彼らにとって、「自分で肉体を切る」とはどういう感覚なのだろうかと。人間が包丁を扱うようなものなのか。それとも、切った感覚が五感に伝わるような感じなのだろうか。だとすると、……いや、そうでなくとも。彼らにとって先程のわたしの行動が、守らなければならないはずの自分の主人を切りつけるという行為が、耐え難い苦痛であることは理解できる。けれど、男性審神者の彼ではなくわたしに鶴丸の全意識を向かせるには、ああするのが一番手っ取り早いと思ったのだ。酷な事をしたとは、思うけれど。
苦しそうに表情を歪める鶴丸にぽつり、謝罪の言葉を落として、動かせる方の腕を広げてみせる。一度瞠目して、わたしと数秒視線を交わし、再び迷うように目線をうろうろ彷徨わせてから、もう一度視線をわたしに戻した。……やがて倒れ込むように、体を寄せて来る。わたしの肩に自分の額を預け、深く深く息を吐いた。ぽんぽん、と背を軽く叩く。予想以上に、相当堪えたようだった。宥めるように、白銀の髪をそっと撫でてみる。泣いてはいない、けれど、泣いているような、震える呼吸音が耳元で聞こえた。
「……俺も……すまなかった。……耐えられなかったんだ」
「ん、……分かってる」
「だが、本当にもう、あんなことは、今後一切やめてくれ。頼む……頼む。……俺は、きみを傷つけるための、刀じゃないんだ」
「……わかってる。ごめんね」
その帰り道、滅多にしない流血騒ぎの怪我だったせいか、急速に発熱してぱたりと倒れてしまったため、本丸に帰った後のことはあまり覚えていない。気がついたら自室である書斎で横になっていて、目が覚めたら左右に二振りがいて、まるでそれが当たり前であるかのように川の字で寝ていた。
主としては微笑ましいけど、異性としては良いんだろうか、そんなんで。とも思ったけれど、眠ったままの鶴丸に、傷に触れないように手ではなく腕をしっかり握られていたものだから、それがどうにもくすぐったくて、どうでもよくなってしまった。
それから少し経って。体調が戻り、傷も完治した直後のことだ。鯰尾が、もっと強くなるために修行に行きたいとわたしに申し出たのは。
「あーるじ? 何ボーっとしてんの?」
「あ、ううん」
修行から帰還した鯰尾はあの頃より雰囲気がずっと大人びて、すっかり敬語も抜けた。しかし本丸に兄弟が増えたからか、単に賑やかになったからか。前よりもよく笑うようにもなった。変わった部分は多いけれど、根本的な部分は変わらない鯰尾に密かに安心する。記憶を取り戻したという彼は、それでもわたしの隣で笑っていてくれる鯰尾に違いないのだと思わせてくれるから。
「髪、綺麗だなって思って」
「髪? 俺の?」
「そう、鯰尾の」
そうかなあと言いながら顔の横に垂れる自分の黒髪を指で弄り、しかし直ぐにぱっと表情を輝かせて「ねえ、主の髪、今日は俺が結わいても良い?」と聞いてくるので、髪を誰かに結わいてもらうのなんて久しぶりだなと二つ返事で返した。よっしゃ! と両手を握って喜ぶ姿は、まだどこか幼さが見え隠れする。大げさだと思えてしまう反応だけれど、それが本心からであると分かっているから、自然と頬が緩んでしまう。
あの時、わたしの意思を尊重してぐっと激情を堪えてくれた彼は、その想いを自分自身にぶつけて、今。この本丸での精鋭部隊を常に組ませる第一軍、出陣部隊隊長へと成長を遂げていた。
18.10.14
21.01.26
22.07.19