秘蜜には毒がある
「え、キルアってちゅーしたことないの?」
「ぶはっ!!」
何気ない会話の流れから突然そんな爆弾を投下され、キルアは思わず飲んでいたメロンソーダを気管にちょっと流しこんでしまった。泡立つ炭酸がちりちりと爆ぜ、がはごほと咳き込んで正しいルートに戻してやったあとも、鼻と喉の奥にまだつんとした痛みが残っている。けれどもそうやってメロンソーダで溺死しかけたことよりも、キルアにとってはゴンが発した内容の方が衝撃的だった。
「な、な、な、何言い出すんだよ、いきなり……!」
ナックルとシュート対策会議−−そういう名目でパームのところから逃げ出して、やってきたのはどこにでもよくあるチェーンのファミリーレストランだった。性格はあれでもパームの料理の腕はなかなかいいので、二人はドリンクバーだけを注文して角のソファー席を陣取っている。
一応、避難が名目とはいえ、最初の方はどうやって割符を手に入れるか、この短期間で何の修行をどれだけやるか、そういう真面目な話題もしていた。が、話しているうちに早くナックル達を倒せと煩いパームのことが思い出されて、そこから少々愚痴っぽい雰囲気になる。ゴンはまったく平気なようで、むしろ彼女の扱い方をよく心得てすらいるが、キルアは未だ目の仇にされていることもあってパームのことが苦手でしかなかった。
「何って、キルアが先に誓いのちゅーの話したんでしょ」
「あ、あぁ、そっちね……あんなの、見たのも聞いたのも初めてだっつうの。くじら島だけなんじゃねーの?」
「やっぱりそうなのかなぁ」
「てゆーか、ああいうの誰かれ構わずやるのはやめろよな」
「どうして?」
「どうしてって……」
情報を聞き出すためとか、わざとやっているなら別にいい。だがゴンみたいに自覚なしにああいうことをしていると、要らぬトラブルまで引き寄せそうだ。何より、見ているこっちがいたたまれない。
どう説明したもんか、言ってもこいつは理解しなさそうだな……と眉間にシワを寄せて考え始めたキルアを見て、ゴンはちょっと困ったように笑った。
「大丈夫。オレだって適当に約束してるわけじゃないよ。できると思ったことと、どうしてもやらなきゃいけないことしか約束はしない」
「えっと、そういう話じゃねーんだけど……あ〜もう、オレが変な風に考えすぎなのか?」
「変な風って?やっぱりキルアはほんとのちゅーの話してるの?」
「バカ! してねぇって!」
キスどころか、異性となんて付き合ったことすらない。そもそも生活全部が暗殺の修行で、ゴンと旅に出るまで仕事以外で外に出たこともなかった。「ほっぺにちゅーも、カウントしていいよ」だからなぜその話題を続ける。キスの範囲を拡大されたところで、うちにいるのは男兄弟ばかりだし、執事は友達ですらない。まさか幼い頃にされた母親からのものをここで言えというのだろうか。冗談じゃない。
「ゴンこそ、あ、いや……」
ゴンこそどうなんだよ、そう切り返そうとしたキルアの頭の中に、ふと古い記憶が蘇った。
たしかあれは五歳の頃だったか。孤児院を運営していた教会の神父が、人身売買やら賄賂の着服やらどうしようもない男で、とうとう関係があった方面からも目に余ると判断されたのだ。
今から思えばゾルディック家のターゲットとしてはずいぶんと小物だったように思うが、おそらく実施訓練のひとつだったのだろう。キルアは孤児のふりをしてターゲットに近づき、その仕事先で一人の少女に出会った。
『大丈夫?お腹すいてない?』
『う、うん……』
普段は彼女たちよりも(毒入りとはいえ)良いものを食べている。それでも孤児として怪しまれないよう、ついでに飢餓に耐える訓練も兼ねて、キルアはここ二週間ほどろくなものを口にしていなかった。
