誘惑







部屋に入れば、ランプも消して薄暗い。でも暗闇には慣れているからか、ベッドの場所はすぐに分かる。で、目の前まで来ると案の定爆睡しているエースがいた。珍しく半裸ではなく、上着を羽織っている

とりあえず頬を軽く叩いて起こす



『おーい、エース。サッチが呼んでるぞー』
「……」

『起きろって』
「……」

頬を叩くも、エースは小さく唸るだけで起きる様子はない。その後、身体を揺すぶったり、耳元で呼び掛けたりしてみたものの…結局起きない

心が折れるって…寝起きというよりも起こすまでに折れるわ、とサッチに同情しながら一先ず起こすのをやめ、ベッドに腰掛けて様子を見る



『寝顔が子供みてぇだな』

あんまりにも無防備な寝顔に小さく笑ってしまった。子供が遊び疲れて寝てしまった様な寝顔だった

何故か可愛く思えてしまい、頭を撫でる。癖っ毛のくせにサラサラしてる。触り心地の良い髪してるなぁ…

と、夢中で髪を触っていると、エースの瞼が微かに動いたのに気付いた



『よぉ、起きたか?』

「ぇ…クロム?」
『おぉ』

普通に挨拶するも、エースはあたしだと気付くなり目を丸くさせて固まった



「何でお前此処にいんだよ」
『勝手に入った…つーか、ノックしても起きねぇからさ。悪かったよ』

上半身を起こしたエースに説明すると、納得はしたらしい。勝手に部屋に入った事に怒る素振りは見せずにエースは欠伸をしたが、その直後に怪訝気味に眉を寄せた



「お前…香水とか付けてたか?」
『は?』

「お前から嗅ぎ慣れねェ匂いがする」

その言葉を聞いた瞬間、自分でも分かるくらい嫌な顔をしていたと思う



『風呂入ったから消えた思ってたのに…マジで腹立つ』
「何なんだよ、その匂い」

その問い掛けに隠す必要もないとすんなり答えた。今停泊している島が風俗一色であった事と匂いの原因がそこで働く女達である事。それを伝えると、何かを悟った様にエースは鼻を片手で覆って浅くため息を吐いた



「通りでな。随分と男を刺激する匂いだと思った」

『刺激?何のだよ』
「いやいや、男の刺激っつったらそりゃあ……つーかとりあえずお前はベッドから降りろ」

は?と意味が分からなかったから降りずにいると、エースの方がベッドから降りようとしたものだから思わず腕を掴んで止めた



『何で逃げんだよ』
「マジでわりぃんだけど…それ以上は俺に近寄らないでくれ」

一方的に理由もまともに言わずにそう言ったエースに少しムッとなり、気に入らずに敢えて逆な行動を取る。逃がさんとばかりに握った腕を離さず、あたしもベッドから降り、距離を詰める

そうすると案の定何故かエースはキョドり始める


「待て待て、来るなって」
『何だよ、起こしに来てやった奴に向かって』

失礼な奴、とますます機嫌を損ねて胸倉を掴んで引き寄せた



『何でそんなに距離離そうとすんだ?言ってみろよ』
「Σ敢えて近付くなっての!」

『お前が失礼極まりねぇからだろうが。さっさと言えや』

睨み付けながら言って、暫くの沈黙。すると、エースは観念した様にボソッと呟いた



「お前ホントにッ…それ以上もう1人の俺を挑発するような事しないでくれよ、マジで」

そんな事を言い出してますます理解が出来ずに首を捻る



『何だよそれ、エースって多重人格だったのか?』

「そうだよ。つーか男ってのはそういう生き物なんだよ。だからマジで離れろ」

『…ふーん』

今まででエースがエースでない所は見た事がない。もう1人のエースってどんなだ?男はそういう生き物だってどういう生き物っつーんだよ。少し好奇心が勝ってきてしまい、胸倉からは手を離したが、腕を掴んだ



「離してくれって…ってか部屋から出て行ってくれ。頼むからマジで」
『へぇ、珍し。ホントに焦ってんじゃん』

あまりこういったモノで焦る所を見られたくないからか、そう言われたエースはうるせぇと顔を赤くして腕を振り払ってきた。が、あたしもあたしで腕を離しても距離は取らずに寧ろ詰める



「だ、だからやめろって!何で近付いてくんだよ!」
『えー、だってこうすればもう1人のエースが出てくるんだろ?見てぇじゃん?』

「おまッ…それ以上近付いてくるなら、マジで後悔しても知らねェぞ!」

後悔という言葉に思わず小さく吹き出して、逆に挑発気味に笑って再度胸倉を掴んで引き寄せて言ってやった



『あたしを後悔させる根性がエースにあんのか?』

焦って可愛いとすら思っていたエースだったが、次の瞬間、完全にエースの目つきが変わった

引き剥がされると思っていたのに、胸倉を掴んだ手を逆に掴まれて、そのまま後方に押された。突然の事でバランスを崩して後ろのベッドに倒れ込んでしまった。衝撃で一瞬目が閉じて、また開いた時、視界には天井と険しい表情のエースが見えた



「くそッ…」

今度はあたしの方が戸惑った声が出ずに目を見開いたまま唖然とエースを見上げていた。顔の両サイドであたしの腕を押さえ込むエースの力が強くなるのに気付いた

何か…怖いッ…





「クロム…」

呼ばれ慣れているのに、何故か表情が強張る。エースの表情が何か言いたげに歪んだ



「お前、俺の事…どう思ってる?」

『今更言ってッ…』
「真面目に答えてくれ」

急にそんな事を聞かれても困るのが本音だ。大体何で今その問いが出る?それを聞いてなんの意味があるというのか。でも今のエースは何故か別人な気がして、考えてる事か分からない

いつもなら大抵何を考えているか分かる程に分かりやすい奴なのに、今目の前にいるエースは…何かいつもと違う



『…家族だ』

今言えるあたしの答えなんてこれしかない。というより、これ以外思い付かない。あたしがそう一言口にしても、エースの険しい表情は変わらない



『エースはあたしの…命より大切な家族だ』

「…家族か」

目を細めて、険しい表情のまま呟いたエース。答えても尚退かないエースに頭に?が浮かびまくって大人しくしていると、エースは力なくあたしの懐に頭を落として、か細く声を漏らした



「身内だと思うなら…頼むから俺を煽らないでくれッ…」

驚いた表情を崩せないまま、ぇ…と声が漏れた。どういう意味なのか、その場ですぐに理解が出来なかった




「これ以上煽られたら……俺はきっとお前の中で…家族以下の存在になっちまう…」

それだけは耐えられねェ…と一言言って、エースは顔を上げてあたしの上から退いた。何故か少し胸がホッと安堵し、続けてあたしも身体を起こした

顔を片手で覆い、背を向けて立っている姿をただ見つめていると、エースは此方に振り向いた。その表情はさっきとはまるっきり違かった



「そうだ、何か俺に用があったんだよな」
『ぇ、あ…あぁ。サッチが話があるとかで』

「そうだったな。わりぃ、わりぃ。そんじゃ、サッチの所に行ってくっかな」

さっきの出来事が嘘かの様にエースの表情や口調はいつも通りの明るさ。また場の雰囲気が変わりそうだったからか、あたしも敢えて掘り返さず、部屋を足早に出て行くエースの後ろ姿をただ黙って見送った


【誘惑 END】

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