審神者を辞めて、一年が経った。正直なところ、最初は心苦しい気持ちがでいっぱいだったのだけれど、一年経つ頃には心身ともに少しずつ落ち着いていった。本丸について考える時間が、少しずつ減っていった。審神者を辞める暁には、その審神者自体が歴史の改変を行わないよう……歴史を守っているという記憶を持っているということ自体が歴史改変に繋がりかねない為、審神者であった頃の記憶は消さねばならない――……と噂されていたのだが、私は何故か、そういった行為も言葉もなく、まるで万屋へ買い物に行く日のようにするすると現代へ帰って来れてしまっていた。
確かに、自分の手で歴史をどうこうしようだなんて企みは持っていないし、審神者だった頃の話を誰かにするつもりもない。自分の傷を抉るだけだからだ……とはいえ、本当に何もされないのが普通なのだろうか……。などと首を捻っていたのも、辞めてすぐの頃だけで。段々と、自分の本丸だった場所の事を思い出すことは、砂時計がさらさらを落ちていくかのように少なくなっていった。
同じように審神者を辞めたという子に、出会うまでは。
「あれ、あなた確か演練で……」
「えっ」
演練。聞き慣れた、けれどこの一年間は一度も聞くことはなかった言葉を、この先も聞くことはないと思っていた言葉を耳にして、悪事がばれた子供のようにギクリと体が固まってしまった。声がした方を恐る恐る見れば、確かに、いつかの日に出会った、どこかの本丸の女性審神者がいた。服装こそ違えど、外見と身に着けているネックレス……貝殻が月に包まれているようなデザインのそれが、出会った時と同じものだったから。直ぐに同一人物だと分かった。
そう、確かその時は――……、その日の近侍は真っ白な彼で、今まで以上に練度の高い刀を持つ審神者が集まっていた日のことだ。その熟練された刀たちにわあ、と感嘆を漏らしながら歩いていれば、何に躓いたのか、ずるりと足を滑らせて。……前ではなく後ろに傾いたわたしの身体は、しかしすぐ後ろから付いてきていた彼に激突して、幸い転ぶことはなかったのだけれど。
上半身を軽く傾け、彼に身体を預ける体勢になった私の顔を覗き込んだその神様は、逆さの顔でとても呆れた表情をしてみせた。
「主……、よそ見してると転ぶぞと、言ったと思うんだが……?」
「い、言ったかな……」
「さては、聞いてすらいなかったな!」
見上げる私の頬を両手で、……けれど痛まない程度に抓った彼に反抗するように、その体制のまま腕を上げて白い頬をぺちりととても軽く叩くと、真っ白なまつ毛が一瞬震えて、頬がひくりと一瞬痙攣する。あ、ちょっと怒った。
「きみな……」
「ごめん、つい」
「つい……? つい、で俺は叩かれたのか?」
「叩いてないよ、抵抗したの」
「否定になってないぜ!? いや違う、そうではなくてな。俺は、きみの不注意について、説教していたんだが!」
「説教だったの?」
「…………」
耐えきれず吹き出したような笑い声が聞こえたのは、そんなやりとりをしている時だった。鶴丸に両手で肩を押され、倒れた人形を元の位置に直すように体勢を戻した私にため息を吐きつつ、二人で声の主を見ると、その女性審神者は、ころころ笑いながら「仲が良いんですね」と楽しそうに言った。金色と視線を交わしてから、その時は胸を張って「ええもちろん、」と応えたような気がする。
……──私を現代で呼び止めたのは、確かにその人だった。
正直なところ、もう他の審神者とも関わりたくはなかったのだけれど、それはそれは嬉しそうに「あの時の鶴丸の人……!」と話しかけてくるその人を振り切って帰るなんて事は出来ず。お互い、その日は特に急ぎの予定も入っていないからと、近くのカフェで暫く時間を共にすることになった。
