飢餓のない国


(※残酷描写あり)


暗雲が垂れ込めてきた夜更けのことである。とある教会の一室で、私は地べたを舐めていた。遠くで雷鳴の轟く音が聴こえてくる。

私の義父は熱心な信徒であった。町の人間には表向き誠実な顔をするため、それなりの人望を勝ち取ってきたような功利的な人間である。
しかし、果たして義父は横暴な男であった。何の裏付けも無いまま「神託(しんたく)が下った」のだと(のたま)い、幼い頃から私を貪り、暴虐の限りを尽くしてきた。

―― あぁ、主よ……! どうか私の声が届くのであれば、その御耳をお貸し下さい。
私はこの声の続く限り、何度でも、何千回でも、何万回でもあなたに跪拝(きはい)してきました。
それでもなお、あなたは我が御魂をお守り下さらぬと申すのですか。祈祷が足らない下賤者だと仰りますか。私の価値は、あなたに取って虫けらにも及びませんか。
でしたら私は、一体何を頼みとして生きてゆけば良いのでしょうか。

義父は、当然の如くほざくのだ。

(たっと)い神は人間に対し平等な存在ではないのだ。より敬虔な祈りでなければ神の御耳には届かぬ。ジャイ子、お前には不敬の陰りが見えるぞ」

にやり、と義父は軽薄な笑みを浮かべると薄汚れた靴底で私の頭を容赦なく踏みつけた。
虫唾が走った。嫌悪がこみ上げた。吐き気を催した。しかし、私の身体は奥歯を噛み鳴らし、ただただ震えるばかりである。
義父は私にとって恐怖の対象でしかなかった。恐怖政治でちっぽけな私という人間を支配し、私の安穏な日々を攫っていった。私にとっての世界は、義父の機嫌をいかに損ねないかで決まると称しても過言ではない。

しかし。義父にも、私に取っても、この晩は予想外の出来事が引き起こったのだ。
私の頭を凌辱していたはずの義父が、今度は立場を変えて床を舐めることとなっていた。それは、正しく信じられぬ光景であった。
“一人の男”によって、義父の頭は床に踏みつけられていた。私はその光景にしばし己の目を疑ったが、幾度瞬きを繰り返そうともその事実が揺らぐことはなかった。
美麗な光彩を放つステンドグラスの前で、男は義父に尋ねた。その静かで仄暗い声を、この世に溢れるどんな滑稽な言葉でも形容することは出来ないだろう。

「この教会に何世紀も前に隠匿された本があるだろう? オレはそいつの在り処を探している」
「な、何だ……貴様は……! 聖職者である私に対し、こんな仕打ちをして神が許すと思うのか!」
「“神”という実態が無いものは信じない主義なんだ。それよりも、黙ってオレの質問に答えろ。いちいち時間を無駄にしたくはない」

その男は、兎角美しい容姿を有していた。
黒翡翠とも見紛う妖艶な双眸。非の打ち所のない完璧な造形。透徹した美の結晶。
たとえ神の遣いが天界より舞い降りてきたと言われようと、きっと私は疑うこともなかっただろう。

「ジャイ子!お前には散々恩を与えてやっただろう!そこで何を突っ立っている!警察でも呼んで来い!このウスノロ!」

無様にも、床に平伏した義父は私に向けて怒号を挙げた。
びくりと肩を揺らした私のことを、その男が見逃すことはなかった。

「……そうか。随分と良い“御身分”なんだな」

―― だが、 と男は続ける。

「この結末は、自業自得だろう?」

そう妖しく男が嘲笑うと、まるで砂で造った城塞を壊すかのように、いとも容易く義父の頭蓋は悲鳴を上げた。
彼が義父の頭を踏み付けると、骨が軋み、体液がごぷりと耳障りな音を立てた。義父だったモノは、床の上で呆気なく押し潰れた。

人間一人の生命が事切れたというのに。仮にも父親が暴漢の手にかけられたというのに。
不思議と、私の心は穏やかなまま義父の亡骸を眺めていた。
男は、既に興味を失したのか今度は私に声をかけてきた。

「お嬢さん。オレはこの教会に眠っている秘蔵書を頂きに来たんだ。君は、その存在を知っているだろうか」

……そうだ。美しく微笑んだ男の手中に、私の生命は握られている。
恐らく、彼の意にそぐわない返答をしようものなら、私は義父と同じ運命を辿ることになるのだろう。

―― あぁ、主よ。悪魔のような男に魅入られた私は、この罪を贖うことなく地獄へと堕ちるのでしょうか。地獄では、死するよりも残酷な仕打ちが私を待ち受けているのでしょうか。
―― ですが、主よ。幾ら待てども、我が御心に応じない主よ。
あなたに我が声が通じないのは、あなたが存在しないという証明に他ならないでしょうか。
それとも、単に私はこの男に毒されてしまったのでしょうか。今なら、蛇にそそのかされて興味本位に禁断の果実を齧ってしまったイヴの気持ちにも寄り添うことが出来ます。

「なぁ、言葉を理解出来ないわけではないんだろう?」

だが、しかし。
たとえ、私の進むべく道に無慈悲な仕打ちが待ち受けていようとも。
私の身体が恐怖に震えることは、もう決してなかった。