未知の呼吸
「イ、イルミさん、ごめんなさい。つぎ、次はちゃんとやるので、だから、」
「お前ってほんと使えないね。さっさ諦めたらどう?」
イルミが突き放すように言うので、ジャイ子はぐうの音も出ずに唇を噛んだ。役に立たず地べたに座り込んで、膝を汚す姿を何度見ただろうか。溜息を態とらしくつけば、細い肩が震えた。
出会いは、高層階の薄暗い部屋にて。
今回イルミが受けた依頼のターゲットは女好きで毎日毎夜無理矢理少女を買い、食べ散らかしているという情報があった。隙があるのならば付け入るのが定石である。人間は1つのものに集中していればいる程、他への注意は散漫になる。それが興奮状態であったならば尚更だ。
女に覆い被さって息を荒くしている男に針を刺すのは、吐き気がするほど簡単だった。糸が切れたように崩れ落ちた男を見て、イルミは任務完了、と心の中で唱えた。
けれど、先程から1つも声を上げない女に気付きイルミは首を傾げた。彼にもたらされた死の外装は綺麗だけれど、唐突に命の途切れた男を見れば悲鳴くらい上がってもおかしくないものだが。
イルミは快楽殺人者ではないので、依頼でなければ態々不要な殺しをすることもない。けれど、目撃者として情報をばら撒かれてしまうのは面倒だ。殺しておこうかと思い、ベッドを覗き込めば彼女のうっそりとした瞳と目があった。彼女はそこではじめて呼吸を知ったような顔をした。
「な、なにか、何かお手伝いできる、ことは」
転がり出たのは悲鳴ではなく、訳のわからない言葉だった。けれど、これが2人のスタートだったことは間違いない。殺す気はすでに削がれていた。
ジャイ子と名の付いた少女は、イルミが自分を助けたと思ったのか、はたまた彼に付いていけば生きる力が身につくと思ったのか、その後も彼の前に頻繁に現れた。後ろを付いて歩く姿は親鳥に寄り添う雛のようだが、親鳥本人がそれを耳にすれば静かに怒りを灯すだろう。
たまに役に立つが、8割は役に立たない。いらなくなったら棄てればいいし、邪魔なら始末すればいいのだが、機を逸していることにイルミは気付いていなかった。
追い返しては目の前に現れを繰り返すので、根負けしたというのだろうか。たまに仕事で役に立ち一言掛けてやれば、喜びに満ちた顔をする。その様子はイルミがキョトンとしてしまうほどだ。そんな反応を返された経験がない彼は、絆されてしまったのだと側から見たものは言うだろう。もちろん、本人は気付いていないことなのだが。
イルミは複雑な内心をそのまま吐露するように「あー鬱陶しい」と零した。それが耳に届いた瞬間、ジャイ子の瞳からはじめて水分が零れ落ちた。彼からの叱責は常だが、存在に対して苦言されるのは初めてであった。
落ちはじめたが最後、重力に従ってぼろぼろと落ちてしまい、彼女自身が止めようと拭っても止まらない。
しばらくその様子を眺め、イルミはふと浮かんだ言葉を噛み締めた。そんな姿を見ていると、なんだか、
「そんな風に泣かれると、」
イルミは自分の胸にすんなりと浮かんでしまった言葉が理解できず、閉口した。そんな風に泣かれると鬱陶しい、苛つく、邪魔だ、消えて欲しい。そんな言葉ではない、棘を抜いて角を丸めてしまったような言葉に驚いたのはイルミ自身だった。
……困るって? 一体、何に困るというのか。泣き叫んで雨のように涙を落とす人間たちをごまんと見てきたのに。知らず知らずのうちに、溜め込んできた未知の感情にイルミは頭を抱えざるを得ない。
「イルミ、さん?」
「なに、黙っててくれる?」
ぐすりと鼻をすすったジャイ子は相変わらず、水の膜を揺らしている。耳を打つ彼女の声が自分自身を揺るがしそうで、腹が立つような感覚。ただ、じんわりと腹の奥底から熱が伝ってくる。
「ジャイ子」とイルミが呼べば、ふるりと喉が震えた。呼吸を噛み締めながら、彼女はイルミの次の行動を待っている。イルミはこの不可解な熱が、好意という名のもとに発生するものなのか確かめたかった。家族に向ける愛情とは似て非なるこの感情がなんと名のつくものなのか、確かめる必要がある。ジャイ子の丸い、すべらかな頬に指先を添えた。
今まで1度も触れたことがない、未知のものに触れ、触れられる心地だった。触れれば柔らかく、力を入れれば容易に崩せる感触に困惑した。冷んやりとしているだろうと思っていた指先は思いの外、柔くあつく、異なる温度に胸のうちが跳ねた。
「い、いるみさん……っ」
「黙ってろって、言ってるでしょ」
輪郭を確かめるような熱の動きに、ひくりとジャイ子の肩が震える。はじめて呼吸をしたような彼女の表情を見て、熱に浮かされた理由をイルミは認識したのだ。