そんなキルアに話しかけてきた少女は八歳ほどに見えたが、こちらもまた食事が足りていないのか発育が悪く、もしかしたらもう少し歳上の可能性もある。なんにせよ、彼女はキルアの様子を見かねて自分の分のパンを分けてくれたのだ。
『いいよ、オレ、食べなくたって平気だし』
『そんなことあるわけないじゃん。いいから遠慮しないでよ。キミ、名前は?』
『……キルア』
『キルアね。私はジャイ子って言うの。分からないことがあったらなんでも聞いて。あ、それから、パンのことは他の子に秘密ね』
彼女はそう言って小さくウインクすると、キルアの手にパンを押し付けて自分はさっさと教会の外へ出て行ってしまった。なんでも聞いてと言った割には案内もしてくれないし、完全に放置だ。ひとまずパンにかぶりついたキルアは、少しカビ臭いそれをのみ込む。それから彼女の後を追うようにして、自分も教会の外へ出る。
周囲を探せば、ジャイ子は建物の裏手にある井戸から水を汲んでいるところだった。
『お水いる?』
反射的に頷けば、釣瓶桶ごとぐいと差し出される。慌てて近くに寄って受け取り、どうしたものかと迷っていると、ジャイ子は手ですくって飲むのよ、と笑った。
『冷たっ』
『ふふ、でも美味しいでしょ? ここの地下水は綺麗なの。水だけは沢山あるからお腹が空いたら皆よく飲んでるんだ。あ、あとね、デザートだってあるんだよ』
『デザート?』
カビの生えたパンと井戸水で腹を満たしている生活から、まさかデザートなんて言葉が飛び出してくるとは思わなかった。キルアが驚いて眉を上げれば、ジャイ子はどこか得意そうに微笑む。
ついてきて、と促された先には、どこにでもありそうな街路樹が満開の花を咲かせていた。
『この花の蜜、とっても甘いの』
彼女はそう言って、手のひら大の紅い花を一つもいだかと思うと、その花弁の中心部に顔を寄せる。それからぼうっとその様子を見ていたキルアに向かって、ほら、と手に持った花を近づけてきた。
『見える? この一番奥の方に蜜袋があるんだ。他のよく似た種類のやつにはないから、たぶんこの木の種類が特別なんだと思う』
『……知ってる。ロドの花だ』
『へぇ、そんな名前なんだ。物知りなんだね』
別に物知りなわけではない。キルアがそれを知っているのはその花が毒性を持つからだ。神経系に作用する痙攣毒と習ったが、ジャイ子は平気で口にしているし、ここの子供たちも大人に隠れて蜜を吸っているのだという。キルアが言うのもなんだが、世の中には妙な耐性をつけてしまった人間もいるらしい。
『あんまり他の奴、特によその奴には勧めない方がいいと思う。これ、毒あるから』
『ご、ごめん!確かにそう言われると慣れるまではピリピリくるかも! つい忘れてて……』
『オレは平気』
キルアは彼女の手からやや強引にロドの花を奪い、自らも顔を近づけて蜜を味わう。毒でもいいからこの際甘味が欲しかったのと、単純に怖気付いたと思われたくなかったのと、できれば彼女に毒を食べさせたくなかったのと、理由は色々だ。
ちゅる、と勢いよく吸い込んだ蜜は、思っていた以上に甘かった。それと共にぴりりと舌先を刺激する感覚があって、大人には秘密だよ、と囁かれた言葉がいけないことをしている気分をさらに掻き立てる。
実際、植えられた花を勝手に手折ることなど、これからキルアがすることに比べれば笑ってしまうほど可愛らしい罪だったが。
『もう、食べかけじゃなくても、花は他にいくらだってあるのに』
『ごめん。でも、ほんとにみんなこれが平気なのか?』
『まあ、たまに身体に合わない子もいる。でもそのうち慣れるよ』
『……そっか』
『キルアは大丈夫?』
