祝福の果てに

 エリーゼ・アキレイトは十五歳になる少女であった。少々特殊な家の生まれではあったが、さほど周りの女の子と変わらない日常を送ってきた。ミタマ地方における普通の女の子とは刺繍や裁縫を学びながら、学舎に通うのだ。ポケモンたちに囲まれ、ミタマ地方では裕福な家の生まれだったエリーゼは何不自由のない、信仰に篤いエーディア教の良き信徒であったと言える。
 ミタマ地方におけるエーディア教は政治を司るほど大きな宗教であり、エーディア教の中心に位置する神子ともなれば、その絶対的な影響力は計り知れない。彼女の言葉こそがエーディア様のお言葉。神子は何者にも公平であり、どんな人に対しても優しく手を差し伸べられる素晴らしい人なのだと教わった。実際にこれまでの神子は我を潰してそうであったのだから、間違いではない。エリーゼはエーディア様に直接拝謁を賜ったことはなかったが、彼女の父や母はあなたはエーディア様にお名前を頂いたのよと話していた。光栄なことなのだという。エリーゼも実際にそう思う。
 そんな、どこにでもいるような少しだけ高飛車な普通の少女だったエリーゼの前に嵐のように現れたのは、失踪していたのだという今代の神子であった。
 その顔の造形は言うまでもない。美しい宝石のような瞳はまるまるとしていて、今までエリーゼが見てきたどんな女よりも美しく見えた。赤い髪が風に揺られて炎のように舞うのを呆然と眺めていると、目の前の人物はにこりと笑った。どこか遠くを見ていた瞳はエリーゼを写し込んだ。
 差し出された手は、神子として守られているとは思えないほど、旅をしてきた人間の節くれだった手だった。
「エリーゼ・アキレイト」
 なぞるように名前を呼ばれると、自然と姿勢が伸びた。
「これは、私の個人的な頼みであり、エーディア様は関係のないことです。だから、嫌ならば嫌だといってください」
 丁寧だが有無言わさぬなにかがあった。エリーゼの運命とやらはこのときに定められたのだろうと思う。

「ミタマ地方に残る、最後の王侯の血。あなたにはこの国の王になってもらわなければなりません」



 揺れる潮風にエリーゼは目を開けた。
 なんとも懐かしく――……忌まわしい記憶だろうか。
 あれは、確か十五歳の冬になりかけた季節だった。寒さの中に凛として立つ神子の姿には記憶がある。彼女に差し出された手を今も覚えている。あのとき、手を取らなければよかったなんて考えないこともないが、今となってはもうどうしようもないことだ。神子の三つ子の弟いわく、過去と今はあらゆる選択によって積み重ねて、未来を作るということだから、エリーゼの未来はあの日の選択で大きく変わってしまったのだろう。
 顔を横に降って眠っていたベッドから体を起こしてみる。潮風が入り込んできたのは窓が開いていたせいだ。心地の良い冷たい風が吹き込んでくると、胸元にせり上がってくる嫌な淀みは下がっていった。周囲を見回してみると、見覚えのない部屋だったが、わずかに揺れる感覚がして――ああ、そういえば、船の上にいるのだったと思い出した。
 エリーゼにとってはじめての船旅は船酔いからという最悪のスタートだった。
 そもそも、なぜ、エリーゼが船に乗っているかというと、外交のためだ。長らく鎖国の続いていたミタマ地方は昔に繋がりのあった地方のことなど等に忘れ去られてしまい、改めて他の地方とつながりを作り、世界の輪に入ってゆかねばならなかった。そのための外交。一番最初に選んだのは海を挟んで向こう側の地方――青と緑に囲まれた豊かで美しい自然と長い歴史を持つシエロ地方であった。
 エリーゼは女王となった。
 アスナの預言どおりに。いや、あれは預言ではなくアスナの個人的なお願いだったらしいが、お願いで女王になることを定められたのだとしたらとんでもないことなので、皆はあれをアスナ様の預言だと言った。あんなものが預言であってたまるか、というのがエリーゼの本音だが、アスナはエリーゼを王として選んだ。アスナは神子が政治を握ることをやめたのだ。あらゆる権力を掌握できる場所から自ら降りて、神子を特別なものから遠ざけた。
 外交に女王であるエリーゼが向かうのは当然のことである。そして、外交に向かうということはミタマ地方から外に出るということであった。ペンタシティからも外に出たことがなかったエリーゼからすれば大騒動である。
 船に乗るまでは実は胸がすごく高鳴っていたのであるが、船に乗ってみてノックダウンだ。船酔いは本当に辛い。今度からは空路で行けるように早い段階で飛行機や空港の導入を裁決しなくてはと、エリーゼは一人で決意を固めた。
 廊下を歩くブーツの音が聞こえてきて、エリーゼは一度思考を途切れさせた。ノックなしにドアが開いたかと思えば赤い髪が揺らめいた。ミタマ地方ではこれ以上高貴なものはないと言われている赤い髪。青と緑色の瞳がエリーゼを映して、驚いたように目を見開いていたがたちまち嬉しそうに微笑んだ。
「起きたの、エリー」
「エリーはやめて」
 間髪入れずに、彼女の言葉を区切った。エリーゼという名前にあだ名をつけるからといってなぜエリーなのか。百歩譲ってエリーはいいとして、それを神子であるアスナに呼ばれるということがなんだか違和感を感じてしまうのだ。――これがミタマ地方の英雄などと誰が思うのだろうか。美しい微笑み、とは違う。にこにこ、いや、ヘラヘラだ。エリーゼはそう決めつけると、ベッドから起き上がって襟元を直してきりりとアスナを睨みつけてみた。だが、アスナといったらヘラヘラとした表情はまるで変えないまま、エリーゼの手をとるとドアに向かって歩きだしてしまった。
「ちょ、ちょっと、なんなのよ!」
「せっかくの船旅なのに、船室で寝っぱなしなんてもったいない! 旅の醍醐味はすでに始まってるんだから!」
 ゴーゴー! と走り出してしまうアスナに対して、エリーゼは突然のことで対処できず前につんのめるようになりながらも必死に足を動かしてアスナについて行った。船室から甲板へと続く階段を走って登るのは、なかなかきついものがあったがアスナはほぼ二段飛ばし、三段飛ばしをしかねない勢いで登っていく。神子様なんて、祀られてるだけのくせに――という言葉が出そうになったが、彼女はそうではない。ミタマ地方では異端とも言えるが、十歳から五年も旅をしていたのだ。お屋敷で甚く大層可愛がられて箱入りに育てられたエリーゼとは体力が根本的に違った。
 ああ、日差しが眩しい。
 甲板に出てきてエリーゼは目を細めた。白く美しい太陽はまるでサニーユエル様がこの船出を応援してくれているかのように思えて、走らされた弾んでしまう胸を抑えながら息を整える。前には、外交用にとしつらえたホワイトグレーのフィッシュテールスカートのスーツを揺らせた英雄殿が楽しげに笑っているのが見えた。神の使いたる、ブラッキーとエーフィの二匹はサンデッキのパラソルの下で優雅にお昼寝をしているのが見えた。
「見てみて、エリーちゃん! ほら、こんなに綺麗なんだよ!」
 観光気分か、と突っ込みたくなるのはエリーゼ一人だけではあるまい。しかしながら、ミタマ地方の改革者はそんなこと意にも介さない。どうせ言っても聞きやしないのだからしばらくはその通りに動いてやろう。エリーゼははいはいと頷きながら、アスナが捕まっている欄干に手をかけて海を見て――絶句した。ミタマ地方から見る海とはなんだか違うように見えた。
 青々しいほどの美しい海と、白い雲が彩る青い空のコントラストは本当に素晴らしいものだった。いや、ミタマ地方でだってこんな景色は見れるのかもしれないけれど、初めて外から見た景色はなんだか特別なものに思えて――エリーゼの緑色の瞳に強く焼き付いた。
「綺麗だよね、海って」
 アスナが隣でうっとりとつぶやいた。
「そうね……驚いたわ」
 ここは素直に感想を述べておこう。アスナはにっこりと嬉しそうに笑った。

「これから向かうのはシエロ地方のリッシュウシティにいくの。その後、陸路で首都であるソウコウシティに向かうんだ。リッシュウシティは、海岸線沿いに街ができてるからすごく美しいし、北側にあるのオリッゾンサーカスはシエロ地方を代表するサーカス団だから、時間が出来たら見てみたいね」
 つらつらと、アスナがそう言いながら指を折っていく。
「……よく、覚えてるのね」
「そりゃ、久しぶりの旅だもん」
「……船で二時間よ?」
「陸路は車で三時間以上かかるよ。歩くともっとかかる」
 もともと旅をしていたからか、今、ミタマ地方の改革で縛り付けられていることに些かの不自由を感じているのかもしれない。飛ぶことを覚えてしまった鳥は鳥かごの中ではさぞや窮屈なのだろうとエリーゼは思いながら、アスナの言葉の続きを待った。
「シエロではすべての道はソウコウに通ずっていう格言があるほどで、実際にシエロシティの街道はすべてソウコウシティにつながっているんだ。首都というだけあって人口も最も多いし、文化的にも一番進んでる。ソウコウジムの斜塔は素晴らしい機械じかけが施されているんだって! できれば、一度挑戦してみたいんだけど、時間はあるかなぁ」
「遊びに行くんじゃないのよ? わかってる?」
「わかってるよ」
 アスナは少しだけ寂しそうな目をして、海を眺めた。
「私達はお仕事でシエロ地方に行くんだよ、わかってる」
 アスナはたった一人でカントー地方へ降り立ち、ジョウト地方、ホウエン地方、シンオウ地方、イッシュ地方、トラオム地方、カロス地方と周り、ミタマ地方へ戻ってきて、改革を進めた後、守り神に会いに行くために半年ほどアローラ地方を巡っていた。旅と共に生きてきた人だ。今の書類だらけの仕事や、信徒たちの前でニコニコと笑い、加護をもたらす仕事に些か窮屈さを感じていても仕方のないことだ。エリーゼからは想像できないような人生をアスナは送ってきている。
「でも、少しだけ時間が出来たら、せっかくだもん! リッシュウシティのピザとかさー、食べたいじゃない!」
「そうね」
 こういう自由さが、ミタマ地方に新しい風をもたらしたのだろうと思うとエリーゼは少しだけ微笑ましく思った。自由を愛する人が、自由を捨てて、ミタマ地方にすべての人生を捧げるために戻ってきた事実を、おそらくは彼女の周りの人間は気づいている。アスナは遠い異国の地で、恋をした。その恋を捨てて、愛するミタマ地方のために戻ってきたと思うと、エリーゼはうかうかなどしていられなかった。そんな人間に女王の座を用意されたのだと思うと、少しだけ背筋が伸びるし、緊張で胸が張り裂けそうだ。政治の話をするのは、女王であるエリーゼなのだから。子供だから、そんなふうに思われないように堂々としていなければ……と思ったところで、アスナの手がエリーゼの手を包み込んだ。
「大丈夫、大丈夫よ。エリーゼには、エーディア様がついておられるわ」
 ああ、なんて神子らしい。
 先程までの少女のような顔はどこにもない。慈愛にあふれる神子の顔をして、エリーゼの手をそっと撫でる。エリーゼはそんなアスナに向かってわずかに表情を緩めると、ええ、と頷いた。アスナが何かに気づいたように顔を上げて、海の向こう側を見るので、エリーゼもつられるようにして海の向こう側へ目を凝らしてみる。すると、陸が見える。白亜の街が、折り重なるようにして出来ているのが見えた。
「見えたね……シエロ地方だよ」
「……ええ」
 ミタマ地方の改革をより進めるための外交の第一歩が始まるのだと思うと、エリーゼは自分を女王にと選んだ神子の手を強く握りしめてしまった。アスナはそんなエリーゼの不安や緊張を感じ取ったのだろう、そっとエリーゼを引き寄せて抱きしめる。背中を撫でる手がまるで幼子にでもするかのような優しさで、エリーゼは少しだけ恥ずかしい気分になったが、なんだかとても安心するので、好きなようにさせた。

 船がゆっくりと速度を落として、白亜の街へと近づいて行く……。