こぼれた、心臓
小さな、まだ幼い娘だった。
生きている者の怯えた気配を感じて開け放ったクローゼットの隅で、膝を抱え震えている。
仲間たちはこの屋敷の中に貯めこまれた宝石や美術品を運び出し、セキュリティシステムを遠隔で操作していたオレは現場にはやや遅れて到着した。着いたときには邪魔な家人や雇われ警備員も使用人も無言で血だまりに伏すばかりだったし、荷運びの仕事もたいして残っていない。なんの気なしに厨房の奥にある住み込みの使用人の部屋まで入ってしまって、いくつか連なる狭い一室に少女はいた。
「きみ、なまえは?」
この部屋から出て惨劇を見てきたのだろうか。それとも、ずっとここにいて物騒な物音や悲鳴を聞き息を殺して潜んでいたのだろうか。
にっこりと笑みを浮かべて声を掛けてみたものの、少女は答えない。クローゼットの上部にかかる衣類が座り込む彼女に影を落とし、表情までよく見えなかったので膝をついて視線の高さを合わせた。少女にはこれ以上の逃げ場などないのに後退ろうとして、背中を打ち付ける。
「大丈夫、怖くないよ。オレはシャルナーク。シャルっていうんだ。」
出来るだけ怖がらせないように、ゆっくりと、彼女の下方から手を差し伸べる。
膝をついて近付いてみて少々驚いた。
彼女は、オレと同じ細くてやわらかな金色の髪に、透明感と深さを合わせた翡翠色の瞳をしている。縮こめている身体の大きさや顔のつくりからすると、5から7歳くらいだろうか。正直、このくらいの女の子の年齢を判別できる自信はない。
少女は背中をぴったりとクローゼットの壁につけたまま、オレが差し出した手のひらを見つめている。戸惑うように、思惟するかのように何度かオレの目を見て、そして唇を開いた。
「パパ、と、ママ、は?」
「先に行ったよ。」
「先に……?」
「あれ、聞いてないのかな?パパとママは新しい仕事に行ったんだよ。でもそこは、ここからうんと遠いから、きみはしばらくの間、オレと暮らすんだって。パパとママにお願いされてるんだ。ほら、髪も目の色もきみとオレは同じだろ?」
ペラペラと適当なことを喋りながら、髪も目も同じ色だなんて、まるで兄妹みたいだと思う。
流星街で生きてきた、それ以前の記憶などもはや霧の向こうだが、妹がいたらこんな子だったのだろうか。ぼんやり考えていると、ようやく少女が少し身じろぎをした。
「シャ、ル、お兄、ちゃん?」
ふいに彼女の唇からこぼれた音は、何故かオレの胸の奥にたまる。
髪の色と目の色が同じなだけ、そのくらいならどこにでもいるし、ましてや特別に美しい少女でもなんでもない。ただ、オレの言ったことを信じるか信じないか思慮しながら不安に揺れる瞳で見上げてくる少女が、唐突に「欲しく」なった。
「ほら、大丈夫だから、オレときみの新しい家に行こう。」
もう一度にっこりと笑みを向け、もう一方の手も差し出して両腕を広げる。さあおいで。
彼女はまだ不安そうではあったけれど、壁を蹴るように立ち上がり、そのまま広げたオレの腕の中に飛び込んだ。抱き止めて、髪をなでる。肩をさすって、そのまま抱き上げてしまうと、オレは立ち上がった。
少女は高くなった視界に驚いたようにオレの首に両腕でしがみつき、ややあってグズグズと泣き出す。
「パパ、ママ、なにも、言って、なかった。ジャイ子は、悪い子?」
「違うよ、新しい仕事に急いでただけだよ。ジャイ子はいい子。」
子どもってこんなに静かに泣くものだっただろうか。オレの首に顔を埋めて小さな声ですすり泣く少女の背中をさすってやりながら、ゆっくりと仲間たちのいるところに向かう。厨房を抜けて、廊下を進み、仲間たちの姿が見えたときには少女の泣き声は寝息に変わっていた。
「おま、シャル、なんだその子ども!?」
「静かに、起きるだろ。」
「どこで拾った。」
正面からうるさいフィンクスと、背後から静かに団長の声がする。たぶん、団長は少女の顔を覗き込んでいるのだろう。
「住み込みの使用人部屋。別にいいよね?今日のオレの戦利品。」
よいしょ、と抱きかかえ直しながら振り返れば、団長がかすかに笑む。好きにしろの表情だ。
「おいシャルまじかお前。」
「だからフィンは声がでかい。起きる。」
「まじか!お前!」
「いった!ウボォー、やめろってば。」
誰よりもでかい声のウボォーに背中を叩かれて、遠慮のない音と振動に、深くもない眠りから彼女が覚醒しようと小さく唸る。やばい、と思った瞬間に、団長が素早く自らのコートを彼女の頭上から掛けた。ナイスフォローに感謝しながらコートが落ちないようにコートごと抱き直し、彼女の視線をファーで塞ぐ。
ところ狭しとばかりにゴロゴロと転がる死体を見られたら、いくら幼いとはいえ騙しようがない。
「シャ、ル?」
「新しい家に着くまで、もう少し寝てて大丈夫だよ。」
うん、と小さな声が耳元で聞こえ、そのまままた寝付いたようで腕の中の重みが増す。
笑いを堪えるように口を押さえる強化系二人を視線で制しながら、オレは足早に屋敷の外に向かった。
この日、オレの心臓はジャイ子の元に、こぼれ落ちたのだ。