さすがにこの程度でどうこうなるほど、やわな鍛え方はしていない。ほとんど頷いたと同時に今度はキルアの手からぱっとロドの花は奪われ、ジャイ子が悪戯っぽく笑っていた。
『えへへ、お花ごしにちゅーだね』
その意味を理解するのは、彼女がもう一度ロドの花へ口づけてから。
それでも当時のキルアは別に恥ずかしいとも思わなかったので、本当の意味で理解したのは偶然この記憶を遡った今なのかもしれない。
「ねぇ、キルア。顔真っ赤だよ。何か思い出したんでしょ?教えてよ」
あ、と声を上げたまま固まっていたキルアは、ゴンが興味津々といった表情でこちらを覗き込んでいることに気付き、我に返った。けれどもこの思い出をキスの経験として話すのは、いくらなんでも恥ずかしい。
子供の頃の、間接キスだなんて。ほっぺにちゅーよりレベルが低いだろう。
「なんもねーし、顔も赤くねー!」
この話は終わりだ、と強引に話題を打ち切っておきながら、ストローに口づけたキルアはたった今思い出したばかりのジャイ子のことを考えていた。
あの孤児院のことも、彼女のことも、すっかり忘れてしまっていた自分に驚いたが、実質あそこで過ごした時間はごくごく短いものだった。なんてったって拾われた当日の夜には神父をあっさり片付けてしまったし、その後ジャイ子達は保護者を失ってどうしたのだろう。また別の孤児院にでも引き取られたのだろうか。犯人がキルアであったと、彼女は気が付いただろうか。
「なぁ、ゴン、オレさ、」
甘酸っぱいだけの思い出ではない。もしかしたら、彼女はキルアを恨んだかもしれない。それでももう一度ジャイ子に会ってみたい、ジャイ子が今どうしているのか知りたいと思った。
今の今まで綺麗に忘れていたくせに、自分でもおかしな話だと思う。けれどもあの日キルアのために自分の食糧を分けて、秘密のデザートまでご馳走してくれた彼女が今どんな風に成長したのか、今もあの時と変わらない笑顔で過ごしているのか、ふと知りたくなってしまったのだ。
「前に親父を探すゴンについていって、やりたいことを探すって言ったろ?
やりたいこととまで言っていいのかわかんないけどさ、とりあえず、会ってみたい奴のこと思い出したよ」
「へぇ」
「ゴンが今カイトのために一生懸命なのはわかってる。だからこれが終わったら、だ。終わったら、お前もオレの寄り道について来てくれるか?」
「もちろん!」
「ん、そっか」
ちゅっ、と吸ったメロンソーダは、あの花の蜜よりもはるかに甘かった。ぴりりと舌を刺激するそれは炭酸のものだし、あのとき家に縛られて自由がなかった状況とも何もかも違う。
「で、その人はなに? キルアの初恋の人?」
「ハ、ハァ!? おまっ、誰がそんなこと言ったよ!」
「だって、キルアったら顔を赤くして、急にその後会いたい人がいるなんて言うんだもん」
「ちげーよ! 別に、昔ちょっと世話になっただけで……てゆーか、この話はもう終わりだって言ったろ! ほら、さっさと飲めよ、あんまり遅いとまたあの女がブチ切れんだろ」
「キルアが避難しようって言ったのに!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら会計を済ませて店外に出ると、またこれでごく普通の、キルアたちにとってはごく普通の戦いの日々に戻る。暗殺の修行ばかりだった生活に比べれば随分と楽しいものだけれど、それでもやっぱり念の修行や鍛錬に明け暮れているあたり、人はそう簡単には変わらないのかもしれないと思う。
だからきっと、ジャイ子もあの日とそう変わっていないだろう。前よりは少し大人っぽくなっているかもしれないが、きっとあの悪戯っぽい笑顔は変わっていないはずだ。
「会えると良いね、その人に」
「あぁ、」
キルアは頭をガシガシ掻くと、「そうだな」いつもより小さな、それでいて決意のこもった声で呟いた。
