きみはエゴイスト


(モブの死有り)


『仕事を頼みたいんだ。 ジャイ子にしか頼めない』

 残された留守電を流れる中、溜息のかわりに煙草の煙を吐き出した。お気に入りの靴の形をした透明の器に灰をひとつ落とす。人の心を動かすのが上手いこと。普段は苦いのに、彼の声を聞いているときだけ甘いこの味。換気扇に吸い込まれていく煙が目に染みる。

 狡くて、甘くて、それでも好き。

 特別なんて望まない。望んだところで何になるって言うのよ。わかりきった失恋なんて、柄じゃない。あたしが一番、わかってる。大丈夫、まだ、彼の隣に笑顔を繕って並べるわ。

 電話をかけ直す勇気は持ち得ていなくて、別件の仕事中だからとメールで全ての用件を纏めてもらう。簡素な彼からのメッセージに安心して、返した文字はたったの二文字。可愛げのないそれに呆れたって、もう取り返しはつかないんだから。最後の灰を落とす。あたしの恋もこんな風に火が消えて、ゴミ箱に捨てられたらいいのに。そうすれば、痛いんだって叫ぶ心臓を、知らずに済んだ。


「初めてみるドレスだ。 似合ってる」

 曖昧に笑ってスーツ姿のクロロの隣に並ぶ。ヒールを履くと縮まる身長差が良いのか悪いのか、いつもより高い目線に彼の目は映さない。メイクも巻いた髪もクロロの隣では映えるというより、付属品の作り物の"笑顔の綺麗な人形"になる為の道具だ。どれだけ綺麗な女を連れているかで見る目が変わるこの世界は醜くて、汚い。

「今日は下見だから、そんなに緊張するなよ」
「わかってるわよ。 ねえ、この招待状は本物なの?」
「ああ。 さっき親切な人に貰ったんだ」
「悪いひと」
「今日はまだ悪いことしてないぞ?」
「嘘が下手ね」
「お互い様だな」

 パーティ会場のエントランスで受付を済ませ、彼の腕に絡んでいない方の掌をぐっと丸める。今だけ、恋人。笑うのよ、あたし。誰よりも綺麗に。

 それなりに時間が経った頃、クロロから送られてきた写真の中で下卑た笑いを浮かべていた男が視線を投げかけていることに気がついた。成金風情が。アンタに手に負える女だと思われたことの苛立ちをどうにか堪えて、薄く笑みを返す。クロロの欲しがる古書を持っているという男ならば、取り敢えずの媚を売らねばならない。なんと言ってもこの成金野郎はこの豪邸を、いつもパーティ会場としているという。持ち主に似て趣味の悪いこの建物は古書のみならず、必死で集めたであろう宝石やら価値あるコレクションを飾る場所でもあるのだ。

『下見と言っても隙があるなら奪っても殺しても良いかもな』

 言ったのはクロロだ。パーティ中はこの大広間以外、全て施錠してある事も踏まえたらあの男からどうにか鍵を貰うのも良いかもしれない。確実に視線があたしを捕らえた時。そっとクロロに見えない位置で手を振る。釣れても釣れなくとも。どっちだって良い。

「お手洗い、行ってくるわね」
「一人で平気か?」
「流石に平気よ。 少し待ってて」

 わざと成金野郎の横を通って、扉から出る。

 
 あたし、悪いけど綺麗なのよ。

 そんじょそこらの女に負けない、くらいね。


「素敵なお嬢さん。 お一人で何処へ?」

 ほら。顔でしか女を見られない可哀想な蝿が一匹。

「気分が悪くなってしまって…。 夜風に当たろうかと」
「そうか。 もし良ければ、横になれる場所を用意しよう」
「えっ、良いんですか?」
「此所は私の家ですからな。 パートナーにはお互い、内緒に」

 厭らしく腕が腰に回された。臭い息とともに吐かれた台詞に頷く。あ、これ、上手くいきそう。クロロが欲しがっていた本の名前を忘れないように胸に留めて、成金野郎に引かれるまま長い廊下を歩く。最中で男の名前はロバート・アルマトニだと教わった。ぷっ、変な名前。

 この建物に彼が住んでいるわけではないらしい。案内された部屋はまるでホテルの一室。生活感のない、皺のないシーツが下品なゲストルームのようだった。

 逸る気持ちを抑えられないのか無遠慮に伸びてくる手に、自分の手を重ねてシャワーを強請る。

「先でも後でも構わないから、せめて、ね?」

 夜はまだこれからだから。そんな安い台詞に騙されて先にシャワーを勧めた男に従って、またも下品なバスルームへと足を運ぶ。クラッチバックの中に怪しいものも、万一携帯を覗かれても困ることはない。……帰りが遅すぎるけど、クロロならきっと放っておいてくれるだろう。あたしが簡単にヘマをしない事を彼は知っている。その程度の信頼ならあるはずだった。

身体を許すのに抵抗があろうが、処女でもあるまいし。クロロの為、と言い聞かせると悪くない、そういう気分になる。ああ、馬鹿な女。ずっと側にあった体温がないかわりに、香るエゴイスト。振り切るように洗い流す。つん、と鼻が痛んだ。クロロの役に立ちたい。体の良い恋人役に選ばれるだけの存在でも、利用価値がほしい。シャワーの熱に浮かされた心臓がどくどくと落ち着かない。一服しよう。震えているのは身体か、心か。

 クロロに褒められたドレスを男に脱がされるのは嫌で、用意されてあったバスローブを着て男が待つ場所へ戻る。男がシャワーを浴びている間に、鍵があったら盗めば良い。無かったら抱かれたあとに強請るのだ。部屋へと来る途中に延々と聞かされていた自慢話で、コレクションに思い入れが無いのはわかっている。少し大袈裟でも欲しがれば、この手に落ちてくる。クロロの欲しがるものを手に入れる事だけを考えると、勝算しかなかった。


