しん、と静まり返ったアークの私室棟。夜も更け、共同ラウンジの喧騒はとうに遠くなっていた。
ダリアンの私室は、彼の性格をそのまま映したかのように、あらゆる物が整然と配置されている。その部屋で、ダリアンは愛用の大剣の手入れをしていた。オイルの匂いが微かに漂う。
「……お邪魔します」
遠慮がちにドアを開けて入ってきたのは、情報戦略局の向日葵だった。夜更かしが多い彼女は、まだ眠る気配のないラフな部屋着姿だ。
「ああ」
ダリアンは手を止めず、短く応える。燃えるような赤髪が、作業の邪魔にならないよう無造作に後ろで束ねられていた。
「……任務、お疲れ様。その……邪魔、だったかな」
「いや。もう終わるところだ」
布が大剣の分厚い背を滑る、乾いた音だけが響く。
沈黙。
ダリアンと向日葵が、いわゆる「恋人」という関係になってから、まだ日は浅い。任務で背中を預け合うことには慣れていても、二人きりの、こういう時間の過ごし方が、お互いにまだ掴めていなかった。
「……明日の合同ブリーフィングは九時からだ。遅れるなよ、向日葵」
沈黙に耐えかねたように、ダリアンが口にしたのは、やはり仕事の話だった。
向日葵は、その生真真面目さに頬を膨らませる。
「もー! ダリアンってば、堅すぎ!」
「何がだ」
「私たち、一応付き合い始めたんだよね? なのに、さっきから仕事の話ばっかり!」
そう言って、彼女はダリアンのベッドの端に腰掛けた。くりっとした青い瞳が、不満そうに彼を睨めつける。
「……すまん」
ダリアンはそこでようやく手を止め、大剣をスタンドに立てかけた。彼も、どう接していいか分からないのだ。
傭兵時代、欲の発散としての経験はあっても、心から好意を寄せた相手との距離の詰め方は、戦闘マニュアルのどこにも載っていなかった。
「……ダリアンはさ、その……」
向日葵が、何かを言いかけて口ごもる。
「なんだ」
「……ううん。なんでもない!」
彼女は勢いよく立ち上がると、ダリアンのそばに駆け寄った。そして、好奇心旺盛な子供のように、彼の鍛えられた腕をじっと見つめる。
「……ねえ、ダリアン」
「……なんだ」
「……手、繋いでもいい?」
「……!」
予想外の申し出に、ダリアンは言葉に詰まる。
そんな彼の戸惑いを「イエス」と受け取ったのか、向日葵は「えいっ」と小さな掛け声とともに、彼の手首に向かって、そっと自分の手を伸ばした。
その、瞬間。
向日葵の手が、ダリアンの腕を、まるで幽霊のように透過した。
「——あっ」
ダリアンも目を見張る。向日葵は、火がついたように慌てて手を引いた。彼女の指先が、一瞬、半透明に揺らめいて見える。
「ご、ごめん! また……! なんか、ダリアンが相手だと思うと、緊張しちゃって……!」
彼女は自分の手を見つめ、ぎゅっと握りしめる。その顔から、さっきまでの天真爛漫な笑顔が消えていた。
「……やだね、私のスキル。掴もうとしても、こうやって、すり抜けちゃう。……気味、悪いよね」
その言葉は、ダリアンではなく、彼女自身に向けられたものだった。人との繋がりを渇望しているのに、その繋がりすらすり抜けてしまう。彼女が抱える孤独が、部屋の空気を重くする。
ダリアンは、黙って彼女を見ていた。
そして、無骨な手袋を外し、素手を露わにすると——その手を、ゆっくりと向日葵の前に差し出した。
「え……?」
「……もう一度だ」
低い、少し掠れた声だった。
「でも、また、すり抜け……」
「お前がすり抜けるなら、俺が掴む」
ダリアンは、いつもの硬派な口調とは違う、どこか不器用な響きで続けた。
「……いや、違うな。……俺が、お前の手に、触れたい。……ダメか?」
それは、命令でも、任務でもない。彼が絞り出した、紛れもない「願い」だった。
向日葵は、真っ赤になった顔で、恐る恐る自分の手を、ダリアンの大きな手のひらに向かって伸ばす。
今度は、すり抜けなかった。
触れた瞬間、ダリアンが、彼女の小さな手を、逃さないとばかりに、そっと握りしめた。
「……!」
「……!」
二人同時に、息を呑む。
彼の手は、傭兵だったとは思えないほど温かく、少し硬かった。
彼女の手は、想像していたよりもずっと柔らかく、小さかった。
「……あったかい」
「……ああ」
それ以上、言葉は続かない。
ただ、ぎこちなく手を握り合ったまま、二人きりの静かな時間が過ぎていく。燃えるような赤髪の堅物な男と、触れられないはずだった天真爛漫な少女の、これが不器用な第一歩だった。