彼女は、私と同じく、政府の有り方に疑問を持った末に審神者を辞めた人だった。それ以外にも、権力を振るって好きに動いている割に、力の弱い審神者の事や、一部の刀剣男士をぞんざいに扱っているとの話もあったらしい。彼女が辞めるきっかけになったのは、それなのだそうだ。
そんなところに大事なみんなと居るのがつらくて、と話す彼女に、酷く既視感を覚えた。彼女自身、私の話を聞いている間、悲しそうにしつつもまるで懐かしむように目を細めていたから、似たようなことを思っていたのかもしれない。
「最近、聞いた話なんですけどね」
「はい?」
「その政府が……というか、政府の中にいる人たちが、変わってきているんですって」
そんな上役を変えてやろうと、審神者から、自分の刀を従えて、政府へ乗り込んで。クーデターというやつだ。実際、それは成功し、じわじわ内部から変わってきているらしい。審神者だった人が上につくのだから、どうすれば審神者たちが滞りなく動けるか、どうすれば政府として正しく慕われるか、当に身を持って知っているのだから、変わるのは当然のことのようにも思える。
そうか、あそこが変わってきているのか。なら、新しく審神者になった人や、辛抱強く本丸に残った審神者も報われるというものだと、ほっと胸を撫で下ろしていると、そんな私を見て同じように肩の力を抜いた彼女は、微笑みを浮かべたまま、言った。「だから私──もう一度審神者に、なろうと思うんです」と。
「え……も、どる、んですか」
「はい。……私の刀は、本丸解体と共に全員消えて行ったと聞きます。いえ……私が、あなたのように刀解する勇気がなかったから……そう選択したのですけど」
「………」
「私、やっぱり、あの場所が好きだったんです。あの時よりずっと環境が良くなったなら、今度は諦めずにいれるかなって思って、……ううん、すみません、やっぱり嘘です」
「うそ?」
「私、もう一度……、みんなに会いたいんです」
ただ、会いたいから。審神者に戻りたい。真っ直ぐな、眩しい言葉だと思った。
「……あの時の、あなたの刀とは、違う個体でも」
「それでも、会いたいです。忘れることなんで出来ない。今でも、ずっと、好きで。現世に帰ればきっと忘れていけると思っていたのに、逆で。……だから、もう一度。今度こそ。……あなたは、会いたくないんですか……?」
私の脳裏に浮かんだのは、残してきてしまった、ふた振り。会いたいか会いたくないかで言えば、会いたいに決まっている。けれど、それ以上に、私は。
「会うのが……こ、わい、です」
貝殻の彼女が、困惑したように瞳を揺らした。
──私は、怖い。会いたいと思えたとしても、残してきてしまった二人に会うのが。あんな風に暖かく送り出してくれたけれど、本当は引き止めたのかもしれない。居なくならないでほしいと思っていたのかもしれない。いや、きっとそうなんだと思う。逃げてしまった私を、長い間もうずっと本丸の事を考えることもなくなってきてしまっていた私を、心のどこかでは……本当は、恨んでいるのかもしれない。憎まれているかもしれない。今更戻ったところで、許して、もらえないかもしれない。どんな顔をして戻ればいいのか、分からない。一度そんな考えを持ってしまってから、もう、止められなかった。
彼女の前でその気持ちを吐き出して、情けなく声を震わせながら、私は、もしも望んだところで、もうあの場所には戻れないと……この時、本気で思ってしまったのだ。
「私は、あなたの刀達の事を、ひと欠片しか知りません。でも……あの時、私は本当に、皆と素敵な関係が築けている審神者なんだって思ったの。だから、きっとそんなこと思われてないって……祈りたいです」
こんな愚かな自分に、そんなことあるはずがないだなんて断言されるよりも、祈りたいと言ってくれた貝殻の彼女のその言葉は、ずっと深く、私のどろどろの心を軽くしてくれたのは、確かだった。
―――――――――
わたしにとってのふた振り目……鶴丸と鯰尾以外のみんなは、どういう訳か、全てではないが……大体の事情を知識として持ったまま顕現している。
