──その日、私は夢を見た。審神者を辞めて、二年とちょっと経った頃の話だ。夢だと分からないくらい、感覚も感触もある、とてもリアルな夢だった。
夢の始まりはとても唐突で、は、と気が付いた時、私はそこに座っていた。見覚えのある和服を着ていて、和式の部屋に居て、目の前に襖がある。立ち上がって辺りを見回すと、ぱたぱたと、小さな足音が響いた。部屋の中だというのに、誰かが直ぐ近くで駆け回っているような音だ。
ぼんやりとした頭のままでそれを眺めている私の目に映ったのは、……この二年間見ていなかった、あの短刀たち、だった。私が此処に立っているのが当たり前であるかのように、もしくは気づいていないようかのように、私の周りをくるくる駆けて、他愛もない会話をしながらじゃれ合って、ころころと笑っている。
これはいったいどういうことなんだと考えるよりも先に、漠然と、此処に居てはいけないと心が騒ぎ立てる。なんとなく、なんとなく、分かるのだ。ここは、この本丸は。
つい一時前までは閉まっていた襖が、少しだけ開いていた。ざわつく心臓を抑えながら、此処から離れたい一心で廊下へ出た時、「、うそ」私の口からそう言葉がぽつりと落ちた。だって、だって……廊下の向こうから誰かと会話をしながら歩いてくるのは、見慣れたはずの……けれどもう見ることがなかったはずの、艶やかな黒だったのだから。
彼が視線を私に向けるより先に、咄嗟に踵を返して、彼から逃げるようにその場を走り去る。分かってしまった、分かってしまった、やっぱり、そうなんだ。 ここは、この本丸は、間違いなく「かつての私の本丸」だ。
そんなはずない、そんなはずがない。とも思う。もう短刀たちはいないのだ、あのふた振り以外、居るわけがないのだ。そもそも、此処に戻った記憶もない。だけど、でも。あの黒は、あの鯰尾は、確かに私の刀だった、と。……この時、夢の中の自分は、確信していた。夢だからこそ、なのかもしれないけど。
「っ、わ、」
無我夢中で走っていると、角を曲がったところで、誰かとぶつかった。ああ、全然前を見ていなかった。すみませ、と謝罪を言いかけた言葉が、顔を上げた瞬間に止まる。ひゅ、と喉が鳴る。……さっき見たばかりの鯰尾が、眉を下げて微笑を浮かべながら、転ばないように私を支えていた。なんで、どうして。離れたのに、逃げたのに。……今思えば、夢の中なのだから何が起こってもおかしくはないのだけれど。その時、私が引き攣った声で言葉にしていたのは、ただただ、謝罪の言葉だけだった。
ごめんなさい、ごめんなさい、置いてきてごめんなさい、皆を刀解してしまってごめんなさい、逃げてしまってごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、どうか許して、と。
彼の顔も見れずに、俯いたままそう繰り返す私の頬に、いつの間にか流れていた涙がぼろぼろと伝って、床に染みを作っていく。鯰尾の表情を見るのが怖かった。言葉を聞くのが怖かった。意味も分からないまま此処に立っている自分が、怖かった。
溢れて流れて止まらない涙を拭う自分の両手が、あっという間に濡れていく。けれど私の耳に届いたのは、私の目に映ったのは、「もういいよ」という言葉と、やっぱり困ったように微笑みながら涙を拭ってくれる鯰尾だった。
「もう、いいんですって」
混乱する頭で、彼の言っていることを飲み込もうとして、けれど喉に何かがつっかえているみたいに声が出せなくて。何か言わなければといけないと思うのに、なんにも、言葉が出なかった。やがてくしゃりと表情を崩した鯰尾が、「全く、本当にしょうがないなあ」とはにかんで。どこか懐かしいその言葉に、また一筋涙が零れる。
そして、ふと、背後で息をつく音が聞こえて、反射的に肩がびくりと跳ねた。
「謝る必要なんかないと、言ったはずだぜ? 忘れちまったのかい。……誰も最初から、怒ってなんかいないさ」
どこか呆れたような声に、ゆっくり振り返る。いつの間に、そこに居たのだろう。もういいんだと、鯰尾と同じ言葉を口にするのは、ああ、私の、……私の神様、だった。真っ白な、美しくて優しい神様が、やっぱり眉を下げて微笑んでいた。彼は、片手で私の両目を覆い隠し、言葉を続けた。私は、真っ暗になった視界で、その声が寂しくしっとり濡れているような気がして、たまらなかったのだ。
「きみは本当に、泣いてばかりだなあ」
次の瞬間、緩やかに意識が浮上する。上半身を起き上がらせ、深くため息をついた。息が熱い。喉が震える。寝ながら泣いていたらしい。瞼が濡れている。深呼吸しようしたら、ひくりと喉が鳴った。
──なんて夢を、見たのだろう。なんて夢を、見てしまったのだろう。どくどくと煩く響く自分の胸を押さえて、鮮明すぎる光景を思い出すと、夢の中と同じように涙が溢れ、布団の上にぼたぼた落ちて、思わず口角が少しだけ上がった。……ああ、また泣くのか、なんて言われてしまうなと……そう思ったからだ。
私は、夢から覚めて、今、初めて気づいてしまったことがある。確かに当時、上役の遣り方についていけなかった。あの場から逃げたいと本気で思っていた。審神者を辞めたいと本気で思っていた。政府が大嫌いだった。皆と本丸を去ることは確かに望んだことだった。辞められること自体はとても嬉しかったのだ。皆を解放して、自分も解放されること自体は、嬉しかったのだ。ただ一つの、心残りだけを除いては。