▽
飛行船の揺れは、海上の船と同じでその大きさに反比例する。小さければ小さいほど揺れるし、大きければ大きいほど、陸上と変わらない安定した飛行をするのだ。飛行船の大きさに加えてゾルディック家が私用するものとなれば、安全性、安定性共にさらに高かった。その証拠に、テーブルの上に置かれたティーカップの紅茶には、波紋一つ広がっていない。
「イルミ様、キルア様は
「そう」
イルミは執事からの報告を受けると、顔には出さないまでも、また面倒なところに行ったものだと内心でぼやいた。機械文明を全て排して自然派を気取ったあの国には、文明の利器はもちろん、武器や嗜好品の類まで持ち込みに制限がかかっている。NGLを含むミテネ連邦自体に閉鎖的な雰囲気があるため、仕事の依頼が来ることは滅多になかったものの、だからこそイルミもあのあたりのことはさほど詳しくなかった。
「キルは今度は何をしに行ったの」
「キルア様は
「まぁ、ハンター協会なら大丈夫か」
ハンターだからと言って安心するわけには行かないが、協会のトップと祖父には繋がりがある。少なくともあの会長の言うことを聞く人間に、そこまで危険な人物はいないだろう。
「まだキルには刺さってるしね。危なくなれば自分で逃げるか……」
「報告は以上です」
「わかった。引き続き、何かあったら、」
言いかけてイルミは、そこで口を閉ざした。これまで淡々と報告をしていた執事が、泣き出しそうな、それでいてどこか嬉しそうな、なんとも言えない表情をしていたからだ。
「何かあったの?」
「いいえ、なんでもございません」
「お前にじゃない、キルにだよ」
「いえ、そちらも」
執事はそれだけ言うと、黙って頭を下げた。
雇い主の中でも恐れられているイルミの話を勝手に打ち切るなど、他の執事には考えられない所業だ。が、彼女は珍しくイルミ自身が雇うことを決めた、いわゆるイルミ専属の執事であり、付き合いもずいぶん長い。
そのため、イルミは彼女の名前をちゃんと覚えていた。彼女がどういう経緯でゾルディック家にやってきたのかも。
「どうせジャイ子のことだから、またキルが成長したとかなんとか、そんなことで感激してるんだろ」
「……」
「監視は続けろ。ただしオレがいいと言うまで接触は許さない。キルがジャイ子のことを覚えているかはわからないけどさ、物事にはタイミングってものがあるでしょ?」
「はい。キルア様には秘密ですね」
そんなふざけた言い回しを好むのも、昔からのこの女の癖だ。
だからイルミは何も言わない。言わないがジャイ子だって、まさかこれが素敵な秘密でないことくらいよくわかっているだろう。
彼女が退出し、一人になったイルミは、ようやくそこで目の前のティーカップに手を伸ばす。鼻から抜ける茶葉の香りは上品で、今日の毒は神経系にくるものだった。もはや何も感じないが、味で毒の種類がわかってしまう。
「これ淹れたの、ジャイ子だな。あいつ以外に淹れさせてっていつも言ってるのに」
ため息をついたイルミは、一口だけ飲んで元のようにカップを置いた。「甘いんだよ」雇い主の好みを無視して、勝手に砂糖を入れるとは何事か。特に、ぴりりと刺激があるようなタイプの毒に、彼女は毎回砂糖を山盛り入れる。
曰く、その甘さと刺激が病みつきになるそうだ。理解はできないが、何度もそう言われればいい加減にこちらも覚えてしまう。
イルミはもう一度大きなため息をつくと、言い訳をするときの、反省の欠片もない、彼女の悪戯っぽい表情を思い出した。
命知らず――仲間内ではそんな風に言われているらしいが、イルミはジャイ子を許しているのではなく、どちらかというと諦めているのだ。
本当に昔から、彼女は何度言っても変わらない。