この前の演練のように、他の審神者に見下されるようでは、こちらの身が持たない……わたしではなく、二人の心的に。なのでまずは戦力を揃えようということになり、これから此処で過ごすにあたって、必然的にしなければならない事からいつまでも逃げていては始まらないと、心を固めて鍛刀部屋へ赴いた。
鍛刀の職人さんがわたしを見て、ぱあっと表情を輝かせて見せたあの日のことを、きっといつまでも忘れないだろう。左右から「彼も待っていてくれたんだ」と二人に背を押されたときは、そのまま振り返って二人に縋りながら喜びを伝えたかった。けれど、せっかく一歩をくれたのだからと、そのまま職人さんへ鍛刀をお願いしたのだ。
記念すべき"わたし"の、最初の刀は、短刀をお願いした。太刀と脇差がいるなら、もう少し小回りの利く刀がいたほうが良いことと、審神者を辞める前、夜の合戦場になる池田屋の攻略が途中だったのを思い出した為だ。夜戦の攻略を目指すなら、今大太刀や太刀を集めるよりも、まずは短刀からだろう、と。脇差がもう一人くらいいても良いかもしれない。その時は骨喰くんが来るといいねと笑いかければ、鯰尾は照れくさそうにはにかんだ。
職人さんが見事作り上げてみせた短い刀に、二人に見守られながら、両手をかざして、霊力を注ぐ。やり方なんてものは知らない。ただ、手のひらに意識を集中させて、どうか応えてと刀に呼びかけているだけだ。鶴丸曰く、何も考えず呼び出されるよりかは、そうやって想いをぶつけてきてくれた方が応えやすい、手を伸ばしやすいとのことだったので、この方法は変えずに行っている。
やがて、どこからか降ってきた桜が数枚、短刀の周囲をぐるりと舞ったと思うと、刀から光が溢れ、桜と共に風がふわりと舞い上がる。思わず閉じた瞼を開いたとき、そこに立っていたのは、”以前の私”の最初の短刀でもある……薬研藤四郎だった。
わたしを見、後ろに控えている二人を見、またわたしを見た彼は、独り言のようになるほど、と呟き、言った。
「よぉ大将。これは……久しぶり、ってやつでいいのか?」
その後、動揺するわたし達に、薬研くんは説明してくれた。自分は確かにふた振り目であること、それを顕現した瞬間から自覚したこと。顕現の瞬間、まるで、ひと振り目の自分の記憶をなぞって見ているような感覚があったこと。だから、この本丸であったことが、大まかにだけれど分かること。
「本丸の記憶として残ってるってことかな……」
「鯰尾兄の、記憶を取り戻した、ってやつとは、また違うと思うけどな。何にしても、これから宜しく頼む、大将。いくら前の俺の思い出があるからといって、重ねてもらっちゃ困るぜ? 今の俺は、此処にいる薬研藤四郎でしかないんだからな」
「!……うん、うん。そうだね。宜しく、薬研くん……! これから薬研くんのこと、とても頼りにしますからね」
「おう、任せておいてくれ。期待に応えてみせるさ」
そうだ、例え記憶が多少受け継がれるとしても、彼はあの時の薬研藤四郎ではない。わたしはこれから、”わたし”の刀と、もう一度一から絆を築いてみせるのだ。……また、貝殻の彼女に出会えた時に、胸を張って握手できるように。決意新たに薬研くんと握手をしている時、「きみ、俺もいるのを忘れないでくれよ?」「薬研だけじゃなくて、俺も頼りにしてくれていいんだからな〜!」なんて、暖かく見守ってくれていたはずの鶴丸と鯰尾に、そう左右からぐいぐい迫られて、急にどうしたどうしたと目を白黒させてしまった。薬研くんが思い切りため息をついて、仕方なさそうに苦笑した。
「あんたら、待てが出来ない犬っころじゃねぇんだから……」
なんて呆れ声を落とす薬研の言葉で、彼よりも背丈の大きい二人に耳と尻尾が生えているのを想像してしまって。……とうとうわたしは、たまらず吹き出してしまうのだった。
18.10.18