「随分遅いトイレだな。 まあ、迷ってたみたいだが」


 勝算しか、なかった。筈だった。


「なに……してる、のクロロ……」
「良いから服を着ろ。 ジャイ子がシャワー浴びてる間に狙ってたものは手に入れた」
「嘘、でしょう」
「嘘ならそこに死体は転がってない」
「だって何の音もしなかったし、クロロの気配も……!」
「仮にも盗賊だからな。 ほら、騒ぎになる前に帰るぞ」

 バスローブを脱がせてあたしが持っていたドレスを丁寧に着せてくれる。背中のジッパーを上げてもらいながら、この状況を整理しようと部屋を見渡しても変わったことは死体が一つ転がっていることと、クロロの為にと心に留めておいた題名の書かれた本があたしのクラッチバックの横に置かれていることだけ。

「髪の毛乾かすのは、悪いけどあとだ」

 ドレスを着せ終わったクロロが古書とともにあたしのバッグを手に取って、落とすなよ、と一言。頷くと手を引かれて、走り出す。えっ、と思ったときにはもう遅い。

 クロロに抱きかかえられながら、夜空に舞った。

 バッグよりも古書を落とさないように必死に胸の中にしまい込む。背中と膝裏に回るクロロの手に全てを委ねて。驚くほどに衝撃がないまま着地をして、パーティ会場だった場所がどんどん遠ざかる。道の端に停まる車の助手席を開けてあたしを詰め込むと、彼は運転席へと乗り込む。

「クロロの車なの?」
「ああ。 シャルに手配させた」
「用意周到ね……」
「誰かさんが思いもよらない行動に出たから急いで用意させたんだ」
「……怒ってる?」
「もう良いから喋るな」
「ごめんなさい」
「喋るなと言ってる」

 それから車内にはただじっと沈黙が続く。運転する彼を見るのは初めてだったけれど、隠し切れていない苛立ちが所作に混じる。窓から流れ込む夜風が冷える髪と同じように心の熱も奪っていった。そっと肩を抱えて丸くなっていると、急ブレーキがかかる。

「ほら、着てろ」

 クロロの温かさが残るスーツのジャケットが背中と肩を覆う。シャワーで流したはずの、エゴイスト。有名なブランドの香水はクロロだけが使ってるわけじゃなくて。彼以外が纏っている香りを感じたこともあった。それでも、不思議とクロロが纏うと他とは違う。……苦しくて、甘くて。息をするのが辛い。またも鼻の奥がつーん、と痛んで。でも今度は我慢出来ずに、一粒。涙が落ちる。

「……俺が、今日ジャイ子にして欲しかったことは古書を奪うことでも、ましてやあいつに取り入ることでもない」

 喋るな、と言われていた手前何を言えば良いのかわからずにドレスに小さな染みをただ増やした。不意にクロロの手が目尻に触れる。

「もう何処にも行かないから化粧落ちても良いだろ?」

 殆ど触れたことのない親指がゆっくり目尻、頬へと滑り落ちる。

「あいつは良くて俺がだめなんて、ことは無いよな」
「ど、いうこと?」
「……自分が何処に連れてこられたのかもわからないのか?」

 その言葉に窓の外へと目を向けると、きらきら光る看板に休憩4200ジェニーと宿泊9600ジェニーの文字が大きく書かれている。

「……えっ」
「そういうこと。 ほら、行くぞ」

 ねえ、ここラブホテルだよ!?

 張り上げてしまった声に一瞬後悔するが、そんなことは気にしていられない。あたしはクロロが好きだから良いかもしれないが、都合の良い女になってやる気は断じて無いのだ。きっと、身体を重ねたら我慢が出来なくなる。人間はわがままで、欲に際限は無いから。身体の次は心もって、重ね合わせるように愛を欲しがってしまう。

 そんな女になりたくない。

 馬鹿な女でも、そこまで堕ちたら戻れない。

 思いっきり顔を歪めてしまったあたしに、クロロは不思議そうな顔をする。好きだけど、愛されてないから抱かれたくありませんなんて、そんな格好悪い台詞を言うのか、あたし。いや、言うしかないだろう。

「あんな奴に触れさせる為に、大切にしてきたわけじゃない。抱かせろ。話はそれからだ」

 来る衝撃に、目を瞑る。息を吸い込むと胸一杯にクロロの匂いが広がって、それが苦しくて、苦しくて、あまりにも幸せだった。三度目の涙は、一粒程度では終わらない。クロロの胸をゆっくりゆっくり湿らせていく。例えるならば今まで我慢してきた全て涙が流れてしまう感覚。

「旅団にだって女はいる。 それでも隣なら、俺は迷わずジャイ子を選ぶ」

 その言葉の意味がわからないほど、馬鹿じゃない。しかし、その言葉をクロロが思っているよりも良いように解釈するくらいには粘着性の想いを抱えている。それは自分でもわかっていた。というより、あたしの恋心なんだから。あたしが一番理解しているのが当たり前だ。

「これをどう受け取ってもいい。 その受け取り方で関係性が変わる」
「……彼女が良いって、言っても?」

 それを望むまで言わせる気だった。耳の奧へとねじ込まれた声にぞくりと身体が震える。それはもう、寒さでも、知らない男に抱かれようとした恐怖でもない。

 ああ、やっと。シンデレラになりたいと願って、想いを込めたあの灰皿を家に帰ったら粉々に割ってしまおう。いつか煙草の火のように消えてしまえと泣くのを我慢した。でも、この想いは。もう、きっと。この身を焼く尽くすまで消えないだろう。