でも、あの時。別の個体だとしても、それでも会いたいから戻るのだとはっきり言った貝殻の彼女が、とても眩しくて、……羨ましく思ってしまったのも、私の本心だった。
あの場に残って戦う選択をしなかった自分が、上役と戦うよりも刀解と逃亡を選んでしまった自分が。それなのに、優柔不断なせいでふた振りだけを残してしまったことに、ずっと未練がある自分が。誰よりも一番、許せなかったのだと。私は、誰より、そんな自分自身が、一番憎くて、恨めしくて。
だから──……そう、ああ、そうだ。だからわたしは、長い間、ずっと……ずっと、本当は、自分を許したかった。それが出来なかったから、『もういいんだよ』と、誰かに言ってほしかったんだ、と。
そんなことにも気づかないまま、周りを羨んで、自分を嫌い続けて、忘れようとして。なんて身勝手なんだろう、なんて浅ましいのだろう。余計に、あの二振りに顔向けできないんじゃないかとも思う。だけど、こんな私を慈しんで送り出してくれた二人が、まだあそこで、あの場所で、夢の中で見たように息をしているのだと改めて思ったら、急にいてもたってもいられなくなってしまって。
二年以上経って初めて──もう一度彼らに会いたいと……心が叫んだのだ。あの時の、彼女のように。今なら、今だから。会ってちゃんと謝って、お礼を言って、今度こそ、と。
あれはただの夢、たかが夢だ。きっと、私の願望でしかない。けれど、でも、私にとっては、革命的で、人生を変える程の影響力を持った夢だったのだ。
思い立ったが吉日。その日から準備を始め、いつも通り貝殻の彼女からの手紙を届けに来たこんのすけに事情を話すと、彼が爛々と目を輝かせながらわたしの本丸のこんのすけを大急ぎで呼んで来てくれた。久しぶりに会った彼は、二年振りの再会を怒るでもなく、恨み辛み言うのではなく、ただただ嬉しそうに、涙ぐみながら「お会いしとうございました!」と笑ってくれた。
こんのすけ曰く、本丸へ戻ることに手続きなどはいらないという。本来は政府へいろいろと手続きが必要なはずだけれど、理由は、本丸に行けば自ずと分かってくるらしい。……どういう意味だろうか。けれどそういうことならと、後のことはこんのすけに任せて、一足先に本丸へ転送してもらうことになった。
──審神者として生きるということは、現代の時間軸を離れ、時空の狭間に存在する本丸で生きるということだ。二年前の自分と、今の自分の心構えは、恐らく違う。審神者としてたった一年たらずで現代へ戻ったからか、現代の風景に何も変わりはなかったけれど。この先、長い時間時空の狭間で過ごすことになった時、現代というこの場所が一体どうなるのかなんて分からない。わたしが、この先どうなるのかなんてわからない。それこそ、全てが終わり、またこの地に足を付けた際、玉手箱を持ち帰った浦島太郎のように、別世界が広がっているかもしれない。そもそも、現代という「今」に帰ってこれない可能性だってある。審神者として、本丸で死んでいく可能性だって。……それでも。それでも、わたしはもう、迷いなどなかった。
本当に、よくこんなにあっさりと決断できたものだと思う。笑ってしまう程、夢から覚めたわたしの心はとてもスッキリしているのだ。……誰かが、こう言っていた。「朝、目が覚めたとき、歌を歌うことしか考えられなかったのなら、貴女はもう歌手なのだ」と。ならわたしは、今のわたしは、審神者として生きてもいいんじゃないかって。そう思うのだ。今の自分には、二振りに会いたいという想いだけしか、頭になかったから。現代で歩む明日よりも、本丸という時空の狭間で迎える明日が、欲しいから。
二匹のこんのすけに見送られながら、自分の本丸へ飛ぶ。刀の付喪神である神様と共に生きるために、きっともう戻ってこないだろう現代へ、心の中で永遠の別れを告げて。この瞬間から、わたしは本当の意味で、審神者になったのだ。
──ふわりと、周囲の空気が変わる。ひんやりしているような、暖かいような、そして身に馴染む空気だ。……懐かしい、空気だ。
転送時にぶわりと舞い上がった髪を両手で押さえ、手櫛で軽く整える。わたしの周囲に舞っていた桜の花びらは、転送が終わると同時に、空気に溶けて消えていった。自分が降り立った部屋に視線を巡らすと、久しぶりに見る自分の机や戦術書などが多く置かれている本棚、小ぶりの衣装棚、二人掛けのソファなどが置かれている。どうやらここは、かつて使っていた書斎兼、自室のようだった。
十畳ほどの大きさのこの部屋は、書斎としてだけ使うには広すぎた。ソファを取り寄せ、寛げるようにして。押し入れには布団を仕舞い、本当に執務で忙しい日などは、此処から一歩も出ずに引き篭もる……なんて事をしていたら、いつの間にか自室として使うようになっていたのだっけ。
……埃を被っている様子はない。それどころか、最近まで使用していたかのように人の手が加わっている気配すらあった。机の上には資料が数枚散らばっている。ペラリと捲って見ると、多少ところどころにしわが出来ているものの、紙が黄ばんでいる様子もない。比較的最近のもののようだった。提出任意の書類だ。そのまま何枚か見てみると、どれも同じように提出任意の書類ばかり。期限までに必ず返送しなければならない書類は、一枚もない。この部屋を使って、いたのだろうか。……あの、ふた振りが?
