怪我
あ
あ
あ
それから、岩泉先輩が体育館へ帰って来た。手には鍵が…
「保健の先生がもう帰ったらしいからな、鍵を戻しとけば良いって言われて貸してくれた」
『ありがとうございます。岩泉先輩』
「…つーか、何で膝枕してんだ?」
『あ、まッ…枕代わりです』
「枕って…こいつマジで寝ちまってんじゃねぇかよ」
そう。及川先輩はあの質問の後、急に黙り込み、ふと顔を覗き込むと静かに眠っているのに気付いた。気持ち良さそうに寝入っているのに、どうも起こす気が沸かなかった
「おい、及川。起きろ」
グイグイと頭を揺らす岩泉先輩。及川先輩は眉間にシワを寄せて少し唸るだけで、起きない。暫くして痺れを切らした岩泉先輩の額に青筋が浮き出たのを見逃さなかった
「起きろッ!クソかッ…」
『Σ岩泉先輩ストップーッ!及川先輩怪我してるので穏便にッ!』
今にも岩泉先輩が及川先輩を蹴り飛ばそうとするものだから、思わず手を前に出して静止した。すると、その声で及川先輩もうっすら目を開けた
「あれ……あ、そっか。俺体育館にいたんだった」
「てめぇ…何のんびり寝てやがんだ」
「いやぁ、唯織ちゃんの膝枕落ち着くからさぁ」
「ハァ…ほら、保健室の鍵借りたから行くぞ」
岩泉先輩は慣れてる様に横になっている及川先輩の上半身を起こし、肩に腕を回すと、ゆっくり持ち上げた
『わぁ…岩泉先輩力持ちですね』
「ちいせぇ頃からこいつが怪我したら背負ったりしてたからな。今は膝怪我したから背負えねぇけど」
「あいててッ…ありがとう岩ちゃん。唯織ちゃんもありがとうね、膝枕」
『いえ…私も行きます』
「あ、じゃあお前保健室開けてきてくれ。多分中に冷やすモノとかテーピングとか置いてあるだろうから」
岩泉から鍵を受け取り、唯織はすぐさま駆け足で保健室へ向かった。その後ろ姿を及川は見つめていた
◇◇◇ ◇◇◇
「ねぇ、岩ちゃん」
「あ?ちゃんと体重預けろ。転ぶだろうが」
「…俺、やっぱり唯織ちゃんが好きだわ」
「何を今更…」
体育館から出て、廊下を歩いている時に及川が改まって言った言葉に岩泉はため息混じりに答えた
以前から唯織が気になる、と告白されてからの及川が唯織に対して送る視線は先輩が後輩を見る時とは別で、男が女を見る時と同じモノ
「前まで岩ちゃんにはこう…嫉妬とかしなかったんだけどさ、最近どの子だろうとムカついちゃうんだよね。さっきの岩ちゃんと唯織ちゃんの絡み見ててもさ」
「…お前さ」
岩泉が足を止めた。急に止まったのに怪訝そうに視線を送ると、岩泉は及川の捻挫した右足を見て続けた
「俺と夢咲が話してるのを見てイラついて、腹いせにサーブしたら転んで怪我したんじゃねぇだろうな?」
「Σなッ…んな訳ッ…」
ビクッ!と極端に肩が揺れ、冷や汗を流して目が泳いでいる及川を見て、岩泉は心底呆れた様にため息を吐いた
「マジでうんこ野郎だわ、お前」
「Σしょッ…しょうがないじゃんッ!俺だってこんな気持ちになるのは初めてなんだからッ!」
「それで怪我して試合に支障でも出てみろ。夢咲が落ち込むぞ」
「べ、別に落ち込まないよ。俺は唯織ちゃんにとってただの先ぱッ…Σうへッ!」
及川は少しツンとしながら答えると、岩泉がバシッ!と背中を叩いた
「そういう事じゃねぇよ、ボゲェ!アイツは自分の都合で俺達を残らせてると思ってる。その怪我も自分が残らせた為に負ったんじゃないかってアイツは思う」
「ぁッ…」
岩泉の言葉でハッした。唯織のあの性格上、そう捉えてもおかしくないのだ
「それに、お前にまとわりついてる女共が夢咲を問い詰めるかもしれねぇだろうが」
「いや、それは……誰にも残ってる事教えてないし」
「部活が終わるまでずっと待ってる奴だっているだろ。残ってる事、お前が教えてなくてもあっちが知ってるかもしれねぇぞ」
絶対に知られていない…とは確かに言いきれない。あの子達がそんなに行動力があるとは思わないけれど…
もし……もし、唯織ちゃんが問い詰められる事があれば…
自分のせいで唯織ちゃんが傷つく事になるッ…
「うわぁ……俺って…マジで最低…」
「好きならちゃんとそういう事も考えてやれよ」
「分かってる…けど……俺しか好きじゃないって思うと…どうしようもなくムカついちゃうんだよね…」
あの時、唯織が見せた笑顔が今でも忘れられないでいる。あの笑顔を独り占めしたい。言わなければ伝わらない事は百の承知なのだが、勇気が出ない
そんな自分にもムカついてしまうのだった…
「お前、夢咲に気持ち伝える前に手ぇ出すんじゃねぇぞ」
「正直分かんない…」
「おまッ…マジでやめとけよ?したらホントに嫌われんぞ」
「分かってるよ」
今はまだ良い先輩でいるよ、と及川は目を細めて小さく言った