変わらぬ朝をはじめよう
習慣とは恐ろしいものだ。
毎日毎朝、海の向こうから射し込む陽の光を浴びながら歩いて行く。両手には焼きたてのパンを持って、丘の上を目指す。
軽やかに潮の香りが風に乗って届くのは、くじら島のいいところだけれど、髪に絡み付いてくるのはいただけない。そう思いながら、いつも通り手櫛で髪を整えて、ひとつの扉をノックすれば笑顔とともに迎えられた。
「おはよう、おばあちゃん」
「はい、おはよう。いつもありがとうね、今日もいつも通りでいいかい?」
「うん、お願いします」
「はいよ」という言葉とともにおばあちゃんは家の中へ進んでいく。私もそれに倣って、定位置である椅子に座った。少しすると、ふんわりとコーヒーの香りが部屋を満たした。
家がパン屋をやっている私は、いつもこの家へ焼きたてのパンを届けにくる。そのついでに、朝ご飯をいただいて帰るのだ。これは昔から続いているもので、本来なら、私の隣にはこの家に住むゴンが座っていた。彼と1番年の近い私に巡ってきた役割であった。
習慣とは恐ろしいものだ。ゴンが「親父を見付けて戻ってくるから!」そう言って出て行ってからも、変わらずこの席に座ってしまう。それを受け入れてくれるおばあちゃんとミトさんには感謝を伝えねばと思う。飽きもせず懲りもせず、ゴンを待つ私に誰かを重ねるようにするから、尚更。
けれど、どういうわけか、今日はその感覚が薄い。首を傾げて、尋ねてみれば返ってきたのは嬉しそうな笑み。
「そうそう、あんたにも伝えようと思ってたんだ。今日からはまた、騒がしくなるよ」
「誰か泊まりに来てるの?」
「泊まりに来てるんじゃないよ、あの子が、」
「あっ、ジャイ子!!」
被せるようにして響いたのは、懐かしい声で。私は一瞬、時間が止まったような心地になった。おばあちゃんの言葉の続きは、きっと私の名を呼ぶ、この声に全て込められている。
バタバタと床板を踏み鳴らし、私の隣までやって来た存在を仰ぎ見る。ああ、懐かしい顔だ、背が高くなったかもしれない。見上げる角度が大きくなった。でも、変わらない雰囲気が私に寄り添う。ゴンが、帰ってきた。
「ゴ、ゴン」
久しぶりに音にしたためか、少し上擦った響きになり恥ずかしさが胸を打つ。それでも、確かめるように丁寧に口にした。私にとって大事な名前だ。
ゴンは私の隣に座って満遍の笑みを浮かべた。それを見て、久しぶりに暗闇から外に出た時のような感覚に陥った。目を細めて見れば、ゴンは何を思ったのか真面目な顔を作ってキョロキョロと視線を動かした。
「ねえ、ジャイ子」
ゴンがまっすぐ私の名前を呼ぶ。
「オレがまた一緒でもいい?」
何のことか、一瞬分からなかった。けれど、椅子の背もたれに掛かった指先に力が籠もったのを見て、この習慣のことだと気付く。ゴンは自分の居場所を守ろうとしているように見えたのだ。
気付いたけれど、私もだいぶ長く待ったもので、気持ちが少しささくれていた。ほんのり意地の悪いことでも言いたくなってしまう。はじめの言葉は「まあ、いいけど、いいんだけど、」だった。
「もし、帰ってくるのが1日遅かったら、これからは別の人に一緒に食べてもらおうと思ってた」
そんなのは嘘だ。きっと、あと1日、1ヶ月、1年遅くたって、きっと私は変わらないだろう。でも、嘘をつかせておいてほしい。嬉しくてたまらないから。どんなに平静を装おうとしてもほどけてしまうくちびるを引き締めるためのおまじないだ。
私の強がりも、本当の気持ちも、そうしなければ全部崩れてしまいそうだから。それを知ってか知らずか、ゴンは真面目な顔から一転して、パッと明るい表情を浮かべた。
「てことは、1日早く帰ってきたから、オレが隣にいてもいいってことだよね!」
「調子いいなあ」
「えへへー、だってジャイ子、イヤとは言わなかったじゃん。また一緒に朝ご飯食べられると思ったら、嬉しかったんだ」
「……ホント、調子いいんだから。島を出たのはゴンの方なのに」
「それはそうなんだけど、ジャイ子と一緒にご飯食べてるのがオレじゃないのはやだなって」
世界を駆け回るハンターになってしまったのに、ワガママだなあと思ってしまう。けれど、そんなゴンの些細な言葉が、私の隣に空白を縛り付けてしまうのだ。そんなこと、当の本人は分かっていないかもしれないが。
どんなに悪態を吐こうとしても、結局ゴンのペースに持っていかれてしまう。ワガママなヤツだと思いつつ、加速する嬉しさを止めることもできない。ゴンの前で、私は無力だ。
そんな私を尻目に「あ、そうだ」と思い出したよう呟いた。満足そうな笑顔が、私の心を満たしていく。
「ただいま、ジャイ子」
「……おかえり、ゴン」
口にしたら、胸の奥がじんと痺れた。甘やかな気持ちが湧き上がる。「やっぱり、ちゃんとジャイ子から"おかえり"って言われると、帰ってきたー!って感じがする!」と喜ぶゴンは天然タラシだ。そんな風に言われたら、私はその言葉を伝える役割を担いたくなってしまう。
そんなことを思う私なんか御構い無しに、ゴンの追撃は容赦ない。
「もし、今日ジャイ子が来なかったら、家に行こうと思ってたんだ。ばあちゃんとミトさんとジャイ子に、最初におかえりって言ってもらいたかったから」
……訂正しておこう、私はもう"おかえり"を伝える役割を担う気でいる。きっと、これから先も変わらない、ゴンのためだけの役割だ。
習慣とは恐ろしいものだ。
それでも共に1日をはじめよう、いつも通りに。いつかまたゴンが変化する日が来るとしても、私はここでいつも通り朝ご飯を食べて、コーヒーを飲んで、彼の帰る場所でありたいと願うのだ。