いや、考えていても分からない。ここに閉じこもっていても何かが変わるわけでもなし、動かなければ仕方がないなと、襖の方へ一歩踏み出した……ちょうどその時。
──スパンッ!
軽くも棘のある音を響かせて、その襖が勢いよく開いた。勢いに合わせて、襖を開いた人が着ている……真っ白な羽織が、横へひらりと靡いている。その人の後ろには、わたしが出て行った季節のまま変わっていない、秋の終わりごろの景色が広がっていた。ふわふわしていて、あたたかくて、それを着ている姿を見るのが好きだったことを、思い出す。羽織がふわりと重力に従い、元の場所へ落ちていくまでが、何故だかとてもスローモーションに見えた。いつの間にか止めていた息を音を立てず吸って、そっと、視線を少しだけ上げる。
信じられないものを見るような表情で、目を真ん丸にしている彼が、……わたしの神様が、そこに立っていた。音にならない声でゆっくり「あ、る、じ」と唇を震わせた。……ああ、わたしのことを、主人と呼んでくれた。呼んでくれるんだ。まだ、あなたの中で、わたしをその位置置いてくれているんだね。
嬉しくて、切なくて、心臓がぎゅうっと掴まれたように、痛い。
大切に、大切に、彼に届く前に落としてしまわないように、この痛みごと大切に包んで、彼の名を呼んだ。夕焼けに溶けてしまいそうだといつも感じていた金色が、大きく揺らぐ。彼が口を開いて、けれど何も言わずに、震える息だけを空気に溶かし、閉じる。目が、表情が、「何故」と言っていた。何度も言葉を紡ごうとして、何度も閉じられる。
……きっと彼は、気づいたのだろう。耐えられなくて、逃げたくて、そうしたはずのわたしが、本当の意味で、"審神者になるという永遠"を選んだこと。あれほど逃げ場にしていた現代を、遠い時代へ置き去りにする覚悟を持って、今ここにいること。だからこそ……何を言えばいいのか、迷っているのかもしれない。何が言いたいのか、分からないのかもしれなかった。それが分かってしまうほど、彼からひしひし伝わってくる感情は、底なしの優しさだった。
だから、わたしは。
「鶴丸」
彼が、応えるようにゆっくり瞬きをする。視線は、一度も外れなかった。謝りたい。自分勝手で優純不断だった今までに。私のためを想って送り出してくれた彼らの想いを受け取っておきながら、私の感情ひとつで決めてしまった未来に。全てに懺悔したいと思う。けど、今は、それより先に、言いたい言葉があった。伝えたい想いがあった。今度は彼だけではなく、この本丸全体に、この想いが伝わるようにと、言葉を紡ぐ。
「どうだ、驚いたか!」
様々な想いが交差して絡まって、声は情けないほどに震えてしまった。涙で滲んでいく視界の中、震える吐息と共に、彼が小さくはは、と笑ったのが見えた。喉から漏れた、泣き声にも聞こえる笑い声だった。それから、襖を開いた時のまま、そこに添えていた手の甲に自分の額を当て、俯きながらまた「は、」と息を溶かすように、湿った声で笑った。
何かを耐えるようにぐっと閉じた彼の唇が、しかしやがてじわじわ口角を上げていく。一呼吸してから顔を上げた彼は……鶴丸は。泣きそうに、けれど満ち足りた表情で、声で。ああ、驚いた!と、眩しいくらいの笑顔を見せてくれたのだ。
「た、だいま、鶴。……っわ、たしの、神様……っ!」
「おかえり、きみ。俺たちの、……俺の、主」
ゆっくり微笑む彼の頬に、瞳から溶け出した一筋の雫が伝っていく。それすら宝石のように思えるくらい、わたしの神様は、やはり、とても……とても、美しかった。
18.10.26
22.02.11