ちかい
「やあ、妃音さん。ちょっといいかな」
「あ、お断りし、」
「だめです」
最近こういったことが増えた気がしている。できるだけ関わらないようにしていくものだと思っていたのに、大外くんの方から何度もコンタクトをとってくる。でもきっと、私がその誘いを受けた瞬間に彼はもう二度と私の事なんて頭の片隅にも入れてくれないのだろう。だから、音子ちゃんの助けがなくても大丈夫と言えば大丈夫なんだけど、大外くんがあまりにも悪ノリをするものだからなかなか手ごわくて結局音子ちゃんの存在に助かっている自分がいるのも確かで。音子ちゃんにいつもお礼のお菓子をたくさんあげていたらいつの間にか料理の腕が格段に向上したのが最近のハイライト。
「そういえば、塚原さん。君のベッドメイキングは些か雑過ぎると思うんだ。防人さんと変えてもらうことはできないのかい」
「すみません。私が担当しているお客様もそれなりの数いらっしゃいますので申し訳ございません」
大外くんは繊細な動作でコーヒーを飲んでいる。彼の所作は本当に美しくて、幼い頃からしっかりと教えられてきたのだろうと育ちの良さを見せつけられている。一般人がしてしまえば不格好になってしまうようなことも、彼の手にかかれば美しい物へと変えられてしまう。どうしても、犯罪者には見えなかった。この期に及んでもまだ私は彼のことを信じたいのかもしれない。
「……ともかく、妃音さんはもう少し危機感を持った方がいいと思いますよ。ちょっと危機感がなさすぎます」
「それは同感だね」
「大外さんが犯罪者じゃなければ妃音さんのことを任せられたんですけどね」
「僕だって死にたくはないんだ。手なんて出さないよ」
「本当ですか〜?」
「本当だとも」
ふと時計を見ればもうそろそろ休憩が終わる時間になっている。備品の確認と客室掃除。私が担当するお客様は音子ちゃんの担当するお客様のように癖があることはないからとても自己研鑽がしやすい。でも、たまにはあれくらいの刺激がないと怠惰になってしまう気がして少しだけ恐ろしい。
「それじゃあ音子ちゃん。お仕事頑張ってね」
「あれ、休憩終わりですか」
「はい。くれぐれも空回りしないようにね。……それでは、失礼します」
背後から聞こえてくる再び始まった音子ちゃんと大外くんの応酬にふいに笑みが零れてしまう。どうしてなのか、大外くんが誰と話していても不思議と嫉妬は湧いたことはなかった。もしかすると、私が大外くんに抱いている感情は恋とは違ったのかもしれない。憧れ、羨望なのかもしれない。でも、大外くんから言われる甘言は本当に耳馴染がよくてそんなことを忘れてしまう。この気持ちに何と名前を付ければよいのか分からないのでひとまず"恋"ということにしておこう。
さて、ここでの暮らしの中での一番の問題はここでの時間は永遠ではなく、ここから出てしまえば一触即発の状況になってしまうことだ。俗世から離れた生活がこんなにも居心地がよいものになるとは思ってもみなかった。まだ行きたくないと思ってしまう。ただ、自分の生死がまだ定かではないのだからどうすることもできないけれど。
「妃音さん」
「え」
「久しぶりだね。まさかここに居るとは思ってもみなかったよ」
物置で備品整理をしていると入り口から大外くんの声がした。その呼び方をするということは周囲には他に誰もいないんだろう。それに加えて、沓摺から先へ足を踏み込まない辺りしっかりと自分の立場わきまえていいるように受け取ることができる態度を保ち続けている。不思議な人。
「そうですか。私はここに大外くんが来るなんて信じられない。だって、大外くんはなんだかんだ生きてそうだし」
「……冷たいな」
「大外くんは恋人というよりも敵対者という感じが強いと思ったの。大外くんはどう考えているかはわからないけれど、恋人、なんて考えていないんでしょう」
「へぇ」
「君は僕のことを嫌いになったのかい?」
「そこまで心変わりが早い方ではないよ。大外くんはもともと私のことは好きではないでしょう」
「君には僕に溺れたままでいてもらわないと困るんだ」
ふいに顎を掬われ、こちらを見下ろす大外くんの表情にわざとらしい熱が見えて背筋が凍る。この人は私のことが好きじゃないくせに私のことを離すつもりがなくて、手元に駒として置いておきたいんだろう。そこまでしなくても呼ばれたら動くんだけれど。もしかすると、情報の漏洩を恐れているんだろうか。二股している事実よりもひどく恐ろしいことだろうし……
「大外くん、前は嘘でも私を見てくれていたのに今は興味ないみたいだからそこまで夢を見れないんだよ。そんなに手玉に取りたいなら嘘でも前見たいに甘言吐いてくれたらイチコロだよ」
「……君は僕に偽り続けろと言っているのか」
「もしそれをしてくれないなら私は大外くんとは関わらないよ。二度とね。別に情報だって漏らさないし漏らすメリットがない。これでいい」
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