あかいふうせん
――苦痛を感じてるときの顔が好きなの。
そう言って笑う彼女に、背筋が寒くなる思いがしたのはつい昨日のことだった。彼女はふわふわとした少女のような女性で、いつも微笑みを絶やすことはなくその愛くるしさからたくさんの人に好かれる。出会ってからそれまで、ずっとそんな
――笑顔でいれば誰もが安心してくれる。誰もがわたしを無害と思ってくれる。その顔がね、絶望に染まって苦痛に歪んでしまうのがたまらなく好きなの。
その、おかしな光景に佇んで、出会ってからずっと変わらない、見慣れた愛らしさで微笑う彼女にゾッとして、まるで風船が弾けるみたいにして逃げ出してしまったのを覚えている。今でも思い出すだけで、あの恐怖が……赤黒く染まった世界が鮮明に浮かんであれから一切空洞のままの胃から重たい塊がせりあがってくるのを感じてしまう。
肉片が。
腕だった。脚もあった。胴体がねじれて……ぬいぐるみの綿のように内臓がこぼれていて、
くび。が……
転がる頭部が埋め込んだ濁った魚のような目がダイレクトに脳から視界へと映像化されて、とうとう吐いてしまった。
ずっと吐き続けているというのに喉からせりあがる胃液はあんな映像を目にして尚消化物を求めているらしい。
ああ、だめだ……。声にならない声で呟く。これを今ひとりで抱え込んだまま過ごすにはあまりにも馴染みがない感覚でどれほど図太い神経の持ち主でも難しいことだ。
一晩抱えるので精一杯だった。いつアレが。あの首が自分にすげかわるかも分からない。
「だいじょうぶよ」
うなだれ、震えていると頭上から優しい彼女の声がした。狭くなった喉の奥が息を吸おうとして奇怪な音を立てる。
だいじょうぶ。やわらかくやさしくたおやかに耳朶をなでた声は、あの赤黒く鉄臭い世界でわらう……、
「わたしねジャイ子の、わたしを見る目がすき。飴玉みたいにきらきらしてて、舐めると甘いんだろうなっていっつも思ってた」
隅々まで綺麗に手入れされた細くて白い指が頬に触れる。あたたかさはちゃんと感じるのにそこから伝わる体温に凍りつくように筋肉がこわばった。
「ジャイ子はいつだってわたしを見てくれてしんぱいしてくれて……やさしくしてくれた。だからね、わたしジャイ子のことはちゃあんと愛そうってきめたの。この目を濁らせるのはもったいないし、こんなにふわふわな体なのに抱き心地悪くするのはいやだし、首だって手足だって、ジャイ子の体についてないといやだもの」
でもね、やっぱりジャイ子の顔もちゃあんと苦痛とか絶望とか恐怖で歪めさせたくて。
繋がれた手首をしなやかな手つきでなでられて、爪をたてられる。全身が恐怖で敏感になっていたから、それだけでも痛みを強く感じて――
恍惚な表情でこちらを見下ろす彼女が歪んで見えたのは両目に張った水の膜だけが原因ではない。
「ずっと愛してあげる。ずっと眺めてあげる。その目をいつかは舐めてあげたいな。その唇からこぼれる胃液だって吸い取ってあげる。ジャイ子はわたしのこと愛さなくてもいいのよ。愛してくれてもいいわ。どっちにしてもわたしがあなたを歪めてしまうのだもの。だから」
そうやって一本線を引くように爪が手首から肘までをなぞる。いたみと恐怖にひきつる表情を間近で見ようと彼女は夢中だった。
むちゅう、だったのだ。首が
愛くるしい笑顔で左斜め上へと移動する彼女の頭部と視線をあわせたまま首を動かす。「ジャイ子」と歪んだ声が既に事切れた唇からこぼれ落ちて戦慄する。
顔から胸へ生暖かく降り注ぐ色と噎せ返るような鉄のつよいにおいに、また吐き気を覚えて視界がまわる。ぐるぐるまわって、そのまま暗闇に塗りつぶされてしまったら、いいのに。
「ソレをワタシが許すとおもてるか。この、アバズレ」
耳に滲みこむ黒い声。視界をおかすのは、黒衣の男だった。細い目が頭のない体を踏み躙る。小さな体で細い足が容赦なく踏み潰した背骨がバキリといやな音を立てて曲がった。
ああ、だめだ……。胃の上で言葉が掠れてしまう。だめ、だった。
「ジャイ子」
「っ、ぅ……」
彼女だったものの上に乗ったまましゃがみ込む彼と目をあわせる。闇ににごって歪んだ両目に絡めとられて身動きがとれない。
もう一度名を呼ばれた。そのまま舌が、目の下に這う。いつの間にか溢れ出ていた液体を何度も赤い舌がぬぐいとっていく。
「ジャイ子、もうダイジョウブよ。お前はワタシが――、」
ああ、だめだ。もう……
黒衣に包み込まれながら悟ってしまう。
赤い舌が拭った液体のように吸い取られて……もう、逃げられない。
笑顔で濁った目をする彼女は、それでもこちらをみつめていた――。