鉛筆で埋める





こいつが笑ってられるなら、何でもいいと思ってた。

「巻いた方が可愛いって言うから巻いてきちゃった。」
「おーおーそうかよ。」

幸せそうにする顔を見ていられるなら、それこそ。本望だって。

「プレゼント喜んでた!倉持のアドバイスは頼りになるなあ。」
「そりゃどうも。」

隣にいるのが別に俺じゃなくても。

「最近返信遅いんだよね、忙しいのかな。」
「そういう時もあるだろ。」
「会いたいって言っても反応微妙だし。」

名前に心配するなよって言ったとき、信号が赤色を示していることに気が付いた。気が付いていたが。それでも俺はひどく不安そうにする表情に引き寄せられるように名前の欲しい言葉だけを使って慰めていた。今思えば、本当に最低だと思うけれど。それでも、あの時の自分はただどうしたら泣かせないで済むかだけを考えてたから何回も何回も、オーバードースな位に大丈夫だって繰り返したのだ。





天気予報は確かに曇りだった。
その日は二講目までしかなかったから、足早に流れる人達を縫うように避けながら外に出て、傘をさす。まるでお天気お姉さんとの勝負に勝ったような気分になって、特有の憂鬱な気持ちは少しだって感じてなかった。絡まったイヤホンをほどきながら鼻歌まじりに水たまりの向こうを見れば、ちょっと遠くに名前を見つけた、が。仄暗い空の下見慣れた背中はずぶ濡れで。ザアザアと強く降り続ける雨に全く気付いてないみたいに歩いていた。どく、と鼓動が叫ぶ。行くな、行くな。そう俺にしがみつく。それでも嫌な予感とあと少しでほどけそうなイヤホンをポケットに突っ込んで走って名前の横に収まるように並び、土砂降りに負けないよう大声で傘、どうしたんだよと声をかけた。

「朝予報見たときは曇り後晴れだったから。」

何で信じたんだろ。名前はそれっきり何も言わなかった。
俺も何も言えなかった。その消え入りそうな声に心臓は嫌な感じに震えて締め付けられて、縁から零れる雨粒と彼女の様子を交互に窺っていた。でもいつまで経っても目は合わなくて。歩幅を合わせながら行く先も分からないまま、ただこれ以上名前が濡れないようにと傘を傾け続けることしかできなかった。

・・・

名前の部屋に来たのはその日が初めてだった。鍵を閉める音と床に水が滴る振動だけが響いていた。俺は濡れた鼻先、首に張り付いた髪、指先を順に、最後に静かに震えている目を見た。靴から青い感情がじわりと染み出して床に広がっている。
それからタオルで髪をふきながら名前は俺の横に座って、どうだっていいような話をしばらくして、急に咳き込むみたいにして話すのをやめた。遠慮がちに大丈夫かと顔を覗き込むと名前は「好きな人ができたんだって。」と呟いた。

「好きな人?」

何回か深呼吸をしてから、事の顛末を時折つっかえながら話しはじめた。そしてお前のことはそれ程好きではなかったと言われたシーンでついに泣き出したのだった。揺れる声をそのままに続けようとするからそれを遮るようにして抱きしめた。もういい、

「もういい。」

と強く抱きしめた。強く強く。名前の涙は雨で既に濡れた俺の肩に当たり前みたいに染み込んでいく。冷えた暗い部屋の中、あたたかいのはその温度だけだった。





最初に好きな人がいると言われた時、暫く呼吸ができなくなったのをよく覚えている。

「ねえきいてよ!」

昼食をとっているところに現れた名前は、俺を見つけた途端にやけに嬉しそうに小走りで近づいてきて笑顔でそう言った。俺は返事をしない。いつもの事だった。名前は会う度に本当にくだらないことを世紀の大ニュースの様に報告してくるのだ。高校の同級生と久しぶりに会っただとか、バイトに遅れそうで走ってたら膝をすりむいただとか。そんなことをこっちの反応なんてお構いなしにベラベラと喋る。さしずめ今日は自転車がパンクしたとかその辺だろう、そう予想しながら彼女の伏せられた睫毛を見ていたのだ。しかし名前はいつも通りのくだらない話をしてくれはしなかった。

「…なんつった?」
「好きな人ができたの。」

ふふと笑っている。その笑顔からまるで目が離せなかった。いつだったかバイト先の先輩がかっこいいと言った時だってそんな顔してなかったじゃないか、そんな。恋焦がれるような目なんて。

「そりゃあ、よかったな。」

きっとそいつはとてもかっこいいのだろう、お前にこんな幸せそうな表情をさせられるんだから。名前はとても楽しそうにその好きな人のことを時間ギリギリになるまでずっと喋り続けた。正直あいつがどんなことを言ってきたかなんてほとんど覚えていないが、嫌がらせみたいにあの浮ついた可愛い笑顔だけが脳裏にこびりついていて。そして何回もうざったらしい位にその映像を思い出す度に心の底から祈るのだ。どうか。神様、どうか。

「髪色変えちゃった、こういう色の方が好きなんだって。」
「好きなアーティストも教えてもらったからきいてるの。私結構好きかも。」

こいつらがうまくいきませんように。




それでも名前は例の男とキスをした。こんなに神に縋るように頼んだっていうのにな、と落ち込んでいる内に二人はとうとう付き合った。そうこうする内に気が付いたが、俺は案外あいつのくだらない話をきくのが好きだったということだ。まあ確かに、好きな女のする他の男の話なんかよりは何百倍だって好きだ。今ならいくらだってきいてやれる位だ。だからその死ぬ程ききたくない話をきかせるのはやめてくれよ。記念日に貰ったプレゼントを自慢するためだけに友達をやってるのなら、もう二度と会いたくもない。顔も、声だってききたくないんだ。でも、それなのに、この張り裂けそうな心臓を無視して会い続けた理由は何なのかなんてそんなこと自分でもいまいちよく分かってない。きっと何かを望んでいたことは確かだけど、でもそれにしたってこんなことは求めてなかった。名前が傷つくことなんて。

「なんで、なんでこうなるの。」

ましてや泣き顔なんて。
誰にきいてるのか分からない問いかけを彼女が口から溢す度に、喉元にせり上がってきたどうしようもない感情の行き場を探して。息もせず、止まない雨の音をきいていた。





(たぶん続きます)


back