塀の上の卵


 会いたくてクロロの家を訪ねた。本棚ばかりのクロロの部屋を見渡しておすすめの本を聞いたら、「また今度にしてくれないか」と困った様子で嘆息された。

 いきなり訪ねた私が悪いんだけど本気で迷惑そうなその顔はあんまりだった。つきあいはじめてからのクロロはつめたい。前はもう少し話をしてくれたのに。「ホントに私のこと好きなの?」って口からとび出してしまいそうな言葉をいつもぐっとこらえて飲みこんでいる。

 来たばかりだったけどありもしない急用をこしらえてクロロの家を出た。同じソファに座っているのに読みかけの本しか見ていないクロロの隣にいたら泣き出してしまいそうだったからだ。泣きたかったけど泣いたら終わりだと思った。

「へー?で、めそめそ泣いちゃったジャイ子ちゃんはオレに縋ってきたわけだ」

 シャルは王子様として絵本に出てきそうなその顔でチェシャ猫のような笑みを浮かべた。行儀悪く肘をテーブルについて手の甲に顎をのせ、指先でつまんだストローからアイスコーヒーをちゅうと吸いあげている。

 まさか、またこのぼったくり恋愛相談事務所を頼ることになるとは思わなかった。クロロとつきあえるまでは大変お世話になった、もとい、大金を並々と注ぎ込んだけどもう縁は切れたつもりでいた。

「それがひさしぶりの常連に対する態度なワケ?」
「べつにオレはジャイ子が塀から落ちて割れてもとに戻らなくなっても痛くもかゆくもないんだけどね?」
「誰がハンプティダンプティよ」
「態度でかいとこまんまだし、まさにうすい塀の上で風に吹かれてる生卵な状況じゃん」

 強い風にあおられて塀から真っさかさまに落ちた卵がぐしゃりとつぶれる光景を想像した。全然わらえない。枝の上に優雅に寝ころんでいるチェシャ猫にみおろされる想像までしてしまった。全然わらえない。

「聞きたいんだけどさあ、クロロが読んでる本ほうり出してジャイ子の話につきあってくれたらホントにうれしい?」
「……うれしいでしょ。私と話すほうがいいって思ってくれたってことなんだから」

 シャルは真意を探るようにみつめてきた。普段はいらない口数が多いシャルが静かになる瞬間は苦手だ。
 もしクロロが読書より私を優先してくれたらうれしいに決まってる。隣にいてもいいんだって思える。つきあわないかって言ってくれたのは夢なんかじゃなかったんだって思える。

「こじれてるなー。ジャイ子さ、会いたくて会いに行ったって言ったけど、好かれてるって安心したくてウジウジした態度で突撃されてもオレならめんどくさいだけだね。たぶん団長も一緒」
「め、迷惑かもとは思った!けど、それでも会いに行こうって勇気だしたんでしょ!」
「それ不安にかられただけ」

 シャルにばっさりと言い切られて返す言葉はなかった。頼るたびにグサグサと心をくし刺しにされている。もう私の心はゲームオーバー寸前の瀕死だ。

「テンションあがるのはわかるけど団長にのめりこみすぎ。前のほうがやさしかったのはジャイ子を釣る気があったからだよ。本来はクールだってちゃんとわかってたじゃん。それも忘れてるんじゃマジでグシャっといっちゃうよ」
「そうだけど……。だってクロロなに考えてるのかわからないよ。ちょっとわかってきたかなって思ったのにやっぱり全然わかってないって思う。一緒にいればいるほどわからなくってあせるの」
「団長がなに考えてるかなんてオレも知らないけど。オレにとっては卵で金ヅルでしかないジャイ子が団長にとってはかわいらしいアリスみたいなんだなってことぐらいは分かるよ。エサやらない団長も悪いけど彼女になってからヘンに慎ましくおしとやかになってるのどうにかしなよ。ホラ、ありのままのジャイ子が一番」
「う、うさん臭い……なんかとてつもなく腹立つ……」

 それでもクロロと長年のつきあいがあるシャルにそう言われると満たされた。ちゃんと私がクロロの彼女なんだなって思える。

 シャルはズズッと音を立ててアイスコーヒーを飲みほして席を立つと、「それじゃ、まいどあり」と一人であっさりと喫茶店を出て行った。テーブルの上に残された伝票の上にはしっかりと一枚の請求書が重ねられている。あのさ、アイツ本気で風